熊野古道の花 秋編

熊野古道シーズン真っ只中ですね。

和歌山地域通訳案内士会でも、日々ガイドがどこかの熊野古道をご案内しています。

今回は熊野古道で秋によく見られる花をご紹介いたします。
花期が過ぎているものもありますが、ご容赦を。

チャボホトトギス

花期は9月頃です。

地面に這いつくばるように葉が伸び、黄色い花が咲きます。

「ホトトギス」という名は、花や葉にある斑点が鳥のホトトギスに似ていることから付けられたそうです。

「チャボ」もニワトリのチャボのように小型で寸詰まりの姿になぞらえて付けられたそうです。

ホトトギス

余談ですが、私の生まれ育った白浜町には「チャボ公園」があります。
昔は「チャボの森」と言われていました。

アケボノソウ

リンドウ科センブリ属。

花期は9月~10月。

花冠の斑点を夜明けの星に見立てたことに由来します。

ツリガネニンジン

日本全国に分布しています。

花が釣鐘に似ていて、根が朝鮮人参に似ていることから名づけられました。

山の山菜で「トトキ」と言われ、和え物、炒め物、天ぷら、煮びたし、菜飯などに利用されます。

また、根は薬用に用いられ、健胃、痰きり、鎮咳に効果がると言われています。

マツカゼソウ

花期は8月~10月。

ミカン科で唯一の草です。

これ、毒持ちです。

キイジョウロウホトトギス

紀伊半島南部の固有種です。

花期は8月~10月で、古くから観賞用として用いられています。

「ジョウロウ」は「上臈(じょうろう)」で貴婦人を表します。

「キイ」は紀伊で、紀伊半島のジョウロウホトトギスという意味で、この種は絶滅危惧Ⅱ類に指定されています。

かつては崖などに多く自生していたそうですが、乱獲によって数が激減してしまいました。

すさみ町佐本では、キイジョウロウホトトギスを栽培して種の維持に努めています。
キイジョウロウホトトギス見頃 和歌山県すさみ町

熊野古道では、伏拝王子の石垣や、青岸渡寺横の大雲取越入口の石垣などで見ることができます。

・・・写真は撮っても花は取らないでくださいね。

アサマリンドウ

熊野古道で秋によく見る代表的な花。

秋に咲く花は少ないため、結構目立ちます。

この種は三重県の朝熊山(あさまやま)で初めて発見されたことから名付けられました。

花期は9月~11月で、発心門王子~本宮大社の間と、小雲取越、大日越などでよく見かけます。

ナンバンギセル

寄生植物で、ススキなどのイネ科の植物に寄生します。

寄生された植物は枯死することがあります。

ママコナ

花期は7月~9月。

若い種子が米粒に似ているからとか、花びらの下の部分が米粒に似ていることなどから名づけられたようです。

半寄生で自生もできるという、なかなか器用なヤツです。

以上、熊野古道で見られる秋の花でした。

上司の誘いは断るな

最近、企業の管理職に就いている人やベンチャー企業の社長さんたちから、たびたび「近頃の若い人は、酒の付き合いが悪くなった」という話を聞きます。

お酒の誘いを断るなんて私には信じられないことです。

単にお酒が好きだから言っているのではありません。目上の人からの酒の誘いを断ることはみすみす自らチャンスを逃しているのと同じことです。

「成功できなくてもかまいません」といっているようなものです。

酒の誘いを一回くらい断ったくらいでそこまで大袈裟に言わなくても、と思う方もいるかもしれません。

では伺いますが、あなたが誘う立場だったとして、一度断られた相手をもう一回誘う気になりますか?
ならないでしょう。

つまり、一度でも誘いを断ったらその人との親密な関係が、その瞬間になくなることを覚悟しなければならないということです。

つまり、そこで一つの人脈のルートが消えてなくなるのです。

やり甲斐のある仕事がしたい、成功したいと思うなら、地位のある人や、能力のある人に可愛がってもらえることが重要だという話をしました。

可愛がってもらうためには、お酒の誘いは絶対に断ってはいけないのです。

これは鉄則です。

繰り返しになりますが、目上の人から可愛がられるのはとても大切なことです。

そして、可愛がってもらうために必要なのは、いい大学を出たとか、才能が豊であるとか、ものすごいアイデアを持っているとかよりも以前に、酒の誘いを断らない、ちゃんと挨拶ができる、人の話を素直に聞くといった、人間としての基本的な部分の方が大きいのです。

國分利治 「地道力」より

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私は、2ランク上の人からのお誘いは絶対に断ることはありません。

