道湯川橋~発心門王子⑤

発心門王子

五体王子のひとつ

発心門王子は、九十九王子の中でも最も格式の高い王子社とされています。
五体王子の「五体」とは、そこに祀られている神々が、熊野の御子神5柱すべて祀られているという意味であり、よく「五大王子」と勘違いされる方がいるようですが、それは誤りです。

ただ、聞いた話によると、五体王子に本当に5柱の神々が祀られているのかどうか、きちんと証明する文献などが残っていないところもあるようで、真相のほどは定かではありません。

道湯川橋~発心門王子④

猪鼻王子分岐

2018年の台風の影響により、この先の赤木越分岐付近で古道が崩れていて通れませんので、現在はここを下りずに林道を経て発心門王子まで向います。

猪鼻王子跡

とは言え、いつか通れるようになると思いますので、一応書いておきます。
説明板には猪鼻王子とは関係ないことが書かれていて参考になりません。
それほど情報がないのでしょうね。
かくいう私も、情報を持っているわけではありませんが、この王子の名前の由来は、この王子の先にある番号道標60番あたりにある地形が、イノシシの鼻先の形に似ているので名付けられたようです。

道湯川橋~発心門王子③

三越峠

案内板より。

ここ三越峠は口熊野(西牟婁郡)と奥熊野(東牟婁郡)の境界で、その昔、熊野本宮へ参った人々が、西の湯川王子から東の音無川の谷へ越えていったところであります。

古くは平安時代、永保元年(1081年)の藤原為房参詣記に「三階の人宿」、天仁2年(1109年)の藤原宗忠参詣記に「三輿の多介(みこしのたけ)」とその名があらわれ、また同じ頃の源俊頼の「散木奇歌集」には、

中宮亮(ちゅうぐうのすけ)仲実熊野にまいりけるに つかはしける雲のゐる

みこしいわかみ(三越 岩神)越えむ日は そふる心に かかれとぞ思ふ

という和歌が見られます。

熊野へ参る人は、この三越峠で本宮へと流れる音無川をはじめて目のあたりに見るのですが、後鳥羽上皇の正治2年(1200年)の御集にみえる次の有名な歌はそのときの感懐を詠んだものと思われます。

はるばると さかしきみねを 分けすぎて 音なし川を けふみつる哉(かな)

中世には、本宮町の九鬼・八木尾谷とともに、三越峠に関所を置いて関銭を徴収したと伝えられ江戸時代から大正時代のはじめまでは、ここに茶店が設けられていました。

峠からは音無川へ下る本道の他に、その右岸の尾根を湯峰へ通じる赤木越の道があり、近世の西国巡礼などで賑わっていたと言われています。

この建物は、ふれ愛紀州路・歴史の道キャンペーン「古道ぴあ」の開催を機に熊野古道を訪れる 人々のため、往時の「峠茶店」をしのぶ休憩施設として整備したものです。

以前、日本に住んでいる外国人のお客様を案内した時に、「日本人のガイドはつまらない」という話を聞いたことがあります。
何がつまらないかというと「事実」「事実」「事実」を並べているだけで、ストーリーがないということでした。

・・・説明板に共通して言えることですが、上記の説明はまさにそのお手本とも言える内容です。
この内容を、お客様にそのまま伝えても本当につまらないでしょうね。

さて、この三越峠、昨年(2019年)5月に、オーストラリアの方が滑落事故で亡くなった場所です。
この関所跡から発心門王子方面への下りは約1kmありますが、途中道幅が狭くなっている箇所や、小石がたくさん落ちていて滑りやすいところ、段差も大きな場所がある危険箇所です。
わたしも先日お客様を案内中に骨折事故が起こったところも、この坂道です。
また、連日歩かれているお客様は、特に足の疲労も蓄積されているので踏ん張りが利かないことも考えられます。

