高原~近露王子①

滝尻~高原が一通り終わりましたので、今回からは高原~近露王子について数回に分けてお話をします。

庚申さん

滝尻~高原の間にも庚申さんがありましたが、こちらでご説明を。

向かって左が庚申さん。右は大日如来像

庚申さんとは、平たく言えば村の守り神です。
疫病や災いを村に入れないようにするため、だいたいは集落や村の出入り口にあたる場所に安置されています。

「庚申」とは「かのえさる」であり、十干と十二支の組み合わせによるものです。

十干とは、甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸で、読み方は「こう・おつ・へい・てい・ぼ・き・こう・しん・じん・き」です。

さて、ここから話がややこしくなってきます。

この十干に、「陰陽五行」の五行「木火土金水」をあてはめ、「甲・乙=木」「丙・丁=火」「戊・己=土」「庚・辛=金」「壬・癸=水」とします。

ここからさらに、五行を兄(え)と弟(と)に分け、木=木の兄(きのえ)・木の弟(きのと)、火=火の兄(ひのえ)・火の弟(ひのと)、土=土の兄(つちのえ)・土の弟(つちのと)、金=金の兄(かのえ)・金の弟(かのと)、水=水の兄(みずのえ)・水の弟(みずのと)に分けます。
これで10通りです。

ひとまず十干は置いておきます。

次に十二支です。

これはみなさんご存知の通り、子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の十二支です。

さきほどの十干の10と、この十二支の12を順番に組み合わせていくと、「金の兄(かのえ)」と「申(さる)」が合わさるタイミングがあります。
このタイミングを「かのえさる」と言います。

「金の兄」は十干でいうところの「庚」にあたるので、「庚」と「申」の組み合わせをもって「庚申(こうしん)」といいます。

10と12の組み合わせの最小公倍数は60です。
つまり、60回に一度「庚」と「申」の組み合わせが起こることになります。

この60日に一度来る日を「庚申の日」とし、この日は人々の体の中にある「三尸(さんし)の虫」が、人が寝静まったころに這い出て、その60日の間で、その人が働いた悪事を天帝に告げ口されると信じられていました。
天帝にひと度告げ口をされると、その人の寿命が縮んでしまうと信じられていたので、この日は、当時の人々は眠らずに一ヶ所に集まり食事をしたり酒を飲んだりして夜明けまで過ごしたそうです。

この集まりは、当時の貴重な情報交流の場であったようです。

三猿

庚申さんの像の下部には、だいたい三匹の猿が彫られています。
この三匹の猿は「見ざる・言わざる・聞かざる」を表していて、それぞれの猿が目と口と耳を押さえているのを見ることができます。

この由来については諸説あるようですが、私が聞いた話では「三尸の虫が這い出ないように穴を塞いでいる」というものがあります。
しかし、これでは鼻を押さえていなければ穴を塞いだことにはなっていないので、この説は違うのではないかと思っています。

私は、三尸の虫によって(悪事を)見られない・(天帝に)告げ口されない・(悪いことを)聞かれないようにするという意味ではないかと思っています。
あるいは、人々への戒めとして、(悪いものを)見ない・(悪口を)言わない・(悪いことや他人の悪口を)聞かないようにするためではないかとも思っています。
中国やタイなどでは四匹目の猿もいて、股間を押さえている「せざる」もあることから、やはり戒めとして三猿が彫られているのだと思います。

ちなみに、ここの庚申さんの説明板では「この庚申さんから夜間時々光が出ている」そうで、那須亀太郎さんが18歳の時にここを通りかかった時、ダイヤのような光を頂き、元気に過ごさせてもらっているそうです。

陰陽五行は日本由来?

さて、話は少しそれますが、陰陽五行は元来縄文時代の日本からその考えが始まり、それが中国に伝わり日本に「逆輸入」されたという見解もあります。

「陰陽」は「ヲ」と「メ」、五行は「うつほ(空)」「かせ(風)」「ほ(火)」「みつ(水)」「はに(土)」であり、これが日本語の母音のそれぞれ「あ」「い」「う」「え」「お」に当てはまります。

