近露王子~継桜王子③

野長瀬一族の墓

野長瀬一族は13世紀の初頭に、十津川~近露の官僚として勢力を伸ばしていった豪族。
その頃、南朝と北朝に別れてしまいます。
しばらくは南朝と北朝交代で政権を担っていたそうですが、次第に北朝に力が強くなり、南朝は奈良県吉野に拠点を構えます。

南朝の後醍醐天皇が鎌倉幕府を討伐して復権を図りますが失敗に終わってしまいます。
皇太子である護良親王が戦線に加わりましたが負けて玉置一族に追われていたところを野長瀬一族が峡谷の横から矢を放って助けました。

この功績から「横矢」の名を賜り、それが今日この地域の横矢姓の起源であると言われています。

また、この地域の「中村」姓も横矢一族から派生したという看板が墓地に立てられています。

さて、時代はさらに下り、豊臣秀吉が天下を治めんと各地を征伐し始めます。
和歌山も根来、雑賀衆などを制圧し、その勢力が南下を始めます。
とうとう紀南にもその勢力が到達し、上富田の山本氏や野長瀬一族などが抵抗を見せますが山本氏は最後の当主・康忠が、秀吉からの和睦の申し入れに応じ、ともに戦った湯川直春と大和郡山城を訪れますが、謀略にかかり藤堂高虎に殺害されてその歴史を閉じます。
また、湯川直春は城内で毒殺されています。

こうして山本氏も滅び、紀州征伐の紀南への延伸により、近露の野長瀬一族にも被害が出ました。
野長瀬の墓石は山中などあちらこちらに散らばっていたそうですが、戦後(第二次大戦)に畑を開墾する際に五輪塔や宝篋印塔がゴロゴロ出てきたので、現在の場所に一箇所に集められました。

五輪塔は54基、宝篋印塔は6基あります。

今日はここまでです。

近露王子~継桜王子②

近野小中学校

近年の小学校生徒数は20人、中学校は10人程度で推移しているようです。
ちなみに2019年度は、小学校は27人、中学校は10人。
前回の記事にも書きましたが、生徒のほとんど(全員と言っていたかも)はIターンの家族だそうです。
子供を育てるには絶好の環境ですよね。
自然が豊かで人も温かいし。

近野中学校は、1947年に近野神社の社務所を仮の校舎として開校したのが始まりで、1969年に近野小学校が併設されました。
それから時代が下って1996年、近野小学校は現在の位置に移転されます。

その後の2018年、校舎の耐震基準が低いために現・近野小学校に併設されました。

このグラウンド、今はどうかわかりませんが、小学校の芝生のグラウンドでは日本一の広さがあったとか。
中学校ができてから一部がテニスコートになりましたので、そのランキングがどうなったのかは分かりませんが。
聞いた話によると、芝生にしたのには重要な意味があるようです。
詳しくは語り部さんに聞いてくださいね(笑)

ちなみに、「近野」とは「近露」と「野中」のそれぞれの頭文字を取って名付けられました。
かつては近露と野中の両方の地域に小学校があったそうですが、1969年の中学校との併設の際に合併しているそうです。
そしてそれぞれが合併して「近野小学校」ができた、ということのようです。

近野神社

すみません、社殿の写真はありません。
この階段を上るをありますので、興味のある方は上ってお参りをしてください(笑)
ここを案内することはまずありません。
この階段を見た時点で「No」とか「Next time」とか言ってくれますので(笑)

この神社は1909年の神社合祀で、この地域にある王子社(大坂本王子、近露王子、比曽原王子、継桜王子、中川王子、小広王子、岩上王子、湯川王子)と、春日神社(かつては広大な神社が近露王子公園駐車場にあったそうです)の他、多くの神社がこの新たに建設された神社に合祀されました。
元々はこの近くの「宮ノ上」にあったそうですが、場所が手狭になってきたので1908年に現在の地に遷座されました。
なお、継桜王子は現在の場所に復社しています。

