赤木越

船玉神社

赤木越は湯の峰温泉から発心門王子までのルートで、大日越とともにいわゆる「本宮ループ」と呼ばれている本宮エリアを一周するルートの一部です。

数年前の台風で赤木越分岐付近で古道の崩落があり、長らく通行止めになっていましたが、2021年4月1日より通常通りに通行できるようになりました。

赤木越の「赤木」とはアカマツのことで、このルートにはアカマツがたくさんあることから名付けられたとされています。

梵字

湯の峰から入ると、その入口に一遍上人が爪で彫ったとされる梵字が見えます。
阿弥陀三尊を表わすサンスクリット文字と南無阿弥陀仏と彫られています。

阿弥陀三尊とは、阿弥陀如来を中尊とし、観音菩薩と勢至菩薩を配します。

まあ、岩に爪で文字を彫れるわけがありませんが、ほんまでいいじゃないですか(笑)

指差し道標

当時は矢印という記号が存在していなかったので、方向を表わす場合には指差しの絵柄が用いられました。

この地にはかつて久保野という集落に下りる道があり、久保野と湯の峰の分岐にあたるので、この道標が建てられました。

柿原茶屋跡

江戸時代から茶屋を営んでおり、赤木越えでは数少ない貴重な休憩所でした。

現存している民家は昭和40年代(1970年代)まで住んでいたもの。

民家の裏手には柿原集落の墓地があります。

発心門王子側から入った時、ここで道を間違いやすいので注意が必要です。

鍋割地蔵

一遍上人一行が、本山・遊行寺を目指して歩いていました。

弟子の(しょう)(かい)という僧が先回りしてこの地で鍋を火にかけて昼食の準備をしていましたが、途中、水が足りなくなり、鍋が焦げかけたので慌てて聖戒は谷底まで水を汲みに行きました。

谷から戻った時、すでに鍋は焦げて粉々に砕け、ご飯も真っ黒に焦げてしまっていました。

どうしようか・・・と思った時に一遍上人一行が到着しました。

一遍はこれを見て「これは阿弥陀様が私たちに課した修行であろう」といい、聖戒を咎めることなくそのまま旅を続けた・・・という話が残っています。

この話からこのお地蔵さんを「鍋割地蔵」と呼ぶようになりました。

しかし、赤木越えが出来たのは江戸時代に入ってからであり、鎌倉時代の一遍上人がここを通ったはずがないので、恐らく一遍が興した時宗の弟子たちの間でそういった話があったのかもしれません。
あるいは、後世の人たちが弟子たちのことを一遍上人と呼んだのかもしれません。
さらに、遊行寺建立は一遍の没後なので時代が合いません。

まあ、ほんまでいいじゃないですか(笑)

献上茶屋跡

一遍上人一行が遊行寺(ゆぎょうじ)へ向かう道中にここを通った時、この店の主人が「代金はいらないからどうぞお入りください」と、袖を引かんばかりに一遍たちを誘いました。

一遍たちが中に入ると、ありったけのものでもてなしました。

そこで一遍が「わたしたちのような僧にこのようなことをしていただいてはもったいない」というと、主人は「私たちはこうやって旅のお坊さんをおもてなしすることによって、家内安全で商売繁盛させていただいております。これがわたしどもの一番の楽しみです」と答えました。

この件で、一遍は人をもてなすとはどういうことなのかをこの店の主人から教えられた気がしたということです。

さらに主人が一遍たちにこれからどちらに向かうのかを尋ねたところ、「相模の国の遊行寺に行く旅の者です」と答えたので、この方々が名高い一遍上人とその一行だということが判明したといいます。

その時以来、この店は「献上茶屋」と呼ばれるようになり、その周辺の集落を「献上」と呼ぶようになったそうです。

・・・まあ、ほんまでいいじゃないですか(笑)

船玉神社

昔、この付近の滝つぼで神様(スサノオ様?)が行水をしていると、急に大雨になりました。その滝つぼに浮かんでいたクモが溺れそうになっているのを見た神様が、榊の葉を投げてやると、クモはその葉に乗り、足を使って船を漕ぐようにして岸にたどり着きました。

