前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨

土手の道へ上がり、しばらくは土手を歩きますが、地図ではそこから一旦降りて川辺橋を渡るようになっています。
渡る前にはお地蔵さんが並んでいると書かれています。
確かにお地蔵さんはありましたが、この道も分かりにくかったです。
何とか川辺橋に着き、橋を渡りましたが、この橋が長かったです。

橋を渡れば「布施屋の渡し説明板」と地図には書かれていましたが、発見することができず。
そういえば、以前語り部さんに案内してもらった時に、渡しのことについて聞いたことがありました。
どんな話かは忘れましたが(笑)
吐前(はんざき)王子跡

ここも社殿や石碑などもなく、ただ説明看板があるだけなので写真はありません。
説明看板より
この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。
頼資の承元四年(1210年)の御幸随行の日記は、「修明門院熊野御幸記」と呼ばれます。
それによると、承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。
この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思われます。
吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。
江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。
この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。
地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます。
頼資の承元四年(1210年)の御幸随行の日記は、「修明門院熊野御幸記」と呼ばれます。
それによると、承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。
この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思われます。
吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。
江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。
この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。
地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます。
普通の説明板では、事実のみを書いたつまらないものが多いですが、この説明板は地元の方々がここをどのように呼んでいたかということまで書かれてあり、珍しく面白いです。
高欄とは、渡り廊下などの両側に設けられた、いわゆる柵のことです。
吐前王子跡からは道標に従って布施屋駅を目指しますが、布施屋駅に入る道が分かりにくかったです。
ここでも、入るべき道を通り過ぎ、そのまま先に川端王子まで来てしまいました。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪に続きます。
