縄文時代と稲作①

今日も小名木善行さんのお話です。

学校では、弥生時代に稲作が始まったと教わりました。
縄文時代は狩猟採集生活であり、突然稲作が大陸から伝わり弥生文化が始まったと。

戦前・戦中にはそういった説もあったそうですが、戦前はそもそも、縄文時代・弥生時代という考えはありませんでした。
縄文式土器・弥生式土器というものはありましたが、時代区分としての縄文・弥生というものはありませんでした。

稲作に関しては、はっきりとしたことが分かっておらず、天照大神から稲穂を授かってから始まったという教え方を学校でしていました。
しかし、戦後のGHQにより神話教育が全否定されることとなります。
それで、どうやって稲作が始まったのかの説明をすることが難しくなり、縄文式土器・弥生式土器の違いがあるところから時代区分を作り、その合間に稲作が伝わったということにすればわかりやすくなるのではないかということで、かなり意図的にその「風説」が作られました。

そしてそれがまかり通るようになり、教科書にもそのように載るようになります。

四大文明の嘘④

モンゴロイドはたくさんの食べ物を持っています。
そして争いがありませんでしたので武器を持っていません。
コーカソイドは獲物がなければ食べることはできませんので、基本空腹です。
そして武器を持っています。
・・・となれば、この話の展開は見えますよね。

モンゴロイドたちは襲われ、食べ物を奪われ、法律などないような時代ですから女性たちは強姦され、最後は皆殺しにされました。

殺された方のモンゴロイドは当然怒ります。
そして、殺されたことの恨みがこもっていますので、報復の仕方が残酷になります。
残酷に仲間を殺されたコーカソイドはさらに残酷にモンゴロイドに報復をします。
これを繰り返すうちに残酷さが増していきました。

そして、いつの間にか血が混じって、外見はモンゴロイド、中身はコーカソイドという人種へと変化していきました。
これが今のチャイニーズです。

もともと、日本と同じ民族であった人たちが、他民族との争いのなかで他の人種へと変貌をしたということです。
このお話は、アイヌと似ています。
アイヌは先住民族だという人が大半だと思いますが、もともと今の北海道にあたる土地にも縄文人がおり、樺太・大陸と陸続きだったために大陸からやってきたオホーツク人に襲われ、殺され、強姦され、一度は北海道から駆逐されてしまいました。

これによって生まれたのがアイヌ人です。
アイヌの登場は13世紀の鎌倉時代後期です。
先住民でも原住民でもありません。

これらのお話から分かるように、大陸の文化というのは略奪と殺戮による支配です。
一方、日本のそれは協調と助け合いによるものです。
どちらが「文明」といえるでしょうかね。

ということで、もともと、黄河文明というのは、自国に失望していたチャイニーズを励ますために日本人が教えてあげたものであり、成立の年代も適当に決めたということが分かりました。
それよりも、文化的にもっと先を行っていたのが縄文文明だと思います。
もし、「四大文明」に入れるのであれば、黄河文明より縄文文明だと思いますがね。



四大文明の嘘③

海面上昇した結果、同じ文化を持った人たちが、日本とチャイナに別れて住むようになった、というのが、長江文明が形作られた要因でした。

朝鮮半島に関しては、2万年前は山岳地帯で人は住んでいませんでした。

そもそもモンゴロイドは人と争うことをしなかったのですが、今から約4000年前、黄河流域にコーカソイド(白人種)が住み着くようになりました。

彼らは大型の動物を狩って生活をしていました。
それは、彼らがどういった住居に住んでいたかで判断が出来ます。
古代の住居としては、当時、竪穴式住居と高床式住居がありました。
竪穴式住居は、地面に穴を掘ってその上に家を建てるのですが、引っ越しがしやすい特徴があります。
コーカソイドはその竪穴式住居に住んでいました。
獲物を追ってあちこちに移動するには竪穴式が適しているのです。