現在、ひらがなは表音文字として認識されていますが、古代の五十音にあたる文字にはそれぞれに意味があったそうです。

その代表例が「あいうえお」です。
すべての音がこの5つの母音・あいうえおに集約されることから、宇宙の根幹をなす5元素としてみなされていたそうです。

ヲシテのあいうえおと空風火水地」もご参照いただければと思います。

今日はここまでです。

滝尻~高原⑧

滝尻~高原の最終回です。

夫婦地蔵

元々、この場所にはなく、山の中にあったそうですが、山の持ち主さんがもっと多くの人にお参りしてもらいたいとこの場所に「遷座」したそうです。

高原熊野神社

創建は古く、1403年に本宮大社から勧請されました。
現在の社殿は1544年建立と棟札に書かれているそうですが、私は築600年ほどと習いました。
しかしこれは、勧請された年のことでしょうね。

御神体は懸仏(かけぼとけ)で、熊野の信仰である神仏習合を色濃く残しています。
懸仏とは、円形の銅板などに仏様の像を表したもので、社殿に懸けられていたことから名付けられました。
神仏分離令から廃仏毀釈の動きが起こった時、熊野の多くのお社は合祀されてしまいましたが、この高原熊野神社においては守られました。

社殿は檜皮葺(ひわだぶき)で、1998年までは30年に一度、屋根の葺き替え(と塗り直し)が行われていました。
その費用も目を見張る金額で、
1938年には30万円、1968年は200万円、1998年は2000万円、そして2016年には1400万円かかっています。

クスノキ

境内には樹齢1000年と言われるクスノキがあり、見る者を圧倒します。

このはるか下を流れる石船川(いしぶりがわ)支流の護岸工事をしている時に、クスノキの根が出てきたそうです。
ここから下の川まではクスノキが生えていないので、この木の根だと言われています。

木彫りの龍

また、社務所の横には木彫りの龍が安置されています。
この龍、2018年9月の台風21号で倒れてしまった樹齢約250年の御神木のひとつのタブノキから、チェーンソーで彫られたものです。
手掛けたのは、龍神村在住のチェーンソーアーティスト・城所ケイジさん。

死んでしまったものが再びこうして蘇る・・・まさに熊野を象徴していると思います。

棚田

熊野は自然と歴史が織りなす複合遺産として世界遺産に登録されています。
この棚田も、景観保護のために有志で管理しているそうです。
写真でも少し見えますが、収穫した稲を乾燥させるのに、昔ながらの方法が使われています。
田起こしの時季になると、上空をトンビが飛び回り、出てきたカエルを捉えようと狙っている姿に遭遇します。

写真の水車は2~3年前に「改築」されましたが、その費用に100万円ほどかかったそうで、地元の方々の寄付などで賄ったそうです。

ネットを見ると、よく「果無山脈が一望できる」と書いていたり、ガイドでもそう言って説明している人がいるようですが、正面に見えている山並みは果無山脈ではありません。
果無山脈も見えてはいますが、それはずっと右の端っこの方です。

以上で滝尻~高原は終わりです。
細かいスポットなどには触れてはいませんが、機会があればガイドと歩いた時に聞いてみてください。

滝尻~高原⑦

針地蔵

その名の通り、針に由来があります。
当時の高原集落では、歯医者などもちろんありませんでした。
地元の人が虫歯になった時、ここにお参りに来ると治るという言い伝えがあり、その痛みが治ったお礼としてブリキ(あるいは鉄)で出来た鳥居を納めるという風習がありました。
しかし、そういった素材で鳥居を作ることが難しいので、二本の針を鳥居の柱に見立て、その先端に糸を通すことで鳥居の代わりとして納めるようになりました。
そこから「針地蔵」と呼ばれるようになったとのことです。

先輩ガイドから聞いた話では、滝尻からの急坂に加えて、ここからの坂道で歩くことを諦め、この針地蔵をお参りすることで熊野に参ったことにして帰った人もいたと聞いたことがあります。

「熊野に参ったことにした」といえば、闘鶏神社でも同じような話を聞いたことがあります。
かつての巡礼者たちは身体の問題を抱えている人も少なくなく、とてもではないが本宮にお参りすることができないので、闘鶏神社をお参りすることで熊野にお参りしたことにした人々が多くいたそうです。
闘鶏神社は本宮から勧請されていますので、確かに熊野の神様にお参りしたことには間違いありませんよね。

ちなみに、闘鶏神社の社殿の配置は、当時の本宮大社の並びなのだそうです。
主祭神はイザナミ様、配祭神は速玉男神、事解男命、イザナギ様、天照大神、宇迦之御魂命・・・です。
面白いのは、速玉=イザナギではなく、別々に祀られているということです。
このことについては以前の記事「速玉大神について考える」をご参照ください。

