「熊野」の由来について考える②

発心門王子

今回は、熊野の由来について考える(その2)です。
「クマノ」の由来について深堀りしていきます。

「通説」の検証

前回までのお話では、通説として

1.死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化

2.「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

3.神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

4.熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

以上の解釈から、「クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国」、あるいは、「中心地から奥まった場所」という解釈と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、

ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分(イサナミ)の穢(けがれ=クマ)が原因だとし、その穢を落とすために「クマノ宮」を建てる。
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

となっています。

今回は、前回挙げた説について、私なりに考えてみたいと思います(かなり私感とガイド目線で見た考え方が入っています。ご了承を)

まず、1について。

「死者の霊が籠る国を『こもりくに(隠国)』といい、冥界を意味する『くまで』『くまじ』と同じく『くまりの』の変化」

・・・まったく意味不明です。

百歩譲って「くまりの」から変化したとしても、こじつけ感があることは否めません。
私たちガイドがその由来について説明する時、こんな解説ではまずガイドが説明に困ります。
ガイドがうまく説明できないことを話して、お客様が理解してくれるわけがありません。
一体、「こもりくに」がどうしたというのでしょうか?
初めてこの解説を見た時、「これが由来なんだ」と鵜呑みにしてしまい、説明に困りました。
英語ではなおさらです。

あまりにもこの類の説が有力視されていますが、私は初見からしっくりきていませんでした。

「くまりの説」「こもりく説」は、あくまでも個人的な考えであり、これから私がお話することと何らレベル的には変わりはないと考えています。

説はあくまでも説です。

次に2について。

「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地

「籠る」までは意味は分かります。
そこから突然、何のつながりもない「樹木鬱蒼」という言葉が出てきて読み手を困惑させてしまいます。
樹木鬱蒼の地を「クマノ」というのであれば、当時の日本中はほとんど「クマノ」と呼ばれていてもおかしくないと思います。

「死者と神が隠れ籠る地」は、まあ納得できます。
この「籠る」を「住まう」とか「坐ます(います)」として解釈するなら理解できるという話です。
神が籠る必要はないと思います。

続いて3について。

神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味

意味は2とほぼ同じです。
ムロ(牟婁)とクマノをかけて、より「隠れ籠る」場所が牟婁郡であることを強調しています。

4について。

「熊野の『熊』は『隈』であり、『奥まった場所』という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である」

高野氏は否定的ですが、都から見て熊野地域は南の端にあたり、そのすぐ先は黒潮洗う太平洋が広がっています。
その海の彼方には南方補陀落浄土があると信じられており、深山幽谷の先にそういった大海原が広がっているのを目の当たりにして、そこが「隈」(この場合奥まった場所、あるいは辺境の地)と、都の人が考えることは自然なことだと思います。

まあ、「常世国から見て奥」はちょっと曲解のような気がしますが。

以上からまとめると、「熊野」とは、神と死者が隠れ籠る、辺境の地であり、「クマ」は「隠れ籠る」「奥まった」「辺境」から由来したと考えられます。

・・・「こもりく」は置いておきましょう(笑)
話がややこしくなるので。

ホツマツタヱから熊野の由来を読み解く

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか?

諸国を回っていたイサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部)でソサノヲを授かります。
ソサノヲの傍若無人ぶりから、イサナミは、自分の隈(くま・ここではケガレのこと)が、ソサノヲに移ってしまったのだと考えその「隈」を落とすため、また、ソサノヲが行った行為によって、米の減収を余儀なくされたことを償うために「クマノ宮」を建てます。

このお話から、クマノ宮→隈の宮→隈を祓うための宮という解釈ができます。

この時点ですでにホツマツタヱでは「クマノ」という言葉が登場しています。

「こもりく」とか「くまりの」という言葉から想像する矛盾さはここにはありません。

では、なぜ「クマノ」という名前が定着したのでしょうか?
それはやはり、イサナミの死が大いに関係しているのではないか、と私は思っています。

アマカミ(当時の天皇の呼び名・イサナギ・イサナミは七代目アマカミであり、二人で天皇の役割を担っていた)であるイサナミが事故死をしてしまったことは、当時でも一大ニュースだったことは想像に難くありません。