一方、高床式は、水田を営む人々にとっては暮らすことができません。
なぜなら、水田に水を引くと、地面よりも低い竪穴式では浸水の恐れがあるからです。

コーカソイドはおそらく、ヨーロッパから獲物を追って長江流域にたどり着いたと考えられます。
そうして獲物を追っていくうちに、やがてモンゴロイドの住む長江流域にたどり着きます。

次回に続きます。

四大文明の嘘②

この黄河文明を興したのは、アジア人ではなく、コーカソイドだというお話をしました。
長江流域には、稲作と高床式倉庫による、モンゴロイドの文化が根付いていました。
彼らは、日本の縄文文明と同じで、人が人を殺めるという考えがありませんでした。

なぜ、日本人とおなじような人々や文化があったのか。
それは、当時の地形が物語っています。
Google Mapsの衛星写真で、日本列島がすっぽりと入るまで写真を縮小して見ていただければ分かりますが、東シナ海が薄い青色であることが分かります。
これは大陸棚です。
昔は大陸と日本が陸続きでした。
ちょうど沖縄から台湾あたりが非常に浅いことが分かります。

ちょうど2万年前、海面の高さが今より140m低かったそうです。
そうなると、大陸棚のあるところがちょうど陸続きであったということです。
琉球諸島もほぼ陸続きでした。

ちょうどその頃は寒冷化でそのあたりは住みやすかったそうです。
また、琉球列島と大陸の間は浅い海であることからプランクトンが繁殖しやすく、魚がたくさん捕れましたので、このたりには人がたくさん住んでいたそうです。

しかし、今度は温暖化すると陸地がなくなりました。
そこで一部の人が日本列島に、一部の人が長江流域に移動しました。
ということで、元は同じ文化を持っていた人が、日本とチャイナに別れたということです。

次回以降に続きます。

四大文明の嘘①

私たちは学校で世界の「四大文明」を学びました。
エジプト文明、インダス文明、メソポタミア文明、黄河文明・・・

時代は清の国。
この頃、多くの留学生が日本にやってきました。
その多くは、辛亥革命から自国の誇りを持っておらず、自らを蔑んでいました。
そこで励ましたのが日本人でした。
「チャイナには黄河文明というものがあるではないか」と。

その留学生たちが本国に帰って本を書きその支持が広がったという経緯があります。

その「黄河文明」、5000年前の文明だとされていますが、実は年代が適当です。
当時日本は皇紀2600年くらいでした。
彼らは単純に「その倍でいいだろう」という決め方をしました。

これだけです。

長江文明

黄河文明より遡ること約2000年、長江流域には、高床式倉庫があり、稲作の文化がありました。
これを長江文明と言います。
ということは、チャイナにおける文明の発祥は、黄河からではなく、長江流域となります。

そしてこの「黄河文明」を興したのはモンゴロイドではないと証明されています。
これを興したのはコーカソイド(白人)でした。

明日はこの続きをお話します。



教育の恐ろしさ

最近になって、ワクチン3回目の接種が政府の思惑通りに進んでいないことからか、総理自身が「ワクチンを打ちましょう」などとコメントを出す始末。
さらにひどいのはNHKです。
「天才てれびくん」で忽那氏が子どもに対して「ワクチンを打ちましょう」と言っているのには驚きました。

このことが何を示唆しているのか?

それは「教育の恐ろしさ」です。

教育現場での反日教育

良くも悪くも、教育は子どもに多大な影響を与えることは当たり前ですが、日本の場合は戦後から一貫して悪い影響を与え続けていることです。

一番の原因は学校で「平和教育」という蓑を被った自虐史観教育と、神話を駆逐したことでしょう。

わたしたちの世代も同じようにその自虐史観を植え付けられました。
わたしは成人してからネットや本でようやくその真実を知ることができましたが、中にはそのまま大人になり、現在に至る人々が圧倒的だと思います。
こういった情報は、こちらから求めなければ得られないものです。