途中で先に帰ることもありません。

新潟に出張中に、東京にいる2ランク上の人からの電話で3時間後にかけつけたこともあります。

2ランク上の人からの誘いは滅多にない上に、1度断ってしまうと2度と誘ってもらえない可能性があるからです。

2ランク上の人が声をかけてくださるのは、私に対して、何らかの興味や期待を持っているからです。

その興味や期待に報いないことは、成長のチャンスを捨てることと同じです。

2ランク上の人から誘わたら、私の返事はもちろん「はい」か「イエス」か「喜んで」だけです。

ランクが上の人に目をかけてもらうには、誘いは断らないことです。

そして、アドバイスをいただいたら、超特急で、即座に実践することです。

山下誠司 「年収1億円になる人の習慣」より

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このお二方、株式会社アースホールディングスという会社のナンバー1とナンバー2です。

上記の書籍にあるように、年収は1億を超えています。

この方々に限らず、出世する条件の一つに、「誘いを断らない」という点があると思います。

出世は、人に引き上げてもらわなければ叶いませんし、この方法が一番の近道です。

上司は、目にかけているから誘うんです。

別にどうでもいい人間を誘ったりはしません。

これを事あるごとに高確率で断る人がいます。

もうこれは、「自分はこのままでいい」という向上心のない、現状維持に固執した人間のすることです。

現状維持は後退です。

その証拠に、分からないことは自分でネットで調べて解決しようという気がありません。

「分からない」と言い、今ある狭い知識の中でどのようにすればいいかを考えるか、あるいは私に聞いてきたりします。

新しいことを学ぼうとか、別の効率のいい方法を考えようとか、能動的な行動をしないのです。

上の立場から見た時に、こんな人材がどう映るか、考えてみてください。

上司も人間です。

「この部下のために助けてやろう」という心理が働くと思いますか?

酒が好きとか嫌いとか、私はお酒が飲めないから関係ないなどという話ではありません。

上司の誘いを断るか断らないかという姿勢が、そのまま勤務態度に出てしまうという話です。

「でも」「だって」という反論が聞こえて来そうですが、そういう人は絶対に成功はしないでしょうね。

ガイドの技術 立ち方編5選

ガイドは知識が豊富なことはもちろん、技術面も重要です。
技術にも色々ありますが、今回はガイドの立ち位置に関する注意点を5つお伝えします。

1.他者に道を譲る時は山側に立つ

熊野古道を歩いていると、足の速い人が追い抜こうとする時があります。
ガイドはもちろん、後ろの状況にも注意を払っておかなくてはなりません。

自分たちを追い抜かせる時は、必ず山側に立ってください。

万一接触して落ちたら、中には救助が困難な場所もあります。

そうならないためにも、注意してください。

2.列の真ん中で話す

人数が多くなってくると、列の先頭で話していても後ろのお客様には聞こえません。
また、せっかくファイルを用意して写真を見せても、後ろの人はあまり見えません。

声が通る人であればいいのですが、そうでない場合は、スペース的に可能であれば列の真ん中に入ってみんなが聞けるようにしましょう。

もし、スペース的に厳しい場合は、その手前に広い場所で説明をして、後からそのスポットをみてもらうという方法もあります。

10人以上になれば、このことを意識するといいと思います。

3.立つ場所をきちんと決める

できれば一か所で止まって、立ち位置を決めて話をするようにしましょう。
たとえば、狭い場所に説明スポットが点在している場合は、一か所で説明でき、お客様もそれらを確認できることができる場所を選んで立ってください。

時間がない時は歩きながら説明をすることもありますが、声が後ろまで届きにくいため、この方法は少人数(3~4人程度まで)の時にしかできません。

後ろ向きに歩きながら説明することはやめましょう。

4.お客様に向かって立つ

これはよくあることですが、例えばお地蔵さんの説明をする時にお地蔵さんに向かって説明をする人が見受けられます。

少人数のの場合はこれでもかまいませんが、やはり10人以上になってくると、聞こえない人が出てきます。

声は前方と上方によく届きます。

電車やバスで座っているとき、後ろの人の会話はよく聞こえます。
梅畑で作業をしていると、下の畑で会話をしているおばちゃんたちの会話が丸聞こえです(笑)

人数が多い場合は、お客様に向かって話すように注意しましょう。

また、人に聞かれてマズい話をする時は注意しましょう(笑)

ファイルの見せ方にも注意が必要です。

せっかく用意したファイルを、自分の方に向けて見せる(自分が一番見える)見せ方をしている人が結構います。

もったいないですよ。

5.通路を空けて説明をする

熊野古道はもちろん、他の施設などで説明をする時には、必ず他の方が通行できるスペースを確保して説明をしてください。

先日もありましたが、15人くらいのグループが古道いっぱいに広がって止まっていました。
その人の輪の中心にはガイドさんが・・・

私はこれで一度叱られたことがありますので、結構注意を払っています。

以上、ガイドの立ち方5選についてお伝えしました。
ご参考にされてください。

1.他者に道を譲る時は山側に立つ

2.列の真ん中で話す

3.立つ場所をきちんと決める

4.お客様に向かって立つ

5.通路を空けて説明をする

お客様からの質問5選

ガイド中によく受ける質問5つを選んでみました。
目に入るもの、宗教的なこと、あなたのこと、熊野古道のことなど、お客様の質問は多岐に渡ります。
もし受けた時のご参考にされてください。

1.しめ縄の意味は?