これを見た神様が舟を思いつき、クスノキをくり抜いて舟を作った・・・という伝説が残っています。

そういうわけで、船玉神社は現在でも漁師の信仰が厚く、毎年5月には祭が営まれています。

相殿は玉姫稲荷で、船玉神社の神とは夫婦の神。

こちらの神様は、月に一度玉置神社にお参りに行くとされていて、この神様が通る日、通り道の伏拝集落では、よく雷が落ちると言われています。

この船玉神社の眷属は狛犬ならぬ「狛龍」です。

龍は日本では水の神様とされていますので、おそらく船や漁業との関係があるのかもしれません。

猪鼻王子

中右記に記載がありますが、上皇・法皇たちによる参詣がなくなると、この王子も廃れていきました。

徳川宗直は、廃絶された王子を調査し、かつて王子があった場所に緑泥片岩製の碑を建立しましたが、ここの碑はその一つです。

近くにある石仏は弘法大師と言われています。

猪鼻王子から少し発心門王子に向かったところに分岐があり、ちょうど番号道標があります。
その辺りの地形を見ると、イノシシの鼻先に見える場所があり、猪鼻王子という名前がここから来たと言われています。

ちなみに、この番号道標から分岐があり、現在は行けなくなっていますが、その道がどうやら本来のルートのようです。
現在発心門王子へと上る「たっくん坂」と呼ばれているルートは、昭和になってから開かれたものでそうです。

速玉大社~高野坂を歩いてきました

先日の研修で歩けなかった阿須賀神社から高野坂のルートを確認するべく、速玉大社から高野坂を歩いてきました。

速玉大社を出発し、阿須賀神社を訪れてからが今日のメインの目的です。

しばらくは街の中を歩きますが、道路に埋め込まれている熊野古道の道標を頼りに歩けばまず迷うことはありません。

今回は往時のルートを歩くべく、よせばいいのに浜歩きをして高野坂に向かいました。
堤防沿いを歩くと自然に浜に下ります。
そこから約2km、25分ほど歩きます。
目的地が見えているにも関わらず、行けども行けどもたどり着かない、そんな感じです。

高野坂は、熊野古道中辺路ルートで唯一海が見えるルートとされています(潮見峠からも見えますが)
距離は1.5kmと短いですが、往時の古道の様子が色濃く残っており、中辺路の大多数を占めるスギ・ヒノキの植林の林とは違い、原生林の中を歩くことが出来る貴重な道です。

古道の下にはJRが走っています。
パンダ号と遭遇。

ムラサキサギゴケが満開でした。

鯨山見(くじらやまみ)で昼食を取って三輪崎まで約4時間でした。

バスで速玉大社まで戻り、カフェ「ニカイノマド」で休憩をしました。
古民家を改装した趣のあるカフェで、ヘンプコットン(麻と綿)の服なども置いています。

高野坂の詳しい説明については、また日を改めて。

発心門王子~本宮大社⑤

祓殿王子

京都城南宮を10月5日に出発した後鳥羽上皇一行は16日、いよいよ本宮大社に到着します。
その前に、ここで本宮の聖域に入る前にこれまでの旅の汚れを清めるところ、それがこの祓殿王子でした。

これまでの王子といえば、旅の安全を祈願のために様々な「供物」を捧げるところでしたが、この王子は性格が違っていました。

今は祠しか残っておらず、どんな潔斎をしたのかは分かりませんが、京都の城南宮では、かなり厳しい潔斎がなされていたことが「熊野代官見聞」に残っています。

一、産穢(さんえ)之事 同人、夫も養生七ヶ日の間これを憚るべし。
一、葱蕜(にらにんにく)之事 葱は他所にて食して来る事は苦しからず。但し奉幣の日は憚るべし。精進中食せし者は三ヶ日、蕜は七ヶ日憚るべし。
一、蒜(ひる)之事 青三十三日憚る、辛は七十五日。
一、鹿之事 猪三十三日、鹿七十五日
一、月水人事 精進の日は憚るべし、本人は七ヶ日。
一、重軽服之人 憚りなし。
一、鳥、兎之事 精進中取るべからず。
一、死穢之事 別に法を守らず。
一、堂舎(寺)参詣之事 参詣せし本人は当日憚るべし、但し地蔵堂(有骨堂)は七ヶ日憚る。
一、犬死、犬産之事 
一、死穢所へ人を遣す事 門前までは苦しからず。