11月3日には、この神社でも県指定民俗文化財の「野中の獅子舞」が奉納されます。

この先には、このコースの最大の難所(といっても知れていますが)楠山坂が待っています。

すみません、今日はここまでです。




近露王子~継桜王子①

さて、今回から何回かに分けて、近露王子~継桜王子を取り上げます。
近露はかつての宿場町であり、平野でもあることから稲作も可能でしたので、上皇の一行はここで食料を調達したそうです。
近露王子からまっすぐに伸びる街道を「近露道中」と呼んでいたそうです。
過疎化が社会問題になって久しいですが、ここは地域起こしが盛んで、地域のお祭りやイベントなどが開催されて賑わいを見せています。
また、Iターンも積極的に受け入れており、現在の小学校の児童はほとんどがIターンの家族だそうです。

伝馬所跡

高原~近露王子⑫

近露王子②

近露王子の碑と出口王仁三郎

出口王仁三郎(「おにざぶろう」、または「わにざぶろう」とも)は、出口直(なお)とならぶ大本(おおもと・または大本教)の教祖。
大本とは、出口直が国常立尊の神がかりによって起こった神道をベースとした新興宗教(1898年)

その王仁三郎が1933年3月に近露を訪れた際、当時の村長・横矢球男の依頼を受け、近くの宿「山形屋」で書かれた「近露王子之跡」の筆跡を元にこの王子に碑が建立されました。
しかし、1936年の宗教弾圧で全国の神道以外の宗教に関連する建物や碑などが破壊される事態へと発展していきます。
これを憂いた横矢が、「近露王子之跡」の横に彫られていた王仁三郎の名を削って消し、「横矢球男謹書」と彫り「これは私が王仁三郎の筆跡を真似て彫ったものだ」と言い張り難を逃れたそうです。
しかしよくそれで難を逃れたものです(笑)
全国にはこうした碑がたくさんあったそうですが、現在まで残っているのはここだけではないかと言われています。

よく見ると(見なくても)明らかに削っていますよね。
横矢村長のこの碑に対する並々ならぬ熱意がこの碑を救ったのでしょう。

久保円五郎とトンネル

昔の近露は、近露王子の下流で稲作がされていて、近露王子を迂回する竹製の樋(とい)を介して田んぼに水が供給されていたそうです。
しかし、水害が起こると樋が破壊され、そのたびに樋を作り直さなければならなかったので、農家にとっては悩みの種でした。

そこで、この地区の久保円五郎さんが一念発起し、ノミと鎚だけで半年かけて近露王子の下にトンネルを彫り、それ以来安定して水が供給されるようになったそうです。

ただ、そのご子息の方のお話によると、「神聖な王子の下にトンネルを掘るとは許せない」という反対意見もあったそうです。

近露王子のスタンプ台に横に、そのトンネルに降りていける階段があります。
今はその水路は使われていませんが、時間に余裕があれば見てみてください。

(番外)民話 河童伝説

近露王子近くの民家には、度々河童が現れて悪さをしていたため、ある家の主が捕まえて懲らしめました。
すると河童は「あの橋(現国道311号線近く)のそばの松の木が枯れるまで、近露王子の鳥居がなくなるまでは二度と現れません」と言って放してもらったそうです。

今、その河童が言っていた松も鳥居も今はありません。

・・・ということは・・・

以上、高原~近露王子でした。

読んでいただき、ありがとうございます。


高原~近露王子⑪

近露全景

熊野古道なかへち美術館

妹島和世と西沢立衛の設計による美術館で、1998年に開館しています。
通常は近露ゆかりの画家・野長瀬晩花と渡瀬凌雲の絵画を中心に展示されていますが、熊野古道にちなんだ作品を展示している場合もあります。
フランス人は喜ぶ方が多いように思います。

近露王子公園駐車場

昔はこの地に春日神社があったと聞いたことがあります。
規模としてはかなり大きかったそうですが、1908年の神社合祀で近野神社に合祀されてしまいます。
当時はここにもたくさんの大木があったらしいですが、それも合祀の際に切り倒され、小学校建設の資金に充てられたそうです。

お客様によっては、翌日この駐車場にあるバス停から本宮に向かう方がいます。
ガイドとしては、高原まで車で行ってお客様とお会いし、帰りにここからバスに乗って帰ります。
栗栖川で降りたあと、高原まで30~40分かけて歩いて上らないといけませんが。

近露王子

最近は随分と木が生い茂ってきて確認しづらくなっていますが、お客様に説明する時は「あそこに下りていく」とか「今日のゴール」とお伝えしています。
継桜王子まで行く場合は、近露王子のそばを通り、近野小中学校のそばを通り、楠山坂を通って継桜王子に向うと説明をします。
継桜王子は楠山坂頂上の裏側にあたるところにあります。
近露王子の説明については明日に。