海外のお客様の特徴として、目に入ったものを聞いてくる傾向があります。
その代表格の一つがしめ縄。
鳥居に張られていたり、ご神木に巻かれていたりしますよね。
それを見て「あれは何?」という質問が飛んできます。

「俗界と神域を分けるものです」

まずこう答えるかと思います。

しかし、簡単に引き下がる相手ではない場合があります。

「なぜ藁なのか?ぶら下がっている紙の意味は?」

と聞かれたらどう答えますか?

外国の方、特に欧米系の方は2週間程度かけて日本中を旅してまわることが多いです。

「今までのガイドに聞いてきたけど、初めてその意味が分かった」と言ってくれた方がいました。

その意味とは?

昔、人々はお金に代わりにお米を神社に供えていました。
お米から取れた藁は、その感謝の気持ちと、来年の豊作を祈念して供えられていました。
それが、時代が下って「神聖なもの」となり、結界を意味するようになりました。

しめ縄は雲を表します。

雷の形をした神は、まさに雷を表します。
一説によると、雷が落ちた土地というのは、作物がよく育つと言われています。

また、スカートの形をした藁は雨。

すべて稲作に関係のあるもので構成されています。

私の経験上、ここまで説明すると納得してくれます。
「しめ縄が雲で、雷が落ちた土地云々・・・」というのは、宮沢賢治の説です。

もちろん諸説あると思いますので「これが正しい」とは言いません。
しかし、重要なのはいかに自分が腹に落ちる説明であるかということです。

2.お地蔵さんによだれかけがあるのはなぜ?

これも諸説あることは先にお伝えしておきます。

私が聞いた話の中で、一番腹に落ちたものは、こういう内容です。

地蔵はあの世にある6つの世界を自由に行き来できる仏様と言われています。

昔、赤ちゃんを亡くしたお母さんが、「もし、私の赤ちゃんが間違って下の世界にいたならば、上の世界に引き上げてやってください。私の赤ちゃんがつけていたよだれかけがあります。これに赤ちゃんの匂いがついていますので、これを使って探してください」という願いから、お地蔵さんにつけ始めた・・・

あの世の6つの世界とは、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅、人道、天道のことを指しますが、説明では私はそこまでは言いません。
これをいちいち説明していると、長くなりすぎるからです。

「よだれかけはなぜ赤いのか?」という質問もよく受けます。

なぜでしょうかね?

ご自身で調べてみてください(笑)

3.神社とお寺の違いは?

ガイドを始めて間もないころ、お客様と本宮大社を訪れた時に、境内に椅子がたくさん並べられていました。

その時は何も質問がなかったのですが、帰りのバスで「あのお寺にあった椅子は何のためだったの?」と聞かれ「は?お寺??今日はお寺には行ってないぞ?」と思ってしまい、時間もたっていたために何のことを言っているのか分かりませんでした。

「椅子がたくさん並べれていたじゃないか」と言われて思い出すことがきましたが、日本人が陥りがちな盲点だと思いました。

「外国人には神社とお寺の区別がつかない」

自分は神社だと思い込んでいるので、お寺という言葉にピンとこなかった。

今は対応できますが、最初は戸惑った記憶があります。

神社とお寺の違いですが、見分けやすいものをまずは1つだけ言うようにしています。

それは「千木(ちぎ)」です。

神社の屋根に乗っかっているあの「✕」です。

「あれがあると神社だ」と言っています。

もちろんどの世界にも「例外」はありますので、千木がない神社もあります。
特に拝殿にはありません。

また、伊勢のように「✕」ではなく「V」になっているものもありますが、これはこれで話のネタになります。

伊勢の神宮 唯一神明造

もともと、この千木は屋根を補強する役割を持っていました。

よーくみると、「V」の下の部分が屋根の縁を貫通しているのが見えます。

この「V」が、時代がくだって神社を象徴する意味の「置き千木=『✕』」に変わっていったものです。

神社とお寺の違いについては、「鳥居があるかないか」というのもありますが、神仏習合の熊野では、鳥居がありさらに「神門」いわゆるお寺でいうところの「山門」がありますので、外国人には区別が難しいです。

以前は山門と鳥居の違いについても説明をしていましたが、上記の理由でやめました。

4.何年ガイドをしてるの?

いわゆるアイスブレイクです。

正直に答えるのもアリですが、私はずっと経歴を「詐称」して「3年くらいです」とか言っていました。

・・・多分、お客様にはバレていると思いますが。

ただ、昔聞いた話では、「経験者と新人とどちらがいいか?」というアンケートをお客様に取ったところ、「新人がいい」と答えたお客様が半数あったそうです。

なので、特に詐称をする必要はないと思います。

ちなみに、和歌山地域通訳案内士会では、新人さんでもある一定のスキルを持ってもらってからデビューしていますので、新人さんでも高いスキルを持ち合わせていますよ。

5.熊野古道歩きで一番いいシーズンは?