このうち過ちがあると、精進のし直しをさせられたそうです。

産穢:出産の際に受ける穢(けがれ)のこと。江戸時代では、父は7日間、母は35日間。

それだけではとどまらず、こうしたなまぐさ物を絶ちながら御精進屋で熊野曼荼羅の前で般若心経を読み、立ってはひざまずき床に額を打ちつける「額突(ぬかづき)」を繰り返したそうです。

ここではそんな厳しいことはしなかったでしょうが、少なくとも私たちが三山にお参りする時よりは厳しかったと思います。

・・・今、私たちは朝起きて顔を洗って歯を磨く程度です(笑)

この境内にはイチイガシの巨木が目を引きます。
樹齢300年あるそうですが、ここは本宮大社の聖域内にあるとして、明治の神社合祀の際にもこの木は切られずに済んだそうです。

イチイガシと言えば、昔の本宮界隈の方々の主食がこの木のどんぐりだったそうです。
本宮界隈では、地形的な理由からお米を作ることが難しかったため、稲作が普及するまではそれが地元の人々の主食だったという話を聞いたことがあります。

発心門王子~本宮大社④

三軒茶屋跡

昔、この辺りには茶屋が三軒あったことから名付けられました。
場所は九鬼ヶ口関所の横の少し開けたところだったようです。
よく、今の休憩所があるところに建てられていたといっている人がいるようですがそれは違います。
あの建物は、当時あった三軒の茶屋にちなんだ造りにしているということだけです。
なので、屋根が3つあるような造りになっています。

昔は人々の往来が多いのでここを「中辺路銀座」と呼ばれていたそうで、三軒の茶屋があっても十分営むことができたそうです。

茶屋にはお茶やお菓子の他に、藁草履なども置いていたそうです。

九鬼ヶ口関所

現在の関所はもちろんレプリカです。
場所もここではなく、もう少し小辺路よりにあったようです。
旅人はここで通行手形を見せなければならず、当時の金額で十文を払わなければなりませんでした。
十文とは、現在の金額に換算しておよそ180円~200円だったそうです。
ただ、昔の貨幣の価値は解釈に揺れがあるため、あくまでも目安ですが。

通行手形には、出身地、名前、年齢、家族構成、旅の目的などが書かれ、この者が泊まるところに困っていれば一晩泊めてやって欲しいとか、万一行き倒れになっていたなら、その土地の風習に従って葬ってやって欲しいなどという内容が記載されていました。
通行手形はその旅人の出身地の村の庄屋さんやお寺で発行してもらっていました。
こういったところは、今でいう役場の機能をしており、特に江戸時代には寺請制度の施行により、お寺で戸籍の管理などもしていたため、現在の役場の住民課と同じ機能を持っていたようです。

道標

九鬼ヶ口関所のちょうど向いに、道標が立っています。
「右 かうや 十九里半 左 きみい寺 三十一里半」と書かれています。
また、別の側面には、小辺路から来た時に本宮の方向を示す「左 本宮」とも書かれています。
一里が約4kmとされていますので、ここから高野山までは約78km、紀三井寺までは約126kmということになります。
いつ建てられたのかは分かりませんが、おそらく西国巡礼が盛んになった江戸時代のものと思われます。

西国巡礼の一番札所が那智の青岸渡寺、二番が紀三井寺、三番が粉河寺なので、一番と二番の距離が恐ろしく離れています。
当時の庶民の中には伊勢に参り、ついで三山をお参りし、さらにそのまま西国巡礼に転向するというツワモノもいたそうなので、まさに命がけの巡礼だったのでしょうね。

発心門王子~本宮大社③

伏拝王子

京都城南宮を出立して幾多の峠を越えてきた熊野詣の人々が、ここで初めてその目的地・大斎原を見ることができました。
人々は、その光景に感動し、思わず伏して拝んだことから伏拝王子と呼ばれるようになりました。

和泉式部

平安時代の歌人・和泉式部のお話が有名です。

式部がこの地に到着した際、月の障りになってしまいます。
当時、生理中の女性は「赤不浄」と呼ばれ、神社の聖域に入ることを許されなかったそうです。
このようになってしまった式部は、その気持を歌に詠みます。

