神社での参拝方法を分解する ~二礼→柏手→祈りまでの所作編~

今日は二礼の後、柏手を打って祈るまでの所作についてお話します。
この所作については、小笠原流以外で教えているところはないと思います。

神社本庁その他で一般に言われている所作をおさらいしましょう。

1.二礼する
2.手を合わせ、右手をずらす(第一関節分下げる)
3.柏手を打つ ずらした右手を左手に揃える
4.祈る

でした。
単に柏手を打って祈るということしか教えていません。

一方、小笠原流では、

1.二礼する
2.一旦胸の前で手を合わせる
3.合わせた手を前方に出し、柏手を打つ準備をする

4.柏手を打つ(指はずらさない)
5.合掌したまま胸の前に再び戻す
6.祈る

です。
二礼の後の祈りまでの所作についてまで教えています。

文章だと分かりづらいので、写真を少し入れて補足します。

2.胸の前で手を合わせる

二礼のあと、まず胸の前で一旦手を合わせます。
ちなみにこれは、祈る時と同じ姿勢です。

3.合わせた手を前方に出し、柏手を打つ準備をする

次に、合わせた手をそのまま前に出します。
「前に出す」と言っても、肘を伸ばし切ることはしません。
2の姿勢のままで柏手を打つことは美しい所作とは言えませんし、柏手を打つ手にも力が入りません。

柏手を打ったら、再び2の姿勢に戻し、祈ります。

この時、少し頭を下げる(軽く屈体する)と軽い合掌礼のような形になりますので、「頭を垂れながら祈っている」ような形になり、なお良いです。

合掌の手の形は、神社での参拝方法を分解する ~合掌編~をご参照ください。

実際にやってもらえばお分かりになると思いますが、この動作は無駄がなく、かつ、美しいです。
これは小笠原流の教えである「実用・省略・美」に適った動作と言えるでしょう。

ぜひ実践してみてください。

神社での参拝方法を分解する ~参道編~

瀧原宮の参道

右側通行?左側通行?

鳥居をくぐったあと、気になるのが参道の右側を歩くのか、左側を歩くのかです。
親切に書いてくれているところはそのとおりに従えばいいですが、「そんなの関係ない」という方はさておき、何も案内がない時は迷ってしまいますよね。

以前聞いた話では、「手水舎がある方を歩く」というものでした。
つまり、手水舎が参道の右側にあれば右側通行、左側にあれば左側通行という具合です。
伊勢の神宮では、内宮は「右側通行」、外宮は「左側通行」と立て札に書かれていますが、たしかに内宮の手水舎は右側、外宮は左側にあります。

しかし、何回も行ったことがあり、どちら側に手水舎があるのか分かっている場合や、参道を歩く前に手水舎が見えればいいですが、そうとも限りません。
では、そのような場合はどうすればいいのでしょうか?

すみません、はっきり言って分かりません(笑)

分からなければ周りの参拝者に合わせて歩くか、周りにいない場合は、どっちでもいいんじゃないですかね?

参道の真ん中は通らない?

参道を歩く際の注意点として、よく「正中(参道の真ん中)を通らない」と言われています。
正中は、神様の通り道とされているため、人がそこを通ることは避けるように書かれている神社も見かけます。

しかし、以前内宮を案内していただいた伊勢神宮崇敬会の方のお話を結論から言うと、「正中を避けるという考えは元々なく、あれは行き過ぎた考え方です。どこを歩いていただいても構いません」ということをお聞きしました。

確かに、伊勢の神宮の参拝方法を見ると「正中を避けろ」という記述はありません。
伊勢神宮・参拝の作法とマナー

一体いつからそういった考えが生まれたのかは分かりませんが、戦後「二礼二拍手一礼」でほとんど統一された参拝作法の背景から読み解くと、これも後付の考えなのかもしれませんね。

どちらを支持するかはおまかせしますが、私はあまり行き過ぎた考えは、かえって参拝を窮屈なものにしてしまうのではないか、と思っています。
なので、最近はあまり正中を気にすることがなくなりました。

あ、「正中を通るな」と立て札などがある場合は別ですよ。
ない時は気にせず歩いています。

人は「ダメだ」と言われると「そうなのかなあ」と思いますし、「別にどっちでもいい」と言われても「そうかなあ」と思うということに気付かされました。

ちなみに、参道に敷き詰められている玉砂利ですが、あの「ザッザッ」と踏みしめる音で、心を清める意味があるそうです。
たまに外国人のお客様から、なぜ玉砂利が敷いてあるのかについて質問を受けますよ。
参道がやたら長いのも、本殿に到着するまでに心を清め、気持ちを落ち着けるためなんでしょうね。
神道は「祓い清め」をどこまでも重要視していますよね。