春と秋、3、4、5、10、11月です。

ただ、秋は気候はいいですが日暮れが早いので、ロングコースを歩く時には注意が必要です。

また、10月は台風の影響を受ける時があります。

個人的には、すでに暑いですが5月が気候的にも、日照時間の点でもいいと思っています。

お客様からの質問すべてに答えられることが理想ですが、最初からなかなかそうはいかないかもしれません。

その場合はそのままにせずに自分なりに調べたり、仲間に聞いたりして自分の納得のいく答えを探してください。

それを積み重ねることで自分の知識量が積みあがっていきます。
スキルアップは現場が一番手っ取り早いです。

お客様の質問は「生の声」です。
この生の声に揉まれることによって、一番実践的な知識が身につきます。

上記に挙げたものはほんの一例です。
日本についてなど、マクロなことを聞かれる場合もあります。

例えば、「日本の車はなぜ右側通行なのか?」とか「日本人はなぜ靴を脱いで家に入るのか?」など、日本人では当たり前過ぎてまったく気にもかけていなかったことについて聞かれることもあります。

中には「(日本に来て分かったが)日本人はみんな優しいのに、なぜ戦争ではあんなに残忍だったのか?」と聞かれたこともありました。

これは同じ日本人でも歴史認識の違いによって大きく意見の分かれるところだと思います。

教育って本当に大切ですよ。

お客様に聞かれて「そういえばそうやなぁ」と改めて気づかされることもあります。
日本の内側にいる人間と外側にいる人との視点の違いを発見することも、ガイドの面白さの一つです。

他の質問集については、こちらもご参照ください。
お客様からの質問「あなたについて」
お客様からの質問「熊野の気候について」

熊野の生き物 雨の日編

今回のトピックは結構特殊です(笑)

普段はあまり見ないけれど、雨が降るとよくあらわれるヤツらがいます。

今回はその生き物たちをご紹介いたします。

サワガニ

日本の代表的な淡水ガニです。
キレイな水のある場所に生息していますので、コイツがいる谷の水はキレイだという証拠にもなります。

地域によって個体差があり、中には紫がかったものもありますが、熊野では普通にオレンジ色をしています。

オスは基本的に右のハサミの方が大きいですが、中には左の方が大きいものもあります。

普段は夜行性なのであまり見かけることはありませんが、雨の日になると、川から離れた森でも見ることができます。

雨の日や雨上がりには古道によく現れるので、海外のお客様は非常に珍しがります。
非常におとなしい(?)ので、捕まえてもあまり挟まれたりはしません。

食性は雑食で何でも食べます。

唐揚げや佃煮にして食べることができます。

一度、ガイドの帰りに10数匹を捕まえて(世界遺産エリア外ですよ、念のため)、家に持ち帰り素揚げにして食べましたが、なかなか美味しかったです。

ただ、母は「うーん・・・」といってあまり箸が進まなかったですが(笑)

アカハライモリ

繁殖期以外は水辺の近くや森の中に住んでいるのですが、特に雨になると、どこからともなく現れます。

サワガニと同様、コイツも水のきれいなところに住んでいます。

特筆すべき(?)は、再生能力があるということです。

エサは昆虫類や他の両生類の卵や幼生です。

冬は落ち葉の下や石の下で越冬します。

イモリの黒焼きは「惚れ薬」としても有名だったとか。
そういえば、「惚れ薬」とは言っていませんでしたが、「千と千尋の神隠し」でも登場していましたね。

渓流釣りに行くと、コイツがうじゃうじゃいます。
たまにエサのミミズに食らいついてくることがあります。

シーボルトミミズ

私の足と比べてください。

閲覧注意(笑)

私の生まれ故郷の白浜では「カプラタ」、本宮では「カンタロウミミズ」と呼んでいます。

春と秋の雨の日に、特に小雲取越でよく見ます。

色ツヤ、大きさ、すべて規格外です(笑)
大きいものでは50センチくらいになります。

冬になると集団で越冬するようです。

「蓼食う虫も好き好き」

コイツはイノシシとウナギの大好物です。

ウナギ釣りの時にこれを付けるとよく釣れるのだとか。

やったことはないですが(笑)

以上、雨の日に現れる生き物でした。

・・・あとはヤマビルですね。

ヤマビルに関する記事はこちら。
ヤマビル??
ヤマビル来襲

上野の獅子舞

11月3日は、23日と並んで紀南地方では祭りが多い日になっています。

特に11月3日は「晴れの特異日」とされており、雨の日が極端に少ないことが特徴です。

前日の2日の大雨とは打って変わって、この日も爽やかな晴天でした。

和田家の墓は中辺路町石船(いしぶり)にあることから、「上野の獅子舞」が奉納される春日神社(田辺市下川下)までさほど遠い距離ではなかったので、墓参りの帰りにちょっと寄り道をして急遽思いつきで見に行くことにしました。