晴れやらぬ 身の浮雲のたなびきて 月のさはりと なるぞ悲しき

ところがその夜、熊野権現が夢に現れ

もろともに 塵にまじわる神なれば 月の障りも なにか苦しき
(もともと熊野の神は塵に混じって生まれた神だから、何の遠慮もいらない)

と返歌をします。

これにより、式部は晴れて熊野にお参りすることが出来た・・・というお話です。

伏拝王子跡には、和泉式部供養塔というものがあります。
ただこれ、滝尻王子、大門王子、大坂本王子などにあるただの(と言っては失礼ですが)笠塔婆です。

そして、この王子について書物での初見が1722年「熊野道中記」であり、それより以前にあったとされる説では、600年ほど前の成立ではないかとされています。
今から600年前と言えば室町時代。
和泉式部の生没は不詳ですが、987年頃の生まれだそうなので、どう考えても時代考証が合わないのです。
なのでこの話は、後付けの作り話とされているようです。

これは、熊野の信仰を世に広めた一遍上人の弟子たち、熊野比丘尼、山伏などが和泉式部を引き合いに出し、日本中を回って熊野の信仰を広めたのではないかと言われています。

風雅和歌集には和泉式部が詠んだとされる歌と、熊野権現の返歌が載っているそうです。
風雅和歌集の成立が1349年。
和泉式部が活躍していた時代が1000年代。
ここでも時代に開きがありすぎることから、実際に和泉式部が詠んだものかどうかも不明なのだそうです。

夢を壊すような話ばかりになってしまいましたが、お話はお話としてお客様に楽しんでいただけたらそれでいいと思います。
実際外国人のお客様を案内する時は、ここまで言うことはありません。
説明は和泉式部の物語で終わります。

発心門王子~本宮大社②

水呑王子跡

1109年、藤原宗忠の中右記には「新王子」という記述があることから、どうもこの王子はその頃に建てられたもののようです。
聞くところによると、王子の場所はスタンプ台と説明看板がある向かいの小高い丘の上にあったそうです。

かつては、大門王子あたりを「水飲」と呼んでいたので、こちらを本宮の内側として「内水呑」と言って区別していたそうです。

ちょうど「湯川」と「道湯川」のようなものですね。
なんか、本宮に近いところが優遇されているようなきらいがあると感じるのは私だけでしょうか?

この近くに建てられている石碑は1723年に徳川宗直が建てたものです。
この石は緑泥片岩(りょくでいへんがん)と呼ばれていて、この地方では採れない石です。
九州から関東に及ぶ「中央構造線」の南側に三波川変成帯がありますが、その三波川変成帯によくある石です。
しかしまあ、よくも和歌山市あたりからこの石を運んで来たものですね。
高野山の五輪塔の石もそうですが、昔の人々の知恵と根性?には頭が下がります。

果無山脈と小辺路

少し見にくいですが、一番奥の山並みが果無山脈で、和歌山と奈良の県境になります。
その向こうは奈良県十津川村で、村としての面積では日本最大です。
その広さは、東京23区を合わせたものよりも大きいとか。
その奈良県十津川村は、明治の神仏分離令が顕著に実行された土地でもあり、1990年代に龍泉寺が建立された以外では、村内にお寺がないようです。

私の父はこの村の出身ですが、例に漏れず?神道派で、毎日神棚にお祈りしていた姿を見て私も育ちました。
うちは違いますが、葬式なんかも神式でされるところが多いと聞きます。
なぜ、ここまで徹底的に寺院が滅却されたのかは、こちらのサイトが詳しいのでリンクを貼っておきます。

なぜ、日本一大きな村から仏教寺院が消え去ったのか。廃仏毀釈 十津川村 玉置神社

さて、その果無山脈の中で尖った頂きの山が石地力山です。
その横の窪んだところに、高野山から本宮大社を結ぶもう一つの熊野古道・小辺路の果無峠越が通っています。
ちなみに、果無山脈と果無峠越をごっちゃに考えている人がいますが、厳密には果無峠越は果無山脈の一部を通っているだけです。
ちょうど山頂の果無峠で山脈と合流しています。
なので、果無山脈の尾根道と果無峠越は、途中までは全くの別ルートです。