神社での参拝方法を分解する ~手水舎編~

月読宮

今日は神社での参拝方法を分解する「手水舎編」です。

鳥居をくぐってまず説明するのがこの手水舎での作法。
ガイドであれば正確にお客様にお伝えできるようにしておきたいところです。
しかしながら、社殿での参拝と同じように、間違った作法を教えているガイドをよく見かけます。
また、その土地によって独特な作法もありますので、あわせてお話をします。

手水舎は「てみずや」「てみずしゃ」「ちょうずや」「ちょうずしゃ」など様々な呼び名がありますが、まあ、どれでも呼びやすいものでいいと思います。

ちなみに私は「てみずや」派です(笑)

手水舎の起源

以前は川で禊をして神社の聖域に入ることが慣わしでした。
熊野では、大斎原へ入るには、音無川を渡らなければなりませんでしたし、那智大社では大門坂に入る前(振ヶ瀬橋があるところ)で禊をし、神倉神社でも同様でした(今その川はドブ川になっていますので、とてもではないですが無理です)
江戸期に入ってからは音無川に橋がかけられましたが、それでも川で禊をする参詣者が多くいたと聞きます。

また、お燈まつりの日には、王子ヶ浜で禊をする方もいます。
ある地元の人に聞くと「あれはコアな人がやることだ」と聞きましたが(笑)
コアな方、読んでいましたらすみません。

また、歴史を遡ると、藤原定家は風邪を引いている中、田辺の浜で潮垢離をさせられたと、彼の日記に文句を書いています。
田辺からはいよいよ熊野の聖域に入るとされていたため、そこで禊をすることが重要と考えられていたのでしょう。
禊はそれで終わりません。
富田川(石田川・いわたがわ)は、熊野の聖域から流れてくる初めての川なので、ここでの禊も重要視されていたようです。
藤原宗忠の中右記によると、一ノ瀬(市ノ瀬)あたりから滝尻王子にいたるまで19回も富田川を渡渉したと記録されています。

なので、神社の聖域に入ることはもちろん、場所的に聖域と考えられていた所に入る前には、禊を行う慣習があったようです。

現在の手水舎での清めは、その簡略版です。
・・・昔に生まれていなくてよかった(笑)

ある語り部さんからのお話では、「災いをもたらすところを清める」と聞きました。
たしかに、手も口もそうですよね。

ちなみに、「一ノ瀬」は現在「市ノ瀬」となっていますが、昔は「六ノ瀬」まであったと聞いたことがあります。

水を掬う

さて、本題です。
神社によって、「柄杓を取る前に軽く一礼をする」など、細かいところの違いはありますが、今回は割愛します。

まず、柄杓を取り、水を掬います。
「龍の口から汲まなければいけない」とか、そういう決まりはないと思います。
伊勢の神宮や本宮大社の階段の途中にある手水舎は、そういった類のものがありませんので。
あれば汲んでもいいかもしれませんが、チョロチョロ出ている水を柄杓一杯まで汲むのは時間もかかります。
他の参拝者の迷惑にならないようにしたいものです。
私は、よっぽど淀んだ水でなければ、手水鉢にある水を掬います。

左→右→左

まず、左手を洗い、右手を洗います。
次に左手に水を受け、その水で口をすすぎます。
次にもう一度左手を洗います。
最後に柄杓を立てて次の参拝者のために柄に水を流します。

ここまでの一連の所作を、一杯の水で行います。
足りなくなったら再び汲んでもいいですが、慣れれば一杯ですべて洗うことができるようになります。
途中で水がなくなる人は、修行が足りん(笑)

さて、新宮では少し作法が違うようです。
はじめに左を洗い、右を洗う、ここまでは同じです。
次に、龍の口(または蛇口)から新たに水を汲み、その水で口をすすぎ、左手を洗う、柄杓を立てて柄杓に水を流す・・・といった具合です。
「郷に入れば郷に従え」なので、その土地に作法があれば、それで行うのもいいと思います。