20年ほど前に、「富里まつり」で見たことはあったのですが、以前から境内で奉納されるものを見てみたいと思っていましたので、今回見ることができて良かったです。

素晴らしい獅子舞でした。
さすがは県の無形文化財です。

上野の獅子舞保存会の会長さんの話によると、上野の獅子舞も古座から来たもので、10曲の演目があるそうです(今回は6曲の披露でした)
獅子舞の由緒については、「上野の大火」で焼失してしまい、残念ながらはっきりとした史実は残っていないとのことです。

古座流の奥深さ

上野の獅子舞は、現在のすさみ町佐本から伝わったもののようです。

紀南地方の獅子舞について、ちょっと横道にそれます。

よく聞く「古座の方から伝わった」という言葉ですが、同じ古座でも色んな地域から伝わってきていると考えられます。

同じ「古座」と言っても、音色も違えば舞い方もまったく違うことから、「その大元の古座はそもそもどこから伝わったのか?」という疑問が湧きます。

「古座の獅子舞は伊勢から来た」とも聞きますが、有名な伊勢太神楽とはまったく違った音色や舞も古座にはあるため、「その『伊勢』とはどこの伊勢だ?」となり、ますます起源が分からなくなってしまいます。

伊勢太神楽

また、伊勢から古座に伝わり、古座でも各地域で独自の発展をし、さらに紀南地方の各地域に伝わって、さらに各地域で独自の発展をし・・・ということが繰り返されて今の形になったのでしょうね。

紀南地方の沿岸部の獅子舞の音色や舞は、国の重要無形民俗文化財の「古座獅子」に非常に似ていますが、同じく「古座流」と言われる「野中の獅子舞」や「上野の獅子舞」は、それぞれが独特の音色で、舞も紀南沿岸部のそれとは大きく異なります。

「舞の基本」と言われる「乱獅子」を見てみましょう。

まずは古座獅子。

次は野中の獅子舞。

最後に上野の獅子舞。
適当なYouTube動画がなかったので私が撮った動画を。

※画像をクリックすれば動画ページに移ります

こちらからでも↓
https://photos.app.goo.gl/mNDWrSU67yUT9xsC9

いずれにしても勇壮な舞ですね。
獅子舞フリークの血が騒ぎます(笑)

舞は全部で10曲

先ほどもご紹介したように、上野の獅子舞には「道かぐら」「御神楽」「幣の舞」「神ばやし」「乱獅子」「くぐり」「剣の舞」「花がかり」「ごしゃく(刀ねらい)」「扇の舞」の10曲が伝わっているそうです。

この日は「神(しん)ばやし」「乱獅子」「くぐり」「花がかり」「刀ねらい」「扇の舞」の6曲が披露されました。

幣の舞、見たかったなぁ。

中でも「くぐり」の、頭(かしら)と尾の息を合わせて一緒に回転するところは見ごたえがあります。
この芸当は古座流の中でも珍しいそうです。

この「くぐり」の舞い方については、同じく古座流の「堅田の獅子舞」にも見られます(堅田では「くぐり」というのかどうかはわかりません)

音色はまったく違いますが、同じような舞があることに、やはり古座流が源流であることを感じさせます。

※画像をクリックすれば動画ページに移ります

動画はこちらからでも。

https://photos.app.goo.gl/gyrNyADm7ByqQX6q8

花がかりも結構独特で、寝そべって(?)花を見るシーンがあります。

そして、この寝そべった状態で方向転換をします(!)

最後は会長さんの扇の舞でした。
さすがは会長さん、舞がキレッキレでした。

上野の獅子舞保存会では、現在13名で伝統芸能の継承に携わっているそうです。
なので、獅子舞をしながら笛をしたり、太鼓をしながら獅子舞をしたりと、一人で複数の役割を掛け持ちしながら保存に取り組まれているそうです。

この素晴らしい伝統芸能を、この先もずっと継承していただきたいものです。

最後に餅まきがありました。

赤い餅が入った袋には景品があるとのことでした。
いざ拾ってから見てみると「三の福」とかかれた紙が入っていたのでそれを持っていくと、米3kgと交換してくれました。

いやー、一日に3合以上米を食っている私にとっては、非常にありがたい賞でした。

そして、「神様はいるんだな」と(笑)

素晴らしい獅子舞を見ることができ、景品までいただき、思いつきで行ったにもかかわらず、幸せな日になりました。

熊野古道の神社⑧

すみません、以下の神社、すべて写真が見当たりません。
見つけ次第アップします。

浜王子(王子神社)