また、古事記・日本書紀の「内容」を学校で教わることはなくなりました。

その根本原因はGHQでした。

GHQは日本弱体化のために日教組を組織し、「教え子を再び戦場に送るな」という建前の元、徹底した自虐史観と「平和教育」を植え付け、日本国民を「お花畑思考」にさせることに成功しました。

この教育を変革するには、大元の文科省や教育委員会の変革が必要ですが、その文科省や教育委員会の人員の多くが共産勢力である以上、すぐに変えることができないのが現状です。

改めて学校で教えている歴史の教科書をみて驚くことがたくさん載っています。
日本は文明が遅れていたとか、稲作はチャイナから朝鮮半島を経て伝来したとか、大東亜戦争で日本軍が南京で多くの人々を殺したとか、「日本の発展はチャイナと朝鮮のおかげ」のような言い草で目も当てられません。
いまだにこんなことを平気で学校で教えているのかと、憤りを通り越し、なんともやりきれない気持ちになりました。

こうして今も戦後の「平和教育」という御旗の元、左傾化教育を施し、大量の反日・自虐国民を世に送り出している現状を理解するべきだと思います。

インドネシアの反日教育

また、「日本悪玉論」は日本だけにとどまりません。

ある時、インドネシアの若いお客様一行をご案内した時、彼らが口にした言葉が衝撃的でした。

「日本はオランダが300年支配していた時より、日本が統治していた短い期間でそれよりずっとひどいことをした。日本人は残酷だ」
と言ったのです。

信じられませんでした。

わたしは、インドネシアは親日国だと思っていましたが、どうやら今のインドネシアの歴史教育では、日本は悪者にされてしまっているようです。
お年寄りの世代が「いやいや、日本はそうじゃなかったんだよ」と言っても聞く耳を持ってくれないと、どこかで読んだことがあります。
インドネシアでも反日教育が浸透しつつあるようです。
おそらくですが、これには中国共産党が深く関与しているものと思われます。

事なかれ主義に奔走する政府

このままでは、日本が本当に悪者にされてしまいます。
日本人の毅然とした態度、勇敢さは戦後鳴りを潜め、今は「事なかれ主義」に奔走する体たらく。
最近のニュースでも、北朝鮮がミサイルを7発も打っておきながら「遺憾」しか述べない岸田首相、佐渡金山の世界遺産登録見送りを発表したことなど、他国の顔色を伺いながら発言する情けなさ。
枚挙に暇がありません。
それもこれも、GHQによって骨抜きにされてしまったことが原因でしょう。

いったい世界のどこに、自分の国を自分で非難する国があるのでしょう?
自国の神話を学ぶのに自分で勉強しなければならないのでしょう?

おかしいと思いませんか?

虫歯を治療すれば、その歯は治ります。
しかし、「予防歯科」という考えがなければ、また虫歯ができてしまいます。
これではいたちごっこです。
日本の「お花畑思考」「自虐思考」を戦前の思考に変えるのは、文科省と教育委員会の変革の「予防歯科」しかありません。
ここが教科書の採択を牛耳っている限り、この負の連鎖は永遠に終わることはないでしょう。

小手先だけの治療ではそれこそいたちごっこになるだけです。

菅原道真と遣唐使廃止

以前にもこの内容の記事を書きましたが、今回は小名木善行さんのお話を元に、改めて菅原道真と遣唐使廃止についてご紹介したいと思います。

以前の記事については、こちらをご参照ください。

唐との関係

遣唐使廃止の経緯

菅原道真公は、当時全盛だった藤原氏の中で一生懸命勉強をして頑張り、天皇の信頼を得て出世をしました。

当時の藤原氏は、唐との交易で大変な財をなしていました。
いわゆる「チャイナ利権」です。

今に例えると、チャイナに工場をつくったり、日本の工場にチャイニーズをたくさん雇って人件費を浮かせたりして、その差額で大儲けをする、つまり、日本の大手スーパーでありとあらゆるものを大量に売って大儲けする、といった感じです。

当時の藤原氏の政権というのは、今に例えると、民主党政権時代に当時の大企業の兄が総理大臣だったということです。
その結果どういうことが日本で起こったか?