縁起でもない話をするべきではないですが、今の世で同じ事が起こった場合を考えれば・・・これ以上話すのはやめておきますが、イサナミの突然の死は、当時の国民にとっても相当ショッキングな出来事であったに違いありません。

それがクマノ宮のある地で起こったことから、いつしか「ソサの国」から「クマノ」と呼ばれるようになったのではないか、と考えています。
鹿島、住吉など、その土地の名前が神社に由来するところが日本にはたくさんあり(「宮」とつくところなど、また、「亀」がつくところなども「神」が転訛したとされるところが多い)、本宮、那智なども、地名が先が神社名が先かは分かりませんが、いずれにせよ、神社とその土地の深い関係が示唆されています。
このようなことから、「ソサの国」が「クマノ」と呼ばれるようになったのも、ごく自然なことではないでしょうか。

熊野が「黄泉の国」と呼ばれていた理由も、イサナミの死が無関係だとは思えないのです。
このショッキングな話と、深山幽谷の熊野の典型的な地形、そしてそのすぐ先に広がる大海原が、「神や死者が隠れ籠る地」と考えられ、平安の上皇・法皇の爆発的な熊野参詣につながったのではないかと思います。
この「参詣ブーム」は、修験者の「広告」が大いに影響を与えたこともその要因の一つと考えられますが。

話がそれましたが、ホツマツタヱから「クマノ」の由来を読み解くと、イサナミが建てた「クマノ宮」に起源があると考えることができます。

おまけ(「八十隈に隠去なむ」を検証する)

さて、前の記事でお話した中で、もう一つ、突っ込みたいところがありますので、最後にお話します。

「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

 

というくだりです。

・・・だから、「こもりく」がどうした!?

それは放っておいて、

以前の記事「国譲り②」にも書いたので、読んでくださった方は「ん?」と感じたのではないでしょうか?

オホナムチがいわゆる「国譲り」をしたあと、ホツマツタヱではその後のオホナムチの足跡が描かれています。
この場合の「隠れる」は、「死ぬ」という意味ではなく、「隠遁をする」と解釈しなければ、国譲りは武力をもってオオクニヌシ(オホナムチ)一族を死に追いやったことになります。

「隠れる」の意味はこちら

また、「八十隈(やそくまで)」の解釈ですが、多くの辞典では「多くの曲がり角」とされています。
weblio 「隈」

goo 辞書 「八十隈」

デジタル大辞泉・大辞林第三版 「八十隈」

「八十」は「多くの」という意味であり、強調の意味もあるでしょう。
しかし、ここで登場する「隈」について言えば、「幽界」とか「死者の魂が籠るところ」と解釈するのは、前後の意味のつながりを考えれば、かなりの強引さが感じられます。
いったい、「幽界」や「死者が籠るところ」を強調する必要がどこにあるのでしょうか?

ホツマツタヱに基づいて考えれば「多くの曲がり角(津軽までの道のり)を経て、隠遁した」と解釈でき、合点がいくのではないでしょうか?

神話と正史は別物

以上、熊野の由来について、私なりの考えをお話しましたが、神話は神話で楽しく読めばいいと思いますし、いまのところ日本書紀が「正史」とされていますので、ホツマツタヱが絶対に正しいとかいうつもりは一切ありません。
しかし、日本書紀には「一書にいう」という記述がたくさんあることから、その元になった書物があったはずなのです。
その一つがホツマツタヱではなかったか、と思っています。

「ホツマツタヱは後付けの偽書だ」と言う人がいます。
もちろん、ホツマツタヱは話が出来すぎていて、後付けで改変された箇所がある可能性も否定できませんが、記紀でつながりが分からなかった部分がホツマツタヱでは書かれており、合点がいく点が多いのも事実です。

また、記紀も同様で、神話は神話であり、それこそ、編纂者が改変した可能性も十分考えられますので、それを鵜呑みにして解釈することもいかがなものかと思います。
その一例が、今回検証した「八十隈に隠去なむ」ではないでしょうか。

神話はあくまでも物語として読むべきであり、記紀を元に歴史の研究をするということは、実話を元にして作られたフィクションのドラマを元に、実話を探るようなものです。
そこからは残念ながら、どう研究しても絶対に真実にたどり着くことは出来ません。