昔の上皇・法皇の一行は、この近露から本宮まで一日で歩いたそうです。

また、近露は山間部に開けた平野に位置しており昔から稲作が可能だったことから、ここで食料を調達したと聞きました。

箸折峠(番号道標25番あたり)から、この展望台を通り過ぎて旧国道311号線まで下りて行きますが、この石畳が滑りやすく危険なので、降りる前に十分注意を促す必要があります。

私は、雨が降っていたり、雨の後でまだこの石畳が湿っている場合は、転倒のリスクを避けるため、箸折峠から回り道を選択する場合があります。

高原~近露王子⑩

役行者像

写真向かって右が役行者像と言われています。
・・・えらく可愛いですが。

役行者(または役小角・えんのおずぬ)とは、修験道の開祖です。
修験道についてはまたの機会にお話しようと思いますが、熊野古道と修験道は密接に関わっています。

修験者の参詣道(修行の道)である大峯奥駈道には、神仏が宿るとされる75箇所の靡(なびき)、いわゆる行場があり、そこに到着すると行者は読経をして祈りを捧げます。
その「一番靡」が本宮大社です。

かつての上皇・法皇が熊野に参詣をした際、王子に立ち寄りやはり読経をしたり、歌会を開いたり、相撲をしたりと、旅の安全を祈願しながら神仏に奉納をしていますので、この王子での儀式は、修験道の靡とほぼ同じ役割・考えであると言えます。

また、修験者はかつての熊野のガイド役でもあり、添乗員的な存在でした。
京都から「お客様」をお連れし、宿まで案内するということをしていたそうです。

熊野比丘尼や一遍上人が熊野の信仰を広めたことはみなさんご存知でしょうが、修験者が果たした役割も非常に大きいものでした。

八大竜王像

高原~近露王子⑨

牛馬童子像

向かって左が牛馬童子像

今や中辺路のシンボルと言われる牛馬童子像。
一般に牛馬童子像と呼ばれていますが、真相のほどは定かではないようです。
馬と牛に跨ったお方は花山法皇とも言われています。

ではそもそも、「牛馬童子」とは何なのでしょうか?

牛馬童子の本来の意味は、弁財天に使える眷属・十六童子(十五とも)の一人のことであり、印錀童子、官帯童子、筆硯童子、金財童子、稲籾童子、計升童子、飯櫃童子、衣裳童子、蚕養童子、酒泉童子、愛敬童子、生命童子、従者童子、船車童子、善財童子で構成され、それぞれに役割があります。

牛馬童子は動物愛護の功徳があるとされています。

・・・動物愛護の仏が、動物に跨っているって、虐待か?
と思うのは私だけでしょうか?(笑)

熊野の歩き方を表している?

また、牛と馬を熊野の歩き方に例えているのだという説もあります。
上り坂などでは牛のように粘り強く、平坦な道は馬のように軽快にとか、熊野に参る時は牛のようにゆっくり、帰りは馬のように早く・・・など。

まあ、後から何とでも付け加えることができますので、この説自体後付け感が否めませんが。

あるいは、牛と馬は昔、農耕に使われていた動物であることから、農耕の神だという説もあり、みんな言いたい放題です(笑)

寛和(かんな)の変

花山天皇は17歳で代65代天皇として即位し、19歳で天皇の座を追われ、法皇となります。この事件を「寛和の変」と呼びます(次の一条天皇は7歳で即位)

花山天皇が19歳の時、妻とそのお腹にいた子を亡くしてしまいます。

その悲しい出来事以降、花山は仏門に入ることを考え始めました。

一方、自分の娘を花山の叔父(円融天皇)に嫁がせていた当時の右大臣・藤原兼家は、その孫にあたる皇太子((やす)(ひと)親王・後の一条天皇)を天皇に即位させ、外戚となることで政治の実権を早く握りたかったが、それには花山の存在が邪魔でした。
そこで兼家は息子の道兼に、花山を仏門に入らせるようそそのかさせます(一度仏門に入ると、二度と天皇の地位には戻れなかった)
道兼は宮中から花山を連れだし、元慶寺(がんけいじ)でまず花山が剃髪をし、仏門に入ると道兼は「さすがに無断では問題になりますので、父の兼家に事情を説明してきます」といって去ったまま戻って来ませんでした。