まず、約束というものが守られなくなります。

地位と権力があれば、裁判だろうが何だろうが自在に操ることができるようになります。

残酷極まりない事件が次から次へと起こるようになりました。
しかも犯人は一切逮捕されません。

そのような情勢の中、菅原道真は「唐の国と付き合う必要はない」と、遣唐使の廃止を決定します。

これは民衆にとって何が大切だったかがお分かりになっていたからです。

今で例えると、

チャイナで安く物を作って日本で売りまくる

→日本国内の産業を奪う

→日本国内の雇用も奪う

→一部の企業のトップの人たちだけが莫大に儲かる

という流れになり、人々はますます苦しい生活を強いられるようになります。

ある地方都市では、大企業の工場がチャイナに引っ越しをしました。

その工場が跡地になりました。

その跡地に、某大手スーパーが大型スーパーを出店しました。

地元では雇用が生まれたと大喜びしました。

しかし、工場があった方が雇用はありました。

しかもその工場はその都市に登記していたために、税金は地元に納められていました。

ところが、大手スーパーは地元に登記をしていなかったので、その都市の税収は落ち込んだままでした。

さらに、大型スーパーの出店が元で、地元の商店街がバタバタと潰れてシャッター通りになってしまいました。

はたして、この流れがいい流れと言えるでしょうか。

ということで、菅原道真は藤原氏が牛耳っていた唐との交易による収入システムを廃止するために遣唐使を取りやめにし、藤原氏の「一人勝ち状態」をやめさせたのでした。

こうなると、面白くないのは藤原氏です。

これがきっかけで左遷させられてしまいます。

渡航失敗の最大の理由

渡航者が命を落とすことが多かったからやめた、ということが学校で教えられていますが、これは、「航海上の危険」の意味を取り違えています。

当時の遣唐使の成功率は25%でした。

4艘の船のうち、行きで半分が無くなり、帰りの2艘のうち1艘が無くなる・・・結果、4艘出て帰って来られる船は1艘だけ、というものでした。

遣唐使の船には、日本国内の優秀な若者-男性だけではなく、唐の国で舞や仏教を学びたいという女性も多く乗っていました。

その命が4分の3も失われていたのです。

そもそも、それだけリスクが高い航海であれば、なぜ朝鮮半島から陸路を通って行かなかったのか?という疑問が湧いてきます。

遣唐使には、嵐のない時期をわざわざ選んで行っていたにも関わらずです。

これは、海を渡るよりも、朝鮮半島を歩いて行った方が、よりリスクが高かったことを示唆しています。

朝鮮半島の海賊に襲われていたからです。

朝鮮半島の海賊たちが船を襲った時、そこに乗っていた女性はどうなったか、もう想像がつくでしょう。

これは、終戦直後に日本の女性たちが朝鮮半島でどのようなことをされたのかということと同じことです。

1000年前も1000年後も一つも変わっていません。

実際、海賊に襲われて宮古島まで流れ着いて助かったという記録も残っています。

よって、船が沈んだのは嵐ではないのです。

襲われたのです。

そこまでのリスクを犯して命からがら唐から無事に品物を持って帰って来られれば、その品はかなりの高値がつきます。

よって儲かります。

しかし、多くの若者の命や安全を危険にさらしてまでもしなければならないことなのか、ということなのです。

この時、すでに唐は争いばかり起こっていて学ぶべきものは一つもありませんでした。

現にその後すぐに(道真公の建議から13年後)唐は滅亡してしまいます。

その後菅原道真は左遷させられて亡くなります。

そしてタイミング良く?京都で疫病が流行し、藤原氏がバタバタ死んでいきました。

それを見た民衆はどう思ったか?
「これまで一生懸命勉強をして出世して民衆のために働き、危険な唐への派遣も取りやめてくれた、その道真公の祟りだ、それ見たことか」となり、その御霊を鎮めるためにつくられたのが天満宮だということはみなさんも周知の通りです。

菅原道真公は常に民衆に寄り添うために尽力し、巨大な利権に立ち向かったすばらしいお方です。

保身のために言いたいことが言えない今の政治家には、道真公の姿を見習ってもらいたいものです。

神社の役割

阿須賀神社

今回は神社の役割についてです。
現在の神社は、単にお参りに行くだけのものになっていますが、昔は様々な重要な役割があったことをご存知ですか?