創建年代は定かではありませんが、記録による初見は1473年の「九十九王子記」です。
定家が熊野に参詣した際にこの王子があったのかどうかは分かりません。

ご祭神は、神武天皇の兄神・稲飯命(いないのみこと)と三毛入野命(みけいりののみこと)です。

神武東征の折、熊野の暴風雨に遭い、この二柱の神が海に身を投げて嵐を鎮めたという話から、このお社の祭神になられたそうです。

1879年に阿須賀神社に合祀されましたが、1926年に復祀されています。

かつてはこのお社の境内地もかなり広かったらしいですが、1946年の南海地震の後、住宅建設の必要に迫られ、住宅地に変わってしまったとのことです。

金光稲荷神社

高野坂の途中にあるお社。

ここは三輪崎の鬼門(北東)にあたるため、ここにお稲荷さんを勧請してきたそうです。
鬼門除けに稲荷神社が建てられることがあるので、おそらくそういう意味があったのではないでしょうか。

三輪崎は古座、太地と並んで紀南の代表的な捕鯨の地でした。

漁師町なので、各家庭には神棚を設ける空間があったのですが、核家族化や西洋建築の普及によって、神棚をお祀りする場所がなくなったため、以前は結構ここに神棚を持ってきていた住民がいたようです。

境内には刃刺(はざし)が祀ったと言われる祠があります。
その祠の裏には、鯨が尾びれを海面から突き出している絵が彫られていると聞いたことがあるのですが、今は摩耗が激しくて確認できません。

刃刺と古式捕鯨についてはこちら
捕鯨について①
捕鯨について②

浜の宮王子

現在は王子跡で社はありませんが、境内には熊野山三所大神社(くまのさんしょおおみわやしろ)があります。

このお社と補陀洛山寺が隣接しているので、神仏習合を見ることができる珍しい場所です(那智大社と青岸渡寺もそうですが)

那智参詣曼荼羅にも描かれていますが、当時は鳥居のすぐ前が浜で、そこから補陀落渡海が行われていました。

今回は、神社のご紹介なので割愛します。
補陀落渡海についてはこちら
補陀落渡海(瀬川さんのお話まとめ)

ご祭神は夫須美大神・家津美御子大神・速玉大神の三神。

この主祭神三柱の座像は、国の重要文化財に指定されています。
像は輿に乗ったカヤ製の座像で、この社殿の裏にある倉庫に保管されていると聞いたことがありますが、そのお姿を見た人は、私の知っている人の中にはいません。

本殿向かって右には、丹敷戸畔(にしきとべ)を祀る祠があります。

あまり記録がないので詳細は不明ですが、神武東征の折、ここで神武天皇の軍勢と戦った一族とされています。

丹敷とは水銀、戸畔とは女酋長のことを表す言葉だそうです。

かつて熊野は地下資源が豊富で、つい昭和の時代まで、この近辺にも銅山がありました。

一説によると、かつての上皇・法皇が熊野に足しげく通ったのも、この地下資源の利権を得るためではなかったのではないか?とも言われています。

市野々王子

祭神は天照大神、(あめの)(おし)()(みみの)(みこと)()(がや)草葺不合(ふきあえずの)(みこと)(かな)山彦(やまひこの)(みこと)

元は100mほど離れた場所、「お杉社」にありましたが、江戸時代に現在の地に移されました。お杉社には、天照大神が降臨したとされる(よう)(ど)(いし)があります。

ここはかつて、熊野詣の最後の起点として栄えたところです。大門坂にある多富気王子は歴史的に浅いですが、この市野々王子は歴史が古く熊野御幸の時代にも登場しています。

市野々地区の住民は那智山の氏子にあたり、ヤタガラスの子孫とされています。

那智の扇祭り(火祭)は、元々この地区の氏子が担っていました。現在は人数不足のために那智勝浦全体で担っているそうです。

この地の住民は巡礼者をもてなしたり、市を開いたりしており、また宿場としても栄えました。

神社横手には米を一時的に収める郷倉(ごうくら)があります。普段は屋根がなく米を保存する時にだけ垂木(たるき)を渡し上から葉を被せて屋根にしたとのことです。

以上、今回は熊野古道中辺路沿いにある神社についてご紹介させていただきました。

機会を見て、紀伊路や大辺路の神社についてもご紹介できればと思っています。

熊野古道の神社⑦

阿須賀神社

創建は皇紀238年と伝わります。

皇紀とは、神武天皇が即位されてから数えるもので、今年(2024年)が皇紀2684年です。

ということは、このお社は2446年前の創建ということになりますので、熊野三山のそれよりも古いということになります(本宮で約2050年、速玉で約1900年、那智で約1700年)

弥生時代の土器が境内以外からも出土したことから、そのころから大きな集落があり、建物はなかったにしろ、この場所に宗教的な祭祀場所があったと考えられています。

古来は白木で、朱塗りになったのは1952年(昭和27年)、米軍の空襲により焼失して以後のことです。

・・・民間人を大量に殺傷した無差別爆撃の被害は、ここ新宮市にもあります。

話せば長くなりますのでまたの機会に。

中右記(1109年)には「参阿須賀王子奉幣」との記述があり、九十九王子の一つとしての扱いを受けていました。

藤原定家の日記には記載がなく、単に「明け方、新宮の宿所を出発し、また那智への道を進んだ(中略)山や海の眺めは、趣があった。この道中にもまた王子が数多く鎮座している」としか書かれていません。