話の辻褄が合わなければ、人に説明する立場の人間としてはますます困惑し、迷宮に迷い込んでしまいます。
そういった意味では、ホツマツタヱに書かれている内容の方が、ガイドとしては合点のいくことが多く、お客様に納得してもらえる内容でお話ができるという点では、記紀よりもホツマツタヱの内容を私は支持します。

いずれにせよ、私のような立場にない方については「こういう解釈がある」というレベルでおおらかな気持ちで接することが大切ではないでしょうか。

とにかくまずは記紀に触れてみてください。
世界中で、神話や国の成り立ちについて教育を受けていないのは日本くらいです。
記紀を読むことで、この国のことをもっと知りたいという気持ちになれば幸いです。

「熊野」の由来について考える①

今日は熊野の由来について、定説とされているものと、ホツマツタヱに書かれていることを比較しながら検証したいと思います。

五来重氏の著書・熊野詣 三山信仰と文化 には、熊野は幽国(かくれくに)であり、古代人は死者の霊のこもる国がこの地上のどこかにあると考えたことから、これを「こもりくに(隠国)」と呼んだ。
また、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じ「くまりの」の変化であろうと記しています。

高野澄氏の著書・熊野三山・七つの謎―日本人の死生観の源流を探るには、

◯神が隠れ籠るところを「神奈備(かんなび)のミムロ(御室)」と表記することがあり、牟婁郡の「牟婁」に由来している。

◯紀伊続風土記を引用して、「熊は隈であり、籠るという意味。この地は山川幽谷(さんせんゆうこく)、樹木鬱蒼だから熊野と名付けた」

◯熊野と御室はどちらも「隠れ、籠る」という意味

としています。

さらに、「熊(隈)には「死者の籠るところ」の意味もあり、日本書紀の中でオオアナムチノカミ(大己貴命)が天孫(ニニギノミコト)に国を献上したあと「八十隈(やそくまで)に隠去(かくれ)なむ」といって死んでいく場面があり、「八十」は強調の字で、「隈」は「幽界」とか「死者の魂の籠るところ」の意味であることは言うまでもない、万葉集ではこのような性格の場所を「隠国(こもりく)」と呼んでいる。

としています。

豊島修氏の著書・死の国・熊野―日本人の聖地信仰には、五来重氏の説を有力としながら、次の説が紹介されています。

熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である・・・というものですが、豊島氏はこれには無理があるようだとしています。

そしてやはり「熊野とは隠野(こもりの)=隠国(こもりく)」であり、死者の霊や神が隠れ籠る場所であると結論づけています。

一方、ホツマツタヱではどうでしょうか。
以前の記事にも書きましたが、ざっとおさらいをすると・・・

全国を回って国語と農業の普及に努めていた七代アマカミ、イサナギ・イサナミは、ソサの国(紀伊半島南端部の地域)で、男子を授かります。

その子は、ソサの国で生まれたことから「ソサノヲ」と名付けられます。
ソサノヲは幼少から暴れん坊であり、ソサノヲを産んだイサナミは、自分の隈(クマ=けがれ)がソサノヲに移ってしまったと思い、その「隈」を落とすため「クマノ宮」を建て、その償いを始めます。

ところが、ソサノヲは育ち始めた稲の上からさらに種を撒いて、稲の成長を阻害する行為を働いたため、その年の米の収穫が難しくなりました。
そこで、平野のすくなかったソサの国で、平地では用水路を整備し、養蚕を始めようと山焼きを始めますが、その折に運悪く風向きが変わり、イサナミは火傷を負って亡くなってしまいます。

イサナミの亡骸は、有馬の花の窟神社に埋葬されます。

ホツマツタヱ解読ガイドによると、「隈」とは「曲・隈・阿」であり、
1.離れ。それ。反り。曲り。背き。
2.負の方向に離れるさま。「下がる・勢いを失う・劣る・縮小する・静まる・隅にある・果てる」さま
●枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄。
●隅。末。下。果て。

とあります。
ホツマツタヱのクマノ宮については、

ソサ国に生む
ソサノヲは 常に雄たけび
泣きいさち 国民くじく
イサナミは 世のクマなすも
わが汚えと 民の汚えくま
身に受けて 守らんための
クマノ宮

ここで登場する「クマ」は「汚穢(おえ)」でありケガレを表し、「汚え」と「くま」は同義語で、同じ意味の語を連ねています。おそらく強調でしょう。
そして、意味としては前述の2の「枯。暗。病。雲。汚穢。闇。厄」として解釈されています。