今日はここまでです。
続きはまた明日です。

滝尻~高原⑥

剣ノ山

詳しくは説明板を読んでください。

・・・冗談です。

滝尻から、お客様をお連れすればだいたい1時間ほどで到着します。
かつてはここに経塚がありました。
標高はこの日の最高点、371mです。

経塚跡

経塚とは平安時代に生まれた末法思想によるもので、釈迦の教えが行き渡っていて、人々も悟りを開くことができる世を「正法」、信仰が外見だけ残り悟る者がいなくなることを「像法」、やがて真の仏法が衰えて世の中が混乱する世を「末法」といい、末法の世の子孫のためにお釈迦様の教えを残しておこうという先人たちが、お経を埋納したことに始まります。

ちなみに、「正法」は釈迦の入滅後500年、「像法」は1000年、「末法」は1万年を指します。

お経は「経筒」と呼ばれる青銅製の筒などに入れられ、鏡、合子(ごうす)、剣など様々なものと一緒に埋納されました。
経塚はここだけではなく、熊野にかなり多くあり、大規模なところでは大斎原の向かいにある備崎では約600巻の経筒が見つかっていますし、那智大社の別宮・飛瀧神社の入り口付近にも大規模な経塚が発見されていますが、現在は駐車場になっていますので、発掘が完全に出来ていないとのことです。

残念ながら、ここにあった経塚は約100年前に盗掘に遭い、滝尻の熊野古道館に展示されている常滑製の壷のみが発見されました。
それを聞いた当時の巡査が、ここにあった笠塔婆を持って滝尻王子まで降ろしたそうです。
なかなかの怪力の持ち主ですよね。

九品(くほん)の門

また、かつてはここに九品の門の一番目の鳥居があったそうで、本宮大社にいたるまでの道中に合計9つの鳥居があったそうですが、現存するものはありません。
唯一、大門王子にある礎石が残っている程度で、あとの門がどこにあったのかはわかりません。

9つの門はそれぞれ、

下品下生(げほんげしょう)、下品中生、下品上生

中品下生、中品中生(ちゅうぼんちゅうじょう)、中品上生

上品下生、上品中生、上品上生(じょうぼんじょうしょう)

を表しています。

生前の行いによって極楽浄土へ生まれ変わる時、あの世からのお迎えに差があると考えられており、下品から上品にいくほどお迎えのスタイルが「ゴージャス」になります。

たとえば 、上品上生では、僧がお経を読んでいる時に仏、菩薩、飛天など、大勢の仏様が迎えに来るのに対し、下品下生では誰も迎えに来てくれません。

当時の巡礼者は、この九品の門をくぐることにより滅罪されると考えていたのでしょう。
なので、無事に熊野にお参りを果たして里に帰った巡礼者は「上品の人(じょうぼんのひと)」と呼ばれ、崇められたそうです。

ちなみに、この九品の考えから「上品(じょうひん)」「下品」という言葉が生まれました。

今日はここまでです。
続きはまた明日に。

滝尻~高原⑥

テーダマツ

写真右側がテーダマツです。
原産はアメリカ南部。
以前語り部さんからお聞きした時の樹齢が約50年だったので、今は約55年でしょうか(笑)

滝尻~高原④

日記と日記の間に置かれているこの壷、これから行く剣ノ山の経塚から出土したものです。
ここで軽くこの壷について説明をしておきます。
これも後からつながってくるため、前置き程度でかまいません。
経塚の説明は剣ノ山で十分できます。

その他出土品と供物

他にも滝尻王子付近から出土した剣や、滝尻王子にい奉納されたものなど、たくさん展示されていますが、逐一説明する必要はありません。
私はだいたいこの辺りのものは流します。
たまに鏡について「これでどうやって自分の姿を見るの?」と聞かれます。
あなたは分かりますよね?

滝尻王子

いよいよ滝尻王子です。
創建は定かではありませんが、奈良時代(約1300年前)だろうとされています。
記録では約900年前に初めて登場します。
五体王子のひとつで、王子社のなかでも格式の高い王子社とされています。
五体王子とは、熊野の御子神五柱がすべて祀られている王子のことを言います。
ここまで覚える必要はありませんが、その神々とは、天照大神、天忍穂耳命(アメノオシホミミのミコト)、瓊々杵命(ニニギノミコト)、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)です。

・・・ここで疑問が生まれます。

あなたは何だか分かりますか?