米の管理場

昔は、出来上がった米はすべて神社に奉納していました。

米を預かった神社は、一定の時期がくれば籾米(もみまい)を育てて苗を作って農家に配り、農家はそれで再び稲を植える、そしてその稲を再び収穫して神社に奉納するというサイクルがありました。

米は長期保存ができるため、その年に奉納した米は蓄えられ、古古米(3年経った米)が人々に配らていました。

税としての米

お米の管理はそれだけにとどまりません。
農家から奉納された米の2~3割、全体としては概ね半分を県単位の神社、または国司に税として納めます。

「納税」を受けた国司は、その3割を地元のために取っておき、残りの2割を中央(朝廷)に送ります。

全国で収穫されて集まったその2割の米を中央が管理し、災害などが起こって米が穫れなくなった地域があればその地域へ分配するという仕組みを取っていました。

地域によっては、自分たちが治めた何倍のも量の米を返してもらうことができました。

日本における年貢制度は、災害保険としての意味合いがあったのです。

人々が集う場所

田植えをする時に水を引く順番を決める時など、村で会議をする時などはすべて神社で行っていました。
今であれば公民館とか農協などで話し合いがされると思いますが、昔は神社がその場所でした。
話し合いの場が神社から公民館になったのは、戦後にGHQが取った政策の一つです。

そして収穫があると神社で祭りをします。
これはいまだに残っています。

神社のネットワーク

中央で元号や暦が変わると、神社のネットワークを使って全国津々浦々にその情報が浸透していきました。

中央(朝廷)の命令は天社(あまつやしろ)に下され、次に国社(くにつやしろ・都道府県単位の神社)に伝えられ、神地(かむどころ・市町村単位の神社)に伝えられ、市町村単位の神社は神戸(かむべ・町内ごとの氏神様)へと伝えられる仕組みがありました。

その速度は日本全国津々浦々、3日もあれば中央からの意向が全部に伝わったそうです。

新しい制度によって、全国ではどのようになっているのか、いい方向に行っているのか、またはその逆なのかを、今度はその情報を神戸(かむべ)から上に上げていきました。

神社のネットワークを使って我が国の統治が行われていたと同時に、人々と密接な関係があり、生活に密着していたことが伺えます。

神社のネットワークについては、こちらの記事もご参照ください。
歴史に学ぶ重要性(一国であり続けることの意味)

卑弥呼は存在したのか?

卑弥呼-「魏志倭人伝」に登場するこの「女王」、その存在が当たり前かのように捉えている方が圧倒的に多いと思います。
社会の歴史の教科書にも登場しますし、「邪馬台国はどこだ?」という論争もあり、「はじめから存在ありき」として語られています。

しかし、その存在を「あったもの」とする前に、「なかったのではないか?」また、「別の人物ではないか?」と考えると、辻褄の合う部分が出てきます。

今回は卑弥呼の存在が「なかった」「別人ではないか」ということについて考えたいと思います。

そもそも、魏志倭人伝とは?

魏志倭人伝はチャイナの三国志の中の一部で、晋の陳寿によって書かれたものです。
しかし、陳寿が実際に日本に行って見聞きしてきたものを書いたものではなく、日本に行ったことがあるという人から聞いた話を元に書かれているため、信ぴょう性はかなり怪しいものがあります。

その「日本に行ったことがある」という人物も、実際に日本に行ったのかどうかも疑わしいです。

仮に行っていたとしても、又聞きの話が本来の内容と異なることは、伝言ゲームのようなもので信頼のおけるものではありません。

邪馬台国はどこだ?