懸け仏とご祭神

懸け仏とは、現在でいう絵馬のようなもので、願いを込めて神社に奉納していました。
高原熊野神社ではご神体になっています。

1959年(昭和34年)の伊勢湾台風で境内の大木が倒木した際、その地下から懸仏200体以上が良好な保存状態で発掘されています。

その半数が本地仏の大威徳明王(勝利の仏)だが、そのほとんどが元寇(文永の役・弘安の役)の時に作られたものとされ、戦勝祈願で納められたものではないかと言われています。

阿須賀神社が火事で焼失した際に、傷んでしまった懸仏を埋納したのではないかと言われています。

このような数・保存状態で発掘された例は日本に3例しかないそうです。

私的な意見ですが、1281年に亀山上皇が熊野に来られた年がちょうど弘安の役と重なるため、おそらく伊勢にお参りされた後に熊野にも来られたのではないかと思っています。

なぜ、ここにそれほどまでの信仰があったのか?

おそらく、こちらの神様に由来するものと思われます。

ご祭神はコトサカオ様(事解男命)
熊野は神仏習合(神仏混淆とも)なので、熊野の神様は神様と仏様の名前をお持ちです。

その仏様のお名前が「大威徳明王(だいいとくみょうおう)」

この大威徳明王様は水牛に乗り、6つの顔、手6本、足6本の恐ろしい形相をした戦いの神様(仏様)とされています。

なので、多くの方々が必勝祈願で来られたのでしょう。

水牛に乗っているということにも意味があり、陸はこの世、水中はあの世を表しあの世とこの世を行き来する特殊な力を備えています。

こちらのご神体は、社殿の後ろにある山・蓬莱山です。
ご神体なので禁足地ですが、西宮司さんが子供の頃は、よくこの山に入って遊んだということを聞いたことがあります(もう時効だからバラしてもいいですよね?笑)

神奈備の定義

神奈備(かんなび)という言葉を聞いたことがあるでしょうか?

神奈備とは、神道では神の依り代とされる場所などを指す言葉です。

阿須賀神社のご神体・蓬莱山は、その神奈備の定義に当てはまるそうです。

神奈備の定義とは、

①そんなに高い山ではなく、ちょうどお椀を伏せたような形をしたもの
②山深いところにあるものではなく、人里に近いところ、または人里の中にあるところ

蓬莱山を遠くから見てもらったら一目でそれが分かります。
神倉神社からも見えますので、登った際には探してみてください。

蓬莱山とは、チャイナ古来から伝わる東方絶海にある3つの山の1つで、そこには不死の薬を持った仙人が住むとされています。
その3つの山とは、蓬莱、方丈瀛州 (えいしゅう) とされています。

非常に珍しい立地条件

なぜ、この地なのか?

それは、色んな条件が重なっているからと宮司さんからお聞きしたことがあります。

1つ目は、この辺りは昔は水葬の場所だったらしく、ここから約80m下流の宮井戸遺跡がちょうどあの世の入口とされていたそうです。

なので、生と死の交わる場所であり、陰と陽の交わる場所。

2つ目は、この裏を流れる熊野川の水にも陰と陽があり、川の飲用可能な水は陰、禊をする海水は陽とされていること。

3つ目は、その陰と陽が交わる場所に神奈備があること。

このような条件がそろっていることは、非常に珍しいのではないかというのが学者の見解なのだそうです。

神社は、適当なところに建っているものではなく、きちんとそこに建つ意味があり、簡単に移転するものではないとも聞いたことがあります。

まさに、この阿須賀神社は、きちんとした意味がありますよね。

「なぜ、ここなのか?」そういったことを考えながらお参りするのも面白いかもしれません。

熊野古道の神社⑥

発心門王子

五体王子の一つです。
田辺市には、滝尻王子とこの発心門王子の2社があります。

発心門王子の「発心」とは、「仏門に帰依する」「仏門への道を決心する」という意味であり「発心門」「修行門」「菩提門」「涅槃門」の四門、すなわち、仏教における教理である四門のうちのひとつ。

当時は、ここが本宮大社への聖域の入り口とされていたことから、いよいよここからは新たに気を引き締めるという意味が込められていたと思われます。

1907年には近くの三里神社に合祀されてしまいますが、その後復祀されています。
現在の建物は1990年に「古道ピア」というイベントの開催に合わせて再建されたものです。

藤原定家は、この発心門王子裏手の南無房に泊まっており、その様子が「熊野御幸記」に記されています。

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(現代語訳)

午の時ほどに、発心門に到着した。
尼の南無房の家に宿泊した。
この宿は普通の所である。
その尼は京都からやって来ていた。
私はこの尼に逢って挨拶をし、来ていた袙(あこめ)を与えた。