下りの最中はおしゃべりを慎み、歩きに集中してもらうようにしたいものです。

道湯川橋~発心門王子②

湯川王子

説明板を転載します。

永保元年(1081)10月、熊野に参詣した藤原為房は、「三階」(三越峠)の手前で、「内湯川」で浴びています。王子社の初見は、天仁2年(1109)に参詣した藤原宗忠の日記の10月25日条で、「内湯」王子に奉幣しています。建仁元年(1201)10月、後鳥羽上皇の参詣に随行した藤原定家の日記には「湯河」王子、承元4年(1210)5月、修明門院の参詣に随行した藤原頼資の日記には「湯川王子」とあり、この頃から湯川王子の名が定着します。参詣の途上、ここで宿泊や休憩することが多く、上皇・女院の御所や貴族の宿所が設けられました。この地は、戦国時代に御坊平野を中心に紀南に勢力をふるった湯川氏の発祥の地と伝えられ、応永34年(1427)9月に足利義満の側室・北野殿が参詣した際には、奥の湯川を称する豪族が兵士を従えて接待しています。江戸時代には本宮町の湯川(下湯川村)と区別するために、道湯川村と呼ばれ、王子は若一王子社と称しました。明治時代には王子神社となりましたが、末期には社を残して、約12km離れた近露の金比羅神社(現、近野神社)に合祀されました。もともと山中の小村でしたが、昭和31年(1956)無人の地になりました。現在の王子社の建物は、昭和58年に再興されたものです。

中世の頃、この湯川集落が参詣者の宿場だったことが伺えます。

湯川氏発祥の地

湯川氏は元は武田氏を起源とするようで、説明板にも書かれている通り、この地が湯川氏発祥の地とされています。
力を付けた湯川氏は田辺市芳養に拠点を移し、徐々にその勢力を北上させ、紀南に勢力を拡大することに成功します。

ノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹氏の奥さんがこの地の出身であり、湯川秀樹氏の元の名は「小川」でしたが、結婚後に湯川の姓を名乗るようになります。

祭り

先月11月23日、下見でこのコースを歩いていた時に蛇形地蔵で休憩をしていると、湯川集落出身の方と一緒にお坊さんも上の林道から歩いて下りてきました。
聞くとこの日が湯川王子での祭りの日だったそうです。
神社の祭りにお坊さんが来ることあたり、やはり熊野は神仏集合なんだなと感じました。

お坊さんが見えますか?

義務教育免除地

さて、この湯川集落は義務教育免除地だったそうです。

一番近い学校が野中で、峠を越えて5km先にありました。
児童たちはそこを越えて通ったり、小学校に比較的近いお寺から通ったりしていたそうですが、当時の近野村村長が「義務教育を免除されたい旨の申請書」を提出、これが認可されたそうです。

この義務教育免除の制度は、1902年から1945年まで続いたといいます。
そして廃村が1956年。
義務教育が再開されるのは廃村の9年前なので、この集落の人はかなりの長い年月を義務教育なしで過ごしたことになります。
いったいとうやって教育を受けていたのか謎です。

道湯川橋~発心門王子①

近露や野中で宿泊されたお客様は、バスに乗って道湯川橋まで移動して本宮大社まで歩く方が多いです。

迂回路

さて、草鞋峠から女坂(めざか)を下り切ったところから、岩神王子に上る男坂(おざか)ですが、2011年の紀伊半島大水害によって崩落の危険がある箇所が発見されたということで現在は通行止めになっており、代わりに迂回路を通るようになっています。

その迂回路には岩「上」峠があり、やはりこちらも約1時間あまりの峠越えとなります。

聞いた話によると、岩神王子への道が通行止めになって以来、岩上峠へと続く道の所有者の方が協力的で、古道歩きの方のために開放してくれたそうです。

・・・「通るなら通行料を取るぞ」と言っている、どこぞの大辺路仏坂の持ち主とはえらい違いです(笑)
まあ、仏坂の場合はすさみ町にも責任があるようですがね。
詳しい話はまたの機会に。

熊野古道は中世以来、災害などによっておそらくルート変更もあったと思います。
なので、現在通っている中辺路ルートも、中世には部分的に違ったところを通っていたのかもしれません。
今歩かせてもらっている迂回路も、ゆくゆくは正式なルートとなる日が来るのかもしれませんね。