いずれにしても、ここで登場する「クマ」とはケガレのことです。

いったんここで話をまとめます。

熊野の由来について、通説として
◯死者の霊が籠る国を「こもりくに(隠国)」といい、冥界を意味する「くまで」「くまじ」と同じく「くまりの」の変化
◯「クマ」とは「隈」であり、「籠る」という意味であり、この地は樹木鬱蒼なので「くまの」と名付けられた、あるいは、死者と神が隠れ籠る地
◯神が隠れるところを「神奈備のミムロ」といい、「クマノ」も「ミムロ」も「隠れ、籠る」という意味
◯熊野の「熊」は「隈」であり、「奥まった場所」という意味であり、古代の中心地域であった大和・河内から見て、遠く隔たった辺境の地域、あるいは、海の彼方にある常世国から見て奥である

なので、クマ=隈=籠る→死者と神が隠れ籠る国という解釈、あるいは、中心地から離れた奥まった場所と考えることができます。

一方、ホツマツタヱでは、わが子ソサノヲの傍若無人ぶりは、自分の穢(=クマ)が原因とし、その穢を落とすために建てたヤシロが「クマノ宮」
その後イサナミは、火傷を負って亡くなる。

長くなりそうなので、一旦ここで終わります。

ヤタの鏡とヤタガラス

今日はヤタの鏡とヤタガラスについてです。
前回の3記事の中で、ヤタの鏡の「ヤタ」の部分をもう一度まとめると、

  1. 「タ(咫)」は約20cmであり、ヤタ(八咫)は約160cm
  2. 「ヤタミ(八民)」であり、万民を表す
  3. 初代アマカミ・クニトコタチが住まいを作る時に、屋根の形をヲシテ文字の「ヤ」をヒントに作られた
  4. 「タ」はヲシテ文字の父、または指導者を表す
  5. 「ヤ」と「タ」を合わせて、「民を教え導くヤシロ」を表す

でした。

さて、ではヤタガラス(八咫烏)の「ヤタ」とは、何なのでしょうか?
順に「ヤタの鏡」の「ヤタ」に当てはめて検証してみます。

1.以前の記事にも書きましたが、八咫烏は「翼開長がヤタ(約160cm)のカラス」と先輩から聞きました。
現実的に、そんな大きなカラス(それも三本足)は熊野地方にも、どこにも存在しません。
ただし、この「三本足」については、記紀にはその記載がないことから、平安時代に中国の三足烏(さんそくう)と習合、あるいは同一視されたのではないかという見解があります。
平安といえば、熊野が上皇・法皇がこぞって熊野に来た時代です。
熊野は神聖な国とされていましたので、八咫烏が神聖な鳥として崇めらたのは、自然なことだと思います。
三本足にすることによって、その「神聖度」が高まったのでしょう。

2.もし八咫烏が万民を表すのであれば、日本国民全員が八咫烏ということになりますので、これは明らかに違います。

3.これは建造物を造った時のお話なので違います。屋根の意味ではありません。

4.父であるかどうかは分かりませんが、指導者ということであれば、神武天皇を導いたということから少し当てはまるかと思います。

5.「民を教え、導くヤシロ」の、「ヤシロ」の部分が違います。
強引に解釈して、「ヤシロ」を「神の依代とする肉体(カラス、あるいは人)」とすれば、なんとなく辻褄は合います。

もう一度1に戻ります。
以前の記事「ヤタの鏡②」に書いていますが、長さの単位を決めるために八十万人の平均身長を測り、そこから導き出された単位が「タ(咫)・約160cm」でした。

ということは、この場合の「ヤタ」とは、やはり人のことを指すのだと思います。
そして、ヲシテ文字の「タ」は「人を導く」という意味があることから、本当に道案内を買って出た地元住民だと、私は思っています。

「神話だ」といって片付けるのは簡単ですが、その元となっているものは何かということを突き詰めていくのも、神話のルーツを探るという意味では、非常に面白いことだと思います。

