【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

逆川王子

案内板より

藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月十八日条に「逆河王子」と書かれているのが、最も古い文献です。

藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。

この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。

明治時代には村社となっていましたが、明治四十三年の神社合祀で、田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。

王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れていることから、逆川と呼ばれたのです。

方津戸峠(方寸峠)

案内板より

方寸とは「一寸四方の狭い所」の意味である。

この峠は、古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれてきた。熊野参詣の旅人は、有田川を渡り、険しい糸我を越え、逆川王子社に参拝した。

峠に登ると、遠くには日高へ越える難所「鹿ケ瀬峠」、また眼下には湯浅と広の平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。

熊野へは、まだまだほど遠いが、ここで一息を入れて、旅の疲れを癒やしたことと思われる。

また、平安時代の末期、当時の湯浅荘の地頭湯浅宗重は、熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き、紀州随一の強力な武士団を作り上げた。(後にさらに東の青木山に移転した)。

江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には、湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで、湯浅の玄関口であったという。

この案内板は、有田南ロータリークラブのものです。

今は道も舗装されていて何でもないところですが、当時は特に湯浅醤油盛況のころには重要な場所であったことが分かります。
案内板がないとそのまま通り過ぎるような場所なので、こういった看板があればありがたいですね。

写真の場所から道標に従って右に入ります。
私はこの道標を見逃して真っ直ぐ行ってしまい、しばらくしてから間違っていたことに気づき、戻りました。
ちなみに、真っ直ぐ行っても古道に合流しますが、随分遠回りになります(地図中のピンクの道)

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