チャイナの歴史書・魏志倭人伝の中に登場する邪馬台国。
その邪馬台国はどこにあったのかが、魏志倭人伝には詳しく書かれています。
しかし、それを忠実にたどってみると、日本から大きく外れ、とんでもない海洋上に出てしまいます。

そして、日本で遺跡や遺物が発見されればこれは邪馬台国に関係するものだ、だから邪馬台国は九州にあった、いや、畿内だ、という論争が起こってしまいます。

だいたい、「畿内」ってかなり漠然としています。
仮にその畿内に国があったとしても、その都にあたる場所さえも曖昧です。
都があるならそれを証明できうるだけの大規模な遺跡が発見されるはずですが、決定打となるものはいまだ発見されていません。

素人考えですが、単純に「邪馬台国」を大和言葉に直せば「やまとのくに」であり、「くに」をチャイナ読みに変換して「コク」とすれば「やまとこく」となります。

限りなく「邪馬台国」の発音に近くなります。

私は、邪馬台国は大和の国であり、日本全体を指すと思います。
なので、「九州にあった」とか「畿内にあった」とい論争は不毛で意味がないと思っています。
「九州にもあったし、畿内にもあった」ということになります。

卑弥呼に関する遺跡もなし

さて、本題の卑弥呼ですが、これまた邪馬台国の遺跡と同様、それを証明するものは日本では発見されていません。

普通、歴史上にすばらしい功績を残した人物は、それを証明するかのように、彼らを祀る神社が存在します。

菅原道真、徳川家康、豊臣秀吉、楠木正成、近代でも、明治天皇、乃木希典、東郷平八郎など、枚挙にいとまがありません。

また、古墳や石碑なども多数あります。

神話に登場する神々も神社にたくさん祀られていますが、ホツマツタヱではこの「神々」は人間として描かれていますので、歴史上に功績を残された人物とも言えます。

かたや卑弥呼はどうでしょうか?

歴史上に名を残すほどの功績があったのなら、日本のどこかにそういったものの一つくらいあってもおかしくないはずですが、いまだ一つも発見されていないばかりか、神社はおろか石碑すらありません。

「卑弥呼」を発音から考える

さて、先ほどの「邪馬台国→大和国」ように、「卑弥呼」の発音から、単純にどのようなことが考えられるかを考察します。

結論からいうと、「卑弥呼」は「日の御子(ひのみこ)」つまり、天照大神のことであると思っています。

もちろん時系列は合っていません。

しかし、「大和の国は天皇の先祖である日の御子・天照大神の偉大なご加護の元にある」と解釈することもできます。

また、「日の巫女」と解釈する人もいるようですが、そもそも天照大神は男性ですのでこれは当てはまらないと思います。

なぜ外国の書物で歴史を検証するのか?

一番古い書物だからといって、それが正しいとは限りません。
熊野では、「熊野権現垂迹縁起」をよく用いて話をしますが、それも正しいのかどうかは誰にも分かりません。
ただ熊野の神について書かれた一番古い書物というだけです。

チャイナは王朝が頻繁に変わっているため、次々に新興王朝に都合のいい歴史に塗り替えられていきました。
特に、「中華思想」は変わりなく、チャイナ周辺の国を卑下する思想はどの王朝であっても同じだと思います。
日本のことを書いていても、おそらくはかなりの偏見があったものと思われます。

そんな信ぴょう性に欠く書物の研究をするより、なぜ帝紀や旧辞を探したり、ホツマツタヱなどで検証したりしないのでしょうか?