ヒントは熊野三山の主祭神との対比です。











三山の主祭神は熊野夫須美大神、速玉大神、家津御子大神ですよね。
熊野夫須美大神はイザナミ、速玉はイザナギ(わたしは違うと思っていますが)、家津御子はスサノオとされています。

イザナミとイザナギの御子神といえば天照大神、月読尊、素戔嗚命、あと、ワカヒメ(ヒルコヒメ)、ヒヨルコ(早産で亡くなります)です。
古事記ではイザナギとイザナギがワカヒメやヒヨルコを、天照大神、月読尊、素戔嗚命をイザナギが生みますので話がおかしくなっていますが、ホツマツタヱによればきちんとイザナミとの間にもうけた御子神となっています。

とにかく、この三柱の神(天照大神、月読尊、素戔嗚命)が熊野の御子神とするならば、天照大神がなぜ序列的に素戔嗚命の下とされているのでしょうか?
また、月読尊は大日越にある月見ヶ丘神社の石の祠に祀られているだけで他に祀られているところを私は知りません。

ちなみに、天忍穂耳命(アメノオシホミミのミコト)、瓊々杵命(ニニギノミコト)、彦火火出見命(ヒコホホデミノミコト)、鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)は天照大神の子孫であり、イザナギ・イザナギの「子」ではないので「御子神」と呼ぶのは違うと思っています。
英語で「children deity」と呼んでいますが、正確には「descendent」です。

さて、話がそれましたが、兎にも角にも滝尻王子は重要な王子とされていたことは確かで、後鳥羽上皇はここで和歌会を開いています。

滝尻王子に参る前には、その前を流れる富田川(石田川)と石船川(いしぶりがわ・「いしぶね」ではありません)で身を清めてから境内に入ったそうです。
石田川(いわたがわ)の名はその昔、たくさんの岩があったことから名付けられました。

また、滝尻は富田川と石船川の合流点であり、轟々と滝壷のような音を立てていたので「滝の尻(壷)=滝尻」と呼ばれるようになりました。

昔はここに船着き場があり、富田川下流域の「宇立(うだつ)」まで船の往来があったそうです。
ちなみに、この「うだつ」という名前は卯(う)の刻、つまり5時~7時の間の日の出の時間に船が出ていたため「卯の刻に発つ」という意味から来ているそうです。

現在の滝尻王子の建物は、1999年の南紀熊野体験博の際に改築されたものです。

現在、建物の老朽化が進んでおり改築をしたいが寄付がなかなか集まらずに苦労していると「あんちゃんの店」のご主人から聞きました。
外国人の旅行者は増えましたが、お賽銭を入れる文化などまずありませんので、そのまま素通りして行く人がほとんどだそうです。
もしあなたがお客様をお連れするときは、お賽銭を入れてこれからの安全を祈願してあげてください。

藤原秀衡がこの地で子を授かったことに感謝をし、七堂伽藍建立し武具を奉納したといわれていますが、それがどこにあったのかは分からないとのことです。

明日は滝尻王子の境内地についてです。

滝尻~高原③

日記

藤原定家 後鳥羽院熊野御幸記

向かって左に展示されているものが、歌人・藤原定家が1201年10月、後鳥羽上皇4回目の熊野詣に随行した際に記された日記です。
「後鳥羽院熊野御幸記」と呼ばれていますが、正確には1180年~1235年に渡る定家の日記「明月記(愚記)」の中の一部です。

定家はこの時、いわゆる斥候として、一行の先回りをして各王子での奉幣の儀などの準備などする役割でした。

滝尻~高原②

出立の儀

京都城南宮を出発する前、約一週間に渡り精進潔斎をします。

肉、魚などの生臭物やニンニク、ニラ、らっきょう、ネギなどの強い匂いを発するものなどを断ちます。

滝尻~高原①

熊野古道館

このコースの始まりは、滝尻王子近くにある古道館です。
ここで熊野の概要をお話することができますが、注意しなければならない点として、あまり長く話しすぎないということです。
だいたいこの日が熊野古道行初日というお客様が大半ですので、歩きたくてウズウズしています。
その出鼻をくじくような長話をするとお客様は退屈してしまい、話を聞いてくれなくなります。
道中でもたくさん話す機会はありますので、道中でできる話は小出しにし、古道館での説明は必要最小限に留めるべきです。