迂回路の番号道標

滝尻王子を起点に本宮大社まで75本ある番号道標ですが、44番から迂回路に入るため、次に現れるのは湯川王子の51番からになります(2020年12月現在)
その番号道標が迂回路用に変わり、蛇形地蔵近くまで続きます。

番号は113番から始まりますが、45番としないのには理由があるそうで、万一緊急時に連絡を受けた際に、どちらの45番か分からなくなるので、あえて全く違う番号にしているということだそうです。

蛇形地蔵

岩上峠を越えると林道に出ます。
その林道を約20分歩けば蛇形地蔵です。

この「蛇形」とは、お地蔵さんの背後に据えてある石版に海藻の化石があり、それが蛇に見えるから名付けられたのだとか。

以前は岩上峠にあり、「ダル」という妖怪が旅人に取り憑いてしまうと、その旅人は動けなくなて行き倒れになるということから、道中安全のために建てられたそうですが、明治の大水害(1889年)が起こった際、岩上峠から奇妙な音が聞こえて来たためにこの周辺の住民が避難をし難を逃れたということがあり、それ以来、こちらに来ていただいて丁寧にお祀りしようということになり遷座されたそうです。

ダルといえば、南方熊楠もダルに取り憑かれたと日記に書いていますよね。
その時熊楠は仰向けに倒れたそうですが、幸い背負っていた植物採集のかばんで頭を打たずに助かったそうです。
それ以来、地元の方の助言に従って山に分け入る時は必ずおにぎりを持っていったとか。
というか、それまで食べ物を持って山に入ってなかったんですかね?

ダルに取り憑かれた時には、米粒を一つでも食べれば去っていくとか、手のひらに「米」と書いてそれを食べる仕草をすると去っていくなどと言われています。

ちなみにですが、行動食は本当に重要です。
それも、入れておく場所にも気をつけておくべきです。
アクセスが面倒なバックパックの奥底などに入れておくと、疲れて動けなくなった時に取り出すことも面倒になって結局食べなくなり、それが生死を分けたという事例もあるそうです。

行動食は取り出しやすいところにしまっておきましょう。

話がそれましたが、このお地蔵さんは喘息にもご利益があるそうです。

三越峠の下り坂を歩いてきました

三越峠から発心門王子方面の下り坂を改めて歩いてきました。

主要な番号は覚えていましたが、今回の下り坂の終点あたりに番号道標があったのかどうかの記憶もあいまいでしたので、もう一度確認をして頭に叩き込んでおく必要がありました。

また、万一救急を呼ばなければならない場合、どこまで行けば電波状態が良くなるのかも確認してきました。

本来、こういったことは事前にしておくべきことです。下見の際にもその意識が欠けていました。

これはもう、慢心によるものです。怪我をされたお客様はお気の毒ですが、今回はわたしにとっていい薬になりました。

それで分かったことは、携帯のキャリアはもちろんですが、機種によっても受信電波が違うということです。

わたしはdocomoを2台持っています。

熊野古道ではdocomoが受信電波においては最強です。そのdocomoの同じSonyのエスクペリアでも、機種によって違うことがわかりました。

なぜなのかはわかりませんが、次回もし、同じようなことが起こった場合(起こってほしくないですが)は、両方の機種で確認することも必要ですね。

確認が終わった後、先日のお客様の骨折事故で、そのお客様を車で発心門王子まで送ってくださった山本組さんにお礼をしがてら、脳梗塞でガイドの「戦線」から身を引かれている方がこの近所ということもあり、ちょっと寄らせていただきました。

一年あまり前に倒れられましたが、現在はリハビリの甲斐もあって目立った後遺症もなく、今は5kmまで歩けるようになったそうで、元気にされている姿を見て安心しました。

早く良くなっていただき、また復帰してもらいたいものです。

継桜王子~道湯川橋①

今回は継桜王子から道湯川橋までです。
このコースは、わらじ峠を除いてはほぼアスファルトの道で、楽に歩ける代わりに中辺路ルートでは珍しくほとんど説明箇所のないところでもあります。

その数少ない説明箇所について、お話をします。

藤巻地蔵