私のヤタガラスの見解については、「古代史ホツマツタヱの旅⑤ 神武東征とヤタガラス」をご参照ください。

ヤタの鏡③

ヤタの意味ですが、はじめてのホツマツタヱ 地の巻によると、寸法を表しているのではなく、八民(やたみ・万民)の心がその器の中に入るという意味だと書かれています。
詳しく見ていきましょう。

時代は遡り、クニトコタチ(初代アマカミ)の時代には、ヲシテ文字の「ム」から「ムロヤ(室屋)」を発明され、屋根を「ヤ」の形にすることによって「ヤシロ」が出来ました。
また、同様に作った民間の建造物は「ヤカタ」と呼ばれました。

「タ」のヲシテ文字は三方から光が集まる形をしていて、天上の神が人を養い充足を与え、助けることを意味しています。
人間界でいうところの父親の存在です。

「タ」のヲシテを逆さまにすると「ラ」のヲシテになり、これは「ハニ(土)」がもたらしてくれる豊穣であり、人間界でいうところの母を表しています。

ここから、「タラ」とは両親のことをいいます。

「タラチネ」という言葉は、親が子を孕むと乳が出るという言葉と一般に理解されていますが、言葉は同じでも父が乳を出して養うわけではありません。
君主は人民に幸福をもたらすように、父の役割は教えを垂れ、子を導くことなのです。

鏡は「依代(よりしろ)」といって、神に降りていただくための物(道具)です。
その依代を介して神からのお告げを聞き、それを民に知らせていたのだと思います。
父が子を教え導くように、政を行う者にとっては、「子」とはすべての民のであり、その民を教え導くことがお役目です。
従って、ヤタは「ヲヲヤケ(公)」という意味を持つそうです。

まとめると、「ヤ」は「ヤシロ」のヤで、「タ」は、民を教え導く父親的存在を表す、すなわち、「民を教え導くヤシロ(社)、あるいは依代」ということになります。

「キミの敷く政は太陽の光のように、八民をあまねく照らすものでありたいという願望から、『ヤタの鏡』と名付けた」とアマテルカミはおっしゃったそうです。

ヤタの鏡の「ヤタ」の意味は分かりました。
では、八咫烏の「ヤタ」はどうなるのでしょうか?
明日はそれについて検証したいと思います。

ヤタの鏡②

今回は、ヤタの鏡の続きです。
私は書籍やネットを介して学んだことをアウトプットしているだけなので、ホツマツタヱについて詳しく知っているわけではないということをお断りしておきます。

長さの単位の制定

マバカリ

まず、八十万人の男性の身長を測り、その平均値を求めました。
それを「ひとま(一間)」としました。
そして、その長さに作った物差しである「マバカリ」を作ります。
そのマバカリを8等分した単位を「タ(咫)」としました。

研究する先生によって「一咫」の長さの解釈が違います。
はじめてのホツマツタヱ 地の巻では約20cm、古代史ホツマツタヱの旅 第1巻では約30cmとなっていますが、ここでは、はじめてのホツマツタヱ 地の巻の解釈(約20cm)でお話を進めて行きます。

タカバカリ

当時の人の平均身長は約160cmで、それを8等分すると一咫が約20cmとなります。
ですので、八咫=約160cmということです。
この八咫に、「日」と「月」をそれぞれ「一咫」として八咫に加えると十咫となります。
マバカリに二咫を加えて作った物差しを「タカバカリ」と言います。
そして、咫の10分の1を「キ(寸)」としました。

マガリサシ

宇宙は「空風火水土」の五元素から出来ていて、人はそのうちの「空」を除く四元素・「風火水地」からなっています。
これを、マバカリ(八咫)に当てると、それぞれ二咫になります。
そして、マバカリの先端に直角に「空」の二咫を付けたものを「マガリサシ」と呼びます。
ですので、マガリサシの形は今で言う曲尺(かねじゃく)のような感じです。
この時代からこんなものがあったとは驚きです。

さて、そのマガリサシを、曲がった部分を上にして縦にし(上記リンク先のような格好)、それを回転させると、「空(宇宙・天)」が人を包み込むようにした円筒形になります。
これが、「天が定めた人の巡り」=「天の巡りのマガリサシ」ということだそうです。