なぜ、左から先なのか、これは陰陽の考え方に基づくと思っています。
陰陽では、左が陽で右が陰、左が先で右が後だからです。
たしか、ホツマツタヱに「左が先で右が後」という記述があったかと思います。
ホツマツタヱでは「ヲ」と「メ」ですがね。
中国の陰陽五行は、日本発祥です。

話がそれましたが、左→右→左手で水を受けて口をすすぐ・・・で終わりとしているところもあります。

あるガイドさんと一緒に仕事をした時に、彼の手水舎での説明は左→右手で水を受けて口をすすぐ→終わり・・・でした。
これは明らかにおかしいです。
彼の立場というものがありますのであえて突っ込みませんでしたが、間違った作法を広めていると考えれば、やはり確認をしておくべきだったのではないかと反省しています。

神社での参拝方法を分解する ~足の運び編~

今日は神社での参拝方法を分解する「足の運び編」です。

あなたは、社殿の前で二礼二拍手一礼をしたあと、どのようにしてその場を去りますか?
色々調べましたが、細かく指南されているところが見当たりません。
たまに聞く話として、「お尻を神様に向けると失礼だから、正面を向いたまま2、3歩下がる」くらいのものです。

小笠原流では、そのことについてもきちんと教えてくれます。

社殿に向かって右側に立っている場合

その例として、社殿に向かって右側に立っている場合でお話します。

①お参りを終えると、両足を揃えている状態から左足を後方(右足の外側)に引きます。
この時、残した右足は正面を向いたままです、

足を引くことによって自然に頭がさがり、お辞儀をしているような所作になりますので、神様に対しても失礼にはなりません。

②次に残している右足を引き、左足に揃えます。
この時点で、社殿に対して横向きになっています。

③次に左足を90度程度開いて向きを変え・・・(普通に踏み出してもかまいません)

④最後に右足を踏み出し、普通に歩いてその場を離れます。

まっすぐ後ろに2、3歩下がると他の参拝者にぶつかる可能性もあります。
また、すぐ後ろが階段のような場所では危険です。

いずれにしても、最終的には神様にお尻を向けてしまいますので、安全かつ失礼のない小笠原流でされてみてはいかがでしょうか?

なお、社殿に向かって左側に立っている場合は逆の動き、つまり、右足を引く→引いた右足に左足を引いて揃える→右足を踏み出す→左足から歩き始める・・・となります。

神社での参拝方法を分解する ~合掌編~

今日は神社での参拝方法を分解する「合掌編」です。

そもそも合掌の起源とは?

合掌の起源って何でしょうか?
Wikiにはこのように書かれています。

日本では仏教に関する儀式の際に行われるだけでなく、お詫びをするときやお願いをするときに、相手を持ち上げるための仕草として使う例もある。

また、食前食後の挨拶の際に合掌する例もあるが、これは仏教由来の習慣である。

神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道の礼拝では、合掌はしない)。

つまり、合掌は仏教伝来であるということですね。

合掌の起源は5000年前?

「いやいや、仏教伝来以前から合掌はあった」という説もあります。
合掌の語源はサンスクリット語の「アンジャリ」という語が仏教に取り入れられ、漢字に訳されて「合掌」となったそうです。
https://www.zen-essay.com/entry/gassyo

国宝・合掌土偶

平成9年、青森県八戸市、風張1遺跡から出土した縄文時代の土偶の中に、合掌をしているものが発掘されました。
この土偶、縄文時代後期のもので、約3500年前のものと推定されています。

仮にこれが本当に信仰を表しているものであれば、合掌は仏教が誕生する遥か前から、日本に存在していたことになります。

神道に合掌はない?

Wikiの記述に

神道では柏手として手を打ち合わせるが、その後は両手を下ろし、お辞儀して礼拝する(神道の礼拝では、合掌はしない)

とありますが、「二礼二拍手一礼」の一連の拝礼のなかで、だいたいの人は「二礼二拍手」の後に合掌をして祈ります。
ただの形式的な参拝(団体で参拝する時など)であれば祈りの部分はないかもしれませんが、個人的に参拝する人はだいたい祈っていますよね。
なので、このWikiの記述は適当ではないということになります。

それを言うなら、「拝礼の一連の動作の中に合掌が含まれている」とするのが適当だと思いますがね。

合掌の形

ということで本題です。

その祈りをする際の手の形が、小笠原流では細かく指導されています。

まず、手の形ですが、人差し指、中指、薬指の三本を揃え、親指と小指をそのやや内側に添えます。

この時の手の形を横から見た時、ゆるやかな弧を描くような形にします。
ちょうど水を掬うような形です。
座った時に膝に手を置いたり、立っている時に両足に手を添える時なども、この形が基本となります。