日本は国常立命が「常世国」を建国されて以来、一環して一つの国であったわけで、歴史が都合よく塗り替えられた可能性も、一部を除いて極めて低いと思います。

そういった書物の研究なしに、「邪馬台国は九州だ」とか、「卑弥呼とはどんな人物なのか」とか、挙句の果てに教科書にまで載る始末。
そして、「神武天皇は存在しない」と言い張る。
外国の書物が書いていることは正しくて、記紀などに記されていることは信用しない。
ホツマツタヱも偽書だという。

ここは一体どこの国だと言いたくなります。

古事記や日本書紀が編纂された時代にも、魏志倭人伝の存在は当時の人々は知っていたはず。
日本書紀の一部に少し登場するくらいでほぼ無視しているということは、魏志倭人伝は当時から歴史を語れるレベルではなかったことは明白でしょう。
昔の人はあまりにも嘘偽りが多いということを知っていたのでしょう。

ということで、結論としては、「邪馬台国の卑弥呼」は「大和の国の日の巫女=天照大神」ではないかということです。
まあ、これは私の意見なのでそれこそ信ぴょう性は定かではありませんが、一応筋は通っているのではないでょうか?

それよりも、もっと日本の書物の捜索と研究をすべきではないでしょうか。

遣日使

今回は、東北大学名誉教授、日本国史学会代表の田中英道さんの著書
日本の歴史 本当は何がすごいのか
の中でコラムとして取り上げられている遣日使についてのお話です。

奈良東大寺大仏殿南西にある正倉院は、聖武天皇と光明皇后の御物を納める、文化財の宝庫です。
その御物には、大陸から渡ってきた品々が数多く含まれています。
そこから正倉院は「シルクロードの東の終点」と呼ばれたりします。

それは事実なのですが、逆に日本から大陸に渡ったものはないのか、みなさんは考えたことがあるでしょうか?

遣隋使と遣唐使

日本の文化は遅れているから、中国や朝鮮から学び発展したという観念が特に戦後に浸透しました。

その代表例が遣隋使と遣唐使です。

遣隋使の初めは小野妹子の607年、遣唐使は630年です。
遣唐使は16回とか20回という説がありますが、いずれにせよ、それくらいの回数をかけて唐に行ったことは間違いないようです。

それによって、日本は発展したというのが今の論調です。

しかし、遣隋使の時代に裴世清(はいせいせい)をはじめ位の高い役人などが三十数艘の大船団で日本を訪れています。

いわば「遣日使」です。

唐の時代になると、さらに頻繁に日本にやってきます。
その人数もすごい。
たとえば669年と671年には2000人余りです。

新羅も日本に高い関心を持っていたようで、三十数回も来ています。

渤海(ぼっかい・満州~朝鮮北部~ロシアの沿海州の国)も33回来ています。

遣隋使・遣唐使のそれよりも遥かに多かったのです。

日本が遅れていた?

では、なぜ彼らがこぞって日本に来たのか?

それは、日本の文化を摂取するためです。

経済的には金、銀、絹など高い需要がありました。
文化的には日本の仏教と聖徳太子の思想を学ぶということもありました。
鑑真が日本への渡航に5回も失敗し、6回目にようやくたどり着いた話は有名です。
鑑真がなぜこれほどまでに日本に固執したのか。
それは、聖徳太子をはじめ、日本に定着している仏教を高く評価していたからです。

インド人、ベトナム人、ソグド人(中央アジアのイラン系民族)の僧も日本に仏教を学びに来ています。

この事実からみても、日本は諸外国に比べて決して遅れていた国ではないことがわかります。

人間は文化的に低いところから高いところへと流れる

奈良時代、日本も唐も諸外国も文化的には対等で、相互に学び合い、物を交流させていたのです。
田中先生は「だから、遣隋使や遣唐使と呼ぶのが誤解のもと。正確には交流使というべきだと思います」と述べておられますが、まったくその通りだと思います。

663年、白村江の戦いで日本が破れ、百済救済に失敗して百済が滅んだ時には、たくさんの百済人が日本に亡命して来ています。
9世紀初めには、関西圏の人口の3分の1は渡来系だったという説もあります。

日本が満州国を建国した後には多くの人がなだれ込み、一気に人口がが増えたということもあります。

「あの国へ行けばいい暮らしができる」となれば、そこへ移動したくなる心理も分かりますよね。

「人間は文化的に低いところから高いところへと流れる」

これが人口移動の鉄則です。

日本の歴史 本当は何がすごいのか (扶桑社BOOKS)