このくだりは複雑なので、よく読まないと理解できません。

ここまで読むと、「ヤタの鏡」とは直径約160cmの鏡なのか?といえば、そうでもないようなのです。
このお話は非常に深いので、少しずつ噛み砕いていきたいと思います。

続きはまた明日です。


ヤタの鏡①

ホツマツタヱでは、歴史の話だけではなく、生活に関することや指導者としてどうあるべきかという類の話題など、多岐に渡ります。

一つ例を挙げると、生命が胎内に宿ってからどうやって男女に分かれていくのか、子供を身ごもる前のお母さんの呼吸数と、身ごもったあとの呼吸数はどう変化していくのか・・・ということが書かれています。

詳しくは後でご紹介する書籍を実際に読んでいただくとして、このブログでは、主に和歌山に関する話題を取り上げていきたいと思います。
・・・たまに趣旨からそれるかもしれませんが。

カガミの由来

ホツマツタヱは「神代文字」と呼ばれている「ヲシテ文字」で書かれています。
ヲシテ文字は48字あり、今の五十音と同じ文字数です。
ヲシテ文字とひらがなの決定的な違いは、ひらがなは表音文字なのに対し、ヲシテ文字は表意文字と表音文字を兼ね備えているということです。

ですので、一音一音に意味があります。

さて、カガミという単語ですが、「カ」と「ガ」と「ミ」それぞれに意味があります。
「カ」というのは昼間であり、光の部分、「ガ」は逆に夜であり闇の部分、「ミ」は人の身という意味でもあり、「見」という意味があるそうです。

アマテルカミがハタレの乱のあと、民それぞれが自分自身を顧みて反省を促すために八咫鏡を加え、三種の神器としました。

ハタレの乱については、こちらこちらを参照してください。

己の「光と闇」を、鏡を通して映し出し、その姿を「見」て、道を外した行動や考えをしていたなら「闇」を取り除き軌道修正をすることが大切だということを、アマテルカミは説いたのだと思います。
そして、これは古代史ホツマツタヱの旅 第1巻著者・いときょう先生がおっしゃっていた言葉ですが、鏡を置く理由は、鏡に神を招いて、鏡を見て自分の心を直すことにあり、「カガミ」の闇の部分である「ガ」を取り除くと「カミ」となり、それが人間本来の有様だということを説いたそうです。

ここでいう「カミ」とは指導者とのことで、昔は指導者を「カミ(またはキミ)」、指導者に従って行政を行う人を「トミ(またはオミ・臣)」、民衆を「タミ」として、それぞれの役割をまっとうして国が成り立っていたそうです。

なので、「君が代」とは「キミ」が治める「代(世)」ということになります。
この「キミ」とは、「アマカミ」のことなので、今の天皇陛下ということになります。
君が代については、また機会があればお話をしたいと思います。

先程の子供ができる仕組みが書かれている本はこちらです(画像クリックでリンク先に飛びます)

ワカヒメ・タカヒメ・オクラヒメ

ワカヒメ・タカヒメ・オクラヒメについてのお話です。

ワカヒメがお亡くなりになる時、タカヒメには琴(6弦・5弦・3弦)を、オクラヒメには和歌の奥義書を授けます。

タカヒメとはオホナムチの娘です。
オホナムチがワカヒメの元にイナゴを祓う呪い(まじない)を習い、その効果を目の当たりにしたオホナムチは感謝をし、娘のタカヒメをワカヒメの元に仕えさせます。
ワカヒメがお亡くなりになる時に琴と共に「タカテルヒメ」の称号を授けます。

オクラヒメは、カナヤマヒコの孫です。
カナヤマヒコとは、美濃の国の守(カミ)で、中山道を開いた方です。
ちなみに、私の産土(うぶすな)さんはカナヤマヒコ様です。

オクラヒメは、タカヒメと同じくワカヒメの元に仕えていましたが、ワカヒメがお亡くなりになる時に、「クモクシフミ」という和歌の奥義書と、ワカヒメの称号であった「シタテルヒメ」の称号を賜ります。
なので、「オクラヒメ」は「二代目シタテルヒメ」です。
また、「トシノリカミ(歳徳神)」として、玉津島神社に合祀されました。