そこで初めて騙されたと知った花山は慟哭したそうです。

この後、兼家の孫が三種の神器を授かり、わずか7歳で一条天皇として即位。兼家は摂政*の地位を確立させました。

法皇となった花山は、熊野巡礼の旅に出ます。

*摂政(せっしょう) とは、天皇が子供、あるいは女性の場合に、天皇を後見しながら代理で政治を行う人のことです。

箸折峠と近露

天皇の地位を追われた関係で、お供も少なかったそうですが、ここで昼を食べる際、箸を忘れたことに気づき、近くのカヤを折ったという言い伝えから「箸折峠」と呼ばれるようになりました。

・・・このお話は様々なところで紹介されていますので省略します。

では、なぜ、カヤからそのような赤い液体がでるのでしょうか?
カヤは虫に食わるなどしてダメージを受けると芯が赤くなるそうです。

カヤを折った際に、赤い露が付着して滴り落ちていたのでしょう。

花山法皇は皇族では二番目に熊野に来られたお方です。
西暦987年。
ちなみに、最初のお方は宇多上皇(907年)です。

その後、花山法皇は那智まで足を伸ばし、那智の滝の二の滝に庵を組み、千日間の修行をされ、相当な験力を得たと言われています。

頭部切断事件

2008年6月28日、像の頭部が切断されているのが発見されます。
2010年8月16日、鮎川のバス停のベンチに頭部が置かれているのを地元の中学生が発見します。
この時すでに切断されて行方不明になっていた頭部はレプリカによって復元され、接着剤とボルトで固定されていました。
オリジナルの頭部を元の胴体に取り付けることも検討されたようですが、技術的にレプリカの頭部をキレイに外すのは困難であるため、断念したそうです。

2014年5月1日、再び頭部が破損しているのが発見されます。
しかし、これは像の内部に浸透した水分が凍って膨張して自然破断したらしく、一旦壊れたものを修復し、それを維持することがいかに難しいかを知ることができます。

今日はここまでです。

高原~近露王子⑦

上多和茶屋跡

このコースの最高点、上多和茶屋跡です。
案内板には「600m」と書いていますが、670mほどあります。
ここまで来ると流石に夏でも涼しいです。
私が歩いたのは10月ですので、涼しいというより寒かったです。

「林中には三界萬霊塔やお墓もある」と書いていますので、以前周辺を「捜索」しましたが見つけることはできませんでした。

1920年頃まで集落があり、畑を作り自給自足の生活をしていたそうです。
来てみれば分かりますが、どうやって水を得ていたのか疑問が残ります。

ここにも三体月の伝承があったようで、この地域の各地で伝承が残されていることが伺えます。

三体月伝説

「三体月」と聞くと「まん丸のお月さまが3つ」と想像しがちですが、説明板にあるように、旧暦の11月23日なのでこの場合は半月らしいです。
ちなみに、2021年の旧暦11月23日は、1月6日です。
厳寒期ですよね。

説明板の山伏の話によるとその月を見て験力(厳しい修行によって得られる功徳。これをもって民衆を救済するという修験道の考えに基づくもの)を得たとなっていますが、科学的には「幻月(げんげつ)」という現象で、氷の結晶からなる薄い雲を通して月を見た時、その氷の結晶が光を屈折させてできる暈(かさ)のことを指すそうです。
この場合、月の両側に幻のような光が現れるらしいのです。
これは太陽が同じような現象を起こす「幻日」と理屈は同じだとか。

翌年山に登って三体月を見た若者たちが験力を得たのかどうか謎です。

大坂本王子

大きな坂の麓にあることから名付けられたとされています。
五尺四方(約160cm四方)の社殿があったらしいですが、現在は社殿を囲う石だけが残っています。
写真横に笠塔婆は、滝尻王子や大門王子にあったものと同等のものだと思います。
他の二箇所の笠塔婆は原型をとどめていませんが、唯一この笠塔婆だけが完全な形で残されています。
・・・鎌倉後期にものが今までこうして残っていることって、信じがたいですよね。

残念ながら、大坂本王子は1909年に近野神社に合祀されてしまいます。

ここから15分歩けば、道の駅です。

今日はここまでです。