指を開くことは口が開いているのと同じでタブーとされています。

次に両手を合わせます。
この時、両手の親指と人差し指で二等辺三角形の空間を作ります。

脇を張らず自然に締め、胸の前で手を合わせます。

柏手から合掌まで、細かい一連の動作がありますが、それはまたの機会にご紹介します。

神社での参拝方法を分解する ~柏手編~

今日は、神社での参拝方法を分解する・柏手編です。

柏手(かしわで)の語源は定かではありませんが、拍手(はくしゅ)の誤写であるとか、手を合わせた形が柏の葉に似ているからとか、昔は柏の葉に食事を盛り、感謝の意味を込めて手を打っていたことに由来するという説があります。

まあ、とにかく手を打つことです。

今日はその柏手の作法について、一般に「作法」とされている打ち方と、小笠原流での打ち方を照らし合わせてお話をします。

神社本庁と小笠原流の違い

神社本庁では

「胸の前で両手を合わせ、右手を少しずらします」

としています。
これは神社本庁だけではなく、この作法が一般的とされています。

一方、小笠原流では右手をずらすことはせず、揃えたまま打ちます。

右手をずらす意味、ずらさない意味

では、右手をずらす意味とは何でしょうか?
所作にはおおかた、そうなった理由があるはずです。

一つは、神への敬意を表すためであるとされています。
陰陽の考えに基づくものだと思いますが、左が陽で神、右が陰で人を表すことから、右を少し下げるのだという考え方です。

もう一つは、柏手を2回打ったあとでずらした右手を揃えますが、これは右手がずれている時点ではまだ神と一体になっておらず、その後に指を揃えることで初めて神と一体となり、その力を得ることを表すのだとか。

また、手をずらすことにより、よりはっきりと音が鳴るからとも言われています。
はっきりとした音は神様にも伝わりやすいのでは?と言われているとか。

では、小笠原流はなぜそういった考え方がないのでしょうか?

理由は単純明快です。

「手をずらして打つのは人を呼ぶ時」

本来、手をずらして打つ動作は「ご飯が出来たよ~」など、人を呼ぶ時にしか打たないそうです。
なので、小笠原流では「神様用」と「人間用」で、打ち方を区別しているんですね。

また、手をずらして打つことではっきりとした音が鳴るといいますが、練習すれば揃えた状態でもはっきりときれいな音が出せます。

「二礼二拍手一礼」が「作法」となったのは、戦後とか明治時代とか言われていますので、長い長い神道の歴史から見てつい最近のことです。
それまではその土地や社によって、あるいは人それぞれの参拝方法があったものだと思います。

柏手の「右手をずらす」という作法も、戦後の後付けかもしれませんね。
なんでわざわざ「神様とまだ一体でない」という状態を作り出す必要があるのか、その意味がわかりません。
ならば最初から「神様と一体でありますように」という願いを込めて揃えて打つ方が理に適っていると思いますがね。

どちらをお客様にお伝えするか(あるいは両方をお伝えするか)はおまかせしますが、「常識」とされていることが、実はその理由がそんなに説得力がなかったなんてこともあります。
この柏手の例も私はそう思います。
常識を疑ってみるとか、その理由を探ることも大切なのかもしれませんね。

手を開くのは肩幅まで

ガイドの中には「さてみなさん、お手を拝借ぅ~!」と言わんばかりに両手をいっぱいに開いて柏手を打つ人がいます。

入門 小笠原流礼法によると、武家社会では直垂(ひたたれ)のように袖の大きな装束を着用した場合は手をいっぱいに開いて打っていたそうですが、現在のような洋服や着物では、そのような所作は不自然です。

小笠原流でも、神社本庁でも、手を開く幅は肩幅までとされています。

直垂については、装束の種類(直垂)をご参照ください。

今日ご紹介した柏手を始め、姿勢、室内出入りの作法、物の持ち方・受け渡し、訪問・来客の作法、和服の扱い、暮らしの心得、食事の心得など、小笠原流礼法の初歩を網羅しています。
本書に書かれている作法は本当に無駄がなく、体の構造に沿った非常に美しい所作です。
勉強して損はないと思います。