玉津島神社の由緒には、オクラヒメ、トシノリカミという記述は見えません。
同じ「シタテルヒメ」という称号だったのでワカヒメと同一視されたのかもしれません。
また、由緒では(一般にも)主祭神の稚日女命(わかひるめのみこと)は、天照大神の妹とされていますが、ホツマツタヱではアマテルカミの姉であり、イサナギ・イサナミの第一子です。

以前の記事にも書きましたが、ワカヒメ(ヒルコ)は両親が厄年の時に生まれたので、カナサキの元に預けられます。
その後、晴れて家族の元(ソサの国)に戻って来ますが、この時にアマテルカミの妹として過ごします。
このことが元になって「天照大神の妹」とされたのでしょう。

こうやって読んでいくと、以前はあまり個人的に関心がなかった玉津島神社にも親近感というか、興味が湧いてきましすし、和歌山が頻繁に話の舞台として登場することは、和歌山県民として非常に誇りに思います。

スクナヒコナとアワシマさん

スクナヒコナ(少彦名命)は、和歌山では「淡嶋さん」として知られている、加太・淡嶋神社の御祭神です。
ホツマツタヱにもスクナヒコナに関する記述があります。

スクナヒコナは、トヨケカミ(アマテルカミの師)のお孫さんです。

スクナヒコナの登場シーンは、記紀にも描かれています。
はじめてのホツマツタヱ 天の巻には、このように書かれています。

オオナムチが淡海(おうみ)のササ崎にいると、舳先に鏡を掲げた船に乗った人物が漕ぎ寄せて来ました。
鏡の船はアマカミ一族の象徴であることから、オホナムチは湖岸から名を聞きましたが、その人物は答えずに黙々と船を漕ぎ続けています。
オオナムチの近習で、諸邦との連絡役にあるクヱヒコが、その人物を見知っていました。

「あの方は、子だくさんで知られたカンミムスビの御子の中でも、安穏な貴族教育を嫌って早くから親元を離れ、諸邦を遍歴しながら研鑽を積み、今や万般に通じた高邁な人物として、評判の高いスクナビコ様に違いありません」

スクナヒコナは、オホナムチに積極的に協力するようになり、様々な問題を共に解決していきます。
また、滞在中にカダガキ打ちの琴歌を習い、この地(アワシマ)の人々が知らないひな祭りを教えました。

その後、スクナヒコナはこの地を離れ、加太の浦に至って生涯を終え、淡嶋神社の御祭神として祀られました。
スクナヒコナの別名は、アワシマカミと言います。

淡嶋神社の縁起には

その昔、神功皇后が三韓出兵からお帰りの際、瀬戸の海上で激しい嵐に出会いました。
沈みそうになる船の中で神に祈りを捧げると、お告げがありました。
「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めよ。」
その通りに船を進めると、ひとつの島にたどり着く事が出来ました。
その島が、友ヶ島です。その島には、少彦名命と大己貴命が祭られていて、
皇后さまは助けてくれたお礼の気持ちを込めて、持ち帰ってきた宝物をお供えになりました。
 その後、何年か経ち、神功皇后の孫にあたられる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られ、
いきさつをお聞きになりました。そこで、島では何かとご不自由であろうと、お社を対岸の
加太に移され、ご社殿をお建てになったのが、加太淡嶋神社の起こりとされています。

と書かれています。

淡嶋神社の御祭神は、少彦名命と大己貴命(おおなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)です。

スクナヒコナとオホナムチは、こうして一緒に祀られることが多いようです。
このことは、記紀からも、ホツマツタヱからも読み取ることができますね。

国譲り②

国譲り第二弾です。

オホナムチが住む出雲に到着したフツヌシとタケミカツチは、剣を突き立てて

「身誇りて 斯く道を ならさんと 我ら仕ふぞ その心 ままや否やや」
※慢心して臣(トミ・政を行う階級の名)の身分を超え、国家を危うくする道を歩んでいる汝を平定して来いと、天(国政議会)が我らを遣わしたのだ。このまま反抗を続けるのか、それとも服従するのか答えよ。

と迫ります。

オホナムチはまったく身に覚えがなかったので驚きます。
そこで息子のコトシロヌシであるクシヒコ(コトシロヌシとは役職の名で、オオクニヌシの補佐のような役)に相談することにしました。