ここまでの道中、私は常に筆や硯を携帯していなかった。また考えるところがあって、まだ何もしていない。他の人々は、たいてい王子ごとに名前を書き付けていた。この発心門の門柱に、初めて一首を書きつけた。門の南東の角柱である。静かなところである。

■慧日光前懺罪根 大悲道上発心門 南山月下結縁力 西刹雲中吊旅魂

(仏の大いなる知恵の前に、自らの罪業を覚え、改心することだ。衆生を救う誓いを立てられた仏のいらっしゃる、熊野本宮への途上に、発心門がある。熊野の月のもとで、仏と結んだ縁の力によって、往生できよう。はるか西方浄土にかかる雲を見て、旅にある私の心を慰める)

■入りがたき 御法の門は けふすぎぬ 今より むつの道にかえすな

(なかなか入ることのできない仏道の門に、今日この発心門を通って入ることができた。これからは私を六道に輪廻させないようにして欲しい)

この発心門王子の前で、特に信心を発した。
紅葉が風に舞い落ちている。
社殿の上には四、五尺ほど、木が隙間なく茂り、多くは紅葉している。

社殿の背後に、この尼南無房の堂がある。この堂の内側に、また一首書き付けた。

後で聞いたところでは、この尼は制止して、堂に何も書かせないという。それを知らずに書いてしまった。

夕方、また水垢離をし終えて、王子の御前に出て、参拝の所作を終えた。
月が山から出てくる頃合いであった。

今日通った道は、山深く樹木が多かった。
苺苔があって、それが木の枝に懸かっている様子は、藤の枝のようであった。
遠くから見ると、本当に春の柳に似ていた。

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翌日は「まだ暗いうちに」発心門を出発しています。

2首目の歌は、現在境内の石碑に刻まれています。

・・・おそらく、当時日記に書かれていた字体をコピーしたものなんでしょうね。

覚えてなければ読めません(笑)

熊野古道の神社⑤

湯川王子

「湯川」という地名は古くから見られ、定家が後鳥羽上皇に随行した際にはすでにありました。
定家は近露を出発したあと、この湯川で宿泊をしています。
また、1210年には修明門院が参詣した際には「湯川王子」という名が見られることから、この王子は少なくとも800年前には存在していたことは確かなようです。

熊野古道中辺路沿いで社殿がある王子社は非常に少ないことが特徴ですが、この湯川王子は健在です。
この王子もやはり、1909年に近野神社に合祀されていますが、1983年に地元出身の方々の寄付によって再建されました。

ただ、車ではアクセスが難しい場所にありますので、車で訪れることは難しいでしょう。
行けなくはないですが、どう頑張っても少しは歩かないといけません。

ケヤキ

神社合祀前の時代には、境内にケヤキの巨木があったそうです。
このケヤキの内部が腐ったからという理由で伐採をしたところ、200匹のムササビや数百のフクロウやミミズクが飛び出したと言われています。
その切り株の広さは畳8畳分あったと言われています。

祭り

今も続いているのかは分かりませんが、2020年11月23日にここを歩いた時には、ちょうどその時が湯川王子の祭りの日でした。
普通、神社の祭りの神事は神主さんが執り行いますが、ここでは田辺市のお寺からお坊さんを呼んでいました。
湯川出身の方々も一緒に来られていました。

社殿横にお坊さんがいます

湯川氏と湯川集落

現在は「道湯川(どうゆかわ)」という呼称になっていますが、本来は「湯川」という集落でした。

本宮にも湯川という地名があり、これと分けるために「道」をつけたのだそうです。
地元の方々をこれを嫌ったという話を聞いたことがあります。
私の出身は白浜ですが、仮に同じ地名が他にあり、私たちが住んでいる白浜を「これからは『道白浜』と呼ぶ」と言われれば、やはりいい気はしません。
「なんでうちが名前を変えなければいけないのか?あっちの方が上ということか?」となると思います。

湯川一族は、甲斐武田の流れをくむとされ、彼らが熊野に落ちてきてこの地名である湯川を名乗ったとされています。
彼らは武士であったため、古道沿いの山賊を取り締まっていました。
その成果が認められて日高の領地を授かります。

湯川一族の出世頭、湯川直春は、秀吉の紀州攻めの際には上富田の山本氏とともに徹底抗戦をし、秀吉軍を手こずらせます。

業を煮やした秀吉は、湯川・山本氏に和議を申し入れ、二人は大和郡山城に向かいますが、そこで湯川直春は毒殺され、身の危険を感じて城を脱出した山本氏は、仲間だと思っていた藤堂高虎に殺害されてしまいました。

この事件以来、両氏の勢力は急激に衰えてしまったとのことです。

今はすでにここには誰もいませんが、1902年~1945年までは義務教育免除地でした。

詳しい話は、ガイドと一緒に歩きながらにしましょう(笑)

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一般社団法人 和歌山地域通訳案内士会