果無山脈とは、田辺市龍神村・笠塔山から安堵山、熊野川に至る全長18kmの山脈のことです。
私はよく、黒尾山登山口から冷水山までの往復や、少し先の公文の崩(くもんのつえ)あたりまで、休みの日ごとに7年間歩いていました。
特に冷水山からの眺望は本当にきれいですよ。
熊野古道と違って植生も豊かですし、山自体も厳しくはないので、機会があればご一緒しましょう。
・・・冬はめちゃめちゃきれいですが、雪が深い時があるのでやめておいたほうがいいですが。

発心門王子~本宮大社①

地蔵

発心門王子から水呑王子にかけて4つのお地蔵さんがあります。
いずれも特定の病や症状を治療するもので、当時はこの地域に医者がなく、こうしたお地蔵さんに治癒を祈ることが定着したのでしょう。

写真については割愛させていただきます。

発心門王子側から順にお話します。

子育て地蔵

子供の成長を祈願するお地蔵さんです。
以前、語り部さんの間ではここを子安地蔵(安産)のお地蔵さんと言われていたそうですが、地元の方の指摘によって違うということが判明しました。
ちなみに、子安地蔵は次の発心門集会所にあるお地蔵さんです。

子安地蔵

発心門集会所にあるお地蔵さんです。
以前はこのお地蔵さんを子育て地蔵として説明していたそうですが、地元の方の指摘で先出のお地蔵さんと入れ替わりました。
普通に前だけを見て歩いていくと通り過ぎてしまいます。
子安地蔵は各地に多く見られます。

歯痛地蔵

ここも注意をしないと通り過ぎてしまいます。
たまに爪楊枝が備えられているのを見かけます。
ここはご利益があって、本当に痛みが消えたとか。
語り部さんのお話では、虫歯がある一定のところまで進行すると痛みが消えるそうです。
そういえば子供のころ、歯にポッカリ穴が開いているのに平気な子がいました。
おそらく、痛みに耐え抜いた「勝者」だったのでしょう(笑)

腰痛のお地蔵さん

水呑王子跡には、腰痛に効くお地蔵さんがあります。
お地蔵さんの中央部分が真っ二つに割れていて、そこにお賽銭を入れて願うと腰痛が消えるとか。
ただし、お賽銭を置く時に腰を傷めないようにしてくださいね(笑)

そもそも地蔵とは?

首飾り、如意宝珠と錫杖をもったお姿が一般的です。

よくあちこちで見かけるお地蔵さんですが、本来の意味は何かご存知ですか?

正確には「地蔵菩薩」です。
「菩薩」とは、如来になるために修行をされている仏様のことを指しますが、本当は悟りを開いて如来になれるのだけれども、人々を救済するためにあえて菩薩のままでいて、この世に留まっておられるのだとも聞いたことがあります。

お地蔵さんの役割をざっくり言うと、釈迦の入滅後、次の弥勒菩薩が現れるまでの間を救ってくださる存在です。

その弥勒菩薩が現れるのが釈迦の入滅後56億7000万年後とされており、その間ずーっと見守ってくださる仏様です。
ただ、この56億7000万年というのは、一説によると一桁間違っているとの指摘もあるようですが。

よく墓地には6体のお地蔵さんがありますが、これは六道(地獄、餓鬼、修羅、畜生、人、天)それぞれの世界のどこかに転生したご先祖様を救済するためだとされています。

元は弥勒菩薩が現れるまで救済してくれる仏様だったわけですが、のちに様々な信仰と習合していき、病気平癒、村の守り神、必勝祈願、旅の安全祈願のお地蔵さんも珍しくありません。
中には縁切り(!)のお地蔵さんもいらっしゃいます。
また、賽の河原のお話では、浮かばれない子供を救ってくださるのがお地蔵さんです。
見た目も相まってか、このあたりから子供の守り神として定着したのでしょうね。
熊野古道、特に大辺路には「みぎハやまみち ひだりハくまのみち」などと刻まれた道標地蔵が多く祀られています。
単なる道しるべだけではなく、旅人の安全を祈願する利他精神に、昔の日本人の他者を思いやる心が現れているような気がします。