クシヒコは父の慢心行為を知り、父に諌言していましたが聞き入れられず、美保関で隠遁生活をしていました。
この時の諌言の顔が笑顔だったことから「ヱミス顔」と呼ばれ、後に「恵比寿さん」として信仰されるようになります。

父から遣いが来た時、クシヒコは釣りに興じていました。
そこで、父からの遣いに出雲を出る旨を伝えます。

しかし、そこに「待った」をかけたのが、オホナムチのもうひとりの息子・タケミナカタでした。
そこで、タケミカツチと力比べをしますが、タケミカツチの圧倒的な力に恐れをなし、信濃まで逃げ、諏訪湖のほとりで降参します(どこまで逃げとるんや・笑)

帰ってきた遣いから息子の言葉を聞いたオホナムチは、出雲を出る決意をします。
ようやくクシヒコの諌言が聞き入れられたのです。
出雲を出たオホナムチ一族(国司180人とも、180世帯とも)は、アソベ(津軽)に行き、開拓を任され、アソベの地も大いに発展します。
一方、息子のクシヒコは、七代目タカミムスビ(役職名)から、オオモノヌシの役職に任命され、ヨロギの地と宮(滋賀県高島市安曇川町)を賜りました。

記紀における二人の行方

古事記では、コトシロヌシは「『かしこまりました。この国は天つ神の御子に奉りましょう』と言って、その船を踏んで傾け、天の逆手という特殊な柏手を打って船を青紫垣(あおふしがき)に変えて、その中に隠れました」と書かれています。

日本書紀では「『今回の天つ神の仰せ言に父上は抵抗されぬほうがよろしいでしょう。私も仰せに逆らうことはいたしません』と言って、波の上に幾重もの青紫垣を作り、船の側板を踏んで海中に退去してしまわれた」と書かれています。
また、父・大己貴神も、同じような台詞を言ったあと「隠れた」としか書かれておらず、その後どうなったかは書かれていません。

しかし、ホツマツタヱでは前述の通り、オホナムチは津軽に行き、出雲と同じように成功を収め「ツカルキミ」という称号を賜っています。

出雲は独立国家だった?

「出雲は独立国家」という考え方が、今は大勢を占めているようですが、ホツマツタヱの中では朝廷の中の一つの地方行政機関として描かれています。
いち地方行政が、まるで一つの国であるかのような振る舞いをしてたので、朝廷がこれを看過することができず平定に動いたというのが、ホツマツタヱで書かれている内容です。

そもそも、追放されたソサノヲが、熊野から琵琶湖経由で出雲に行き、そこで結ばれたイナダヒメとの間に子をもうけ、その子であるオホナムチが、ソサノヲが築いた出雲の発展を引き継いだのですから、ホツマツタヱではきちんと筋が通っています。

国譲り①

今回は、国譲りのお話です。

ハタレの乱を平定したあと、ソサノヲは出雲の国の発展に尽力し、見事にその功績を残します。
そのソサノヲの御子の一人、オホナムチが、初代オオモノヌシに任命されました。

オオモノヌシとは当時の役職名で、警察のような役割をしていたそうです。

オホナムチは3人の子を授かり、その長男・クシヒコが二代目オオモノヌシになります。

ソサノヲの血を引くオホナムチは、父の後を継いでさらに出雲を発展させます。
しかし、ここでオホナムチは慢心から朝廷をないがしろにする向きがありました。

アマテルカミがいらっしゃるイサワの宮よりも立派な宮を造り、朝廷と同じように玉垣を巡らせ、「自分の宮はイサワの宮や多賀の宮よりも立派だ」と自慢します。
こうした言動が朝廷の耳に入ります。

九代目アマカミ・オシホミミが検察官を現地によこし、現状を調べさせます。
その現状を聞いたオシホミミは家臣を集め、誰を遣わしてこの真意を正すか、意見を聞きます。
その結果、ホヒのミコト、ミクマノ、アメワカヒコを順に遣わしますが、3人ともオホナムチにおもねって帰ってきませんでした。
中でも、アメワカヒコは、様子を見に来た遣いに対して弓を射て、その使者を殺してしまいます(古事記では、使者は雉になっていますが)

そこで、ついにハタレの乱で活躍したフツヌシとタケミカツチを起用し、出雲の国を平定をすることを決断します。