ではいってみましょう。

平安衣装

古道館に入ると、まず目に飛び込んでくるのがこの平安衣装をまとった美男美女?です。
女性の衣装はおそらくよく見かけると思いますが、男性の衣装も含めて、この出で立ちで熊野古道を歩いたわけではありません。
この後ろに写真がありますが、巡礼者たちは白装束を着て歩いていたそうです。
これは、熊野に詣でることはよく聞く「蘇り」とされていて「擬死体験をする」という意味で死装束とされていることが由来だとか。
万一巡礼半ばで亡くなってしまえばそのまま埋葬され、持っていた杖を墓標の代わりに使ったとも聞いたことがあります。

地図と熊野古道

熊野は現在、5つのルートに分類されています。
まずは大阪・窪津王子に端を発し、田辺に至る「紀伊路」、田辺から紀伊半島を横切るようにして本宮を目指し、速玉大社から那智大社、さらに本宮へと結ぶ「中辺路」、田辺から海岸線を通って那智の補陀洛山寺に至る大辺路、高野山から本宮に至る小辺路、伊勢の神宮から海岸線を通って速玉大社・本宮大社に至る伊勢路があります。
昔は「紀伊路」と「中辺路」をあわせて「紀伊路」または「紀路(きじ)」と呼んでいたそうですが、現在は「紀伊路」と「中辺路」とに分けて呼ばれています。

そして、「熊野古道」と呼ぶかどうかは意見の分かれるところですが、同じく熊野と吉野を結ぶ「大峯奥駈道(おおみねおくがけみち)」があります。
元来、熊野古道は修験者によって開かれたものであり、それ以前から開かれていたこの大峯奥駈道が、熊野への巡礼道の先駆け的な存在です。
その影響が色濃く残っているのが「王子」と呼ばれるお社ですが、これはまたの機会にお話します。

よって、熊野と他の地域を結ぶ巡礼道は全部で6つあることになります。

ルートの分類(どこからどこまでが「大辺路」なのかなど)については様々な見解があるそうなので、あくまでも一例としてご理解ください。
一説によると、大辺路は新宮までだという説もあります。

展示物

古道館には様々な貴重な展示物があります。
これを全部説明しようとすれば30分くらい必要ですので、必要最小限のものだけにします。

私はいつも日記、壺、3枚の写真、刀の写真(左上)、笠くらいしか話しません。
この中で、壺と刀については案内中に話の続きが登場しますので、ここでそのきっかけを作っておくためです。

では、奥の左上、刀から。

黒塗小太刀

ピンぼけです・・・

奥州・藤原秀衡が熊野に詣でた際、妻(側室らしいですが)が滝尻王子近くで産気づき、乳岩に子供を残して熊野詣を続けます。
跡継ぎが欲しかった秀衡は喜び、この地に七堂伽藍を建立し武具を納めました。
その中のひとつがこの「黒塗小太刀」で、現在は和歌山県立博物館に所蔵されています。
ちなみに、この七堂伽藍、1585年・秀吉の紀州攻めの際に消失しました。
その七堂伽藍がどの現在のどの位置にあったのかは分からないそうです。

熊野懐紙

1201年、後鳥羽上皇参詣の折、道中様々な場所で和歌会(わかえ、いわゆる歌会)が開かれ、その当時の和歌(レプリカですが)が展示されています。

和歌会は住吉、厩戸王子、藤代王子、切目王子、滝尻王子、近露王子、発心門王子の合計7回に渡り開かれ、ここ滝尻王子でも開かれました。

歌会ではまずお題が与えられ、それに基づいて即興で歌を詠みます。

滝尻王子では「河辺落葉 旅宿冬月」のお題が与えられました。
おそらく定家も詠んだはずですが、現存しておらず定かではありませんが、神坂次郎氏の著書「熊野御幸」にはこのような歌が紹介されています。

そめし秋をくれぬとたれかいはた河 またなみこゆる山ひめのそで

たきがはのひびきはいそぐ旅のいほを しづかにすぐる冬の月かげ

この熊野懐紙、当時は非常に高値で取引されていたので、後鳥羽上皇の貴重な収入源となっていたそうです。

熊野懐紙の詳しい情報については、こちらが詳しいのでご参考にされてください。

み熊野ねっと

今日はここまでです。
続きはまた明日です。