恥ずかしくない作法で正しく人と接していきたいものですね。

様々な作法が網羅された「入門 小笠原流礼法」はこちら↓

ヲシテの「あいうえお」と空風火水地

今回はヲシテ文字の「あいうえお」と、空風火水地についてです。
ヲシテ文字とは、ホツマツタヱ、ミカサフミ、フトマニに書かれている古代文字とされています。

松本善之助氏の発見以来、松本氏はもちろん、池田満氏や他の研究者の方々の努力と苦労によって、最近「ヲシテ文字」という言葉を聞く機会も増えてきつつあります。

今回は少しだけ(私が知った知識だけです)お話しようと思います。

ヲシテ文字は、漢字伝来以前から日本で使用されていた文字のひとつとされています。


古代史ホツマツタヱの旅 第1巻によると、事の発端は、「現代用語の基礎知識」の初代編長であった松本氏が、偶然ホツマツタヱの写本を神田の古本屋でその一部を発見します。
そこに書かれていた文字がヲシテ文字だったわけです。

それから、松本氏による猛烈な研究が始まったそうです。

そしてついに、愛媛の宇和島・小笠原長武氏宅で、完全な写本が発見されます。

さらに、昭和48年に滋賀県高島郡の野々村家からミカサフミとフトマニが発見されます。
12万字、10700行余りに渡ってすべて五七調で書かれていた大作です。

そこに書かれていた内容が衝撃的だったのに加え、ヲシテ文字の意味を解明することにより、縄文時代にはすでに日本に文字を持った文明があったということが分かってきました。

あいうえおと五元素

以前の記事にも、ヲシテ文字は表音文字であり、表意文字であると書きましたが、ここで少しお話しようと思います。

ヲシテの48音図 によると、

あ:うつほ(気体)
い:かせ(冷たく降りる)
う:ほ(温かく昇る)
え:みつ(液体)
お:はに(個体)

となっています。

五輪塔に刻まれている「空風火水地」とよく似ていますが、池田氏はこれを否定しています。
ヲシテ文字の思想が縄文時代からあったとするならば、この考え方が大陸に渡り、「空風火水地」となり、日本に逆輸入されたのではないか、とさえ思えます。

また、はじめてのホツマツタヱ 地の巻によると、

アメノミオヤカミが大きな息を吹くと、やがてそれが渦を巻き始め、「ヲ(陽)」と「メ(陰)」の元素に別れた。

天地(あめつち)をお造りになったあと、陽は軽いので回転とともに上昇して天となり、陰は重いので凝り固まって地球になった。

また、陰の元素は水と土(はに)に別れた。

アメノミオヤカミはこの空風火水土の五元素を混合して人を造られた。 アメノミナカヌシです。

と書かれています。

どちらにせよ、陰陽五行に基づく考えは、日本が先であったということになります。

そして「あいうえお」は母音であり、すべての音の元になっています。
他の言語では異なる母音もありますが、すべてはこの5音の組み合わせです。
その組み合わせを分解すれば、5音に行き着きます。
先人たちが、この音と宇宙の五元素の関わりを知っていたということになると、もう「恐れ入りました」となるのは私だけでしょうか?

天皇について

伊雑宮。ホツマツタヱでは、アマテルカミがお住まいになっていた場所とされています。

今回は天皇についてです。

外国人を案内していると、天皇について質問を受けることが少なくありません。
あなたは天皇について外国人に説明をする時に、どう説明していますか?

日本国憲法における天皇

第一条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。

日本国民統合の象徴・・・何だかよくわかりません。
よく「象徴」「象徴」と耳にしますが、では、その「象徴」って、いったい何ですか?

現在の日本国憲法は、戦後GHQによって作られたものであることは、ご存知の方も多いと思います。
青山繁晴氏曰く、これはGHQが憲法を作成した時、天皇陛下のことを「symbol」と表したことによるとされています。
この「symbol」がそのまま訳されて「象徴」となったわけです。
天皇は、単に「象徴」と一言で片付けられるほどの存在ではありませんよね。

明仁上皇が天皇として在位されていた時、「象徴としての務め」というお言葉を発しておられましたが、戦後に天皇の地位が漠然と「象徴」と位置づけられたことで、戦後における天皇像とはどういうものか、当時の陛下ご自身、相当悩まれたことだと思います。

天皇陛下自身が、天皇のあり方について分からないということは、滑稽としかいいようがありません。
それは単に「象徴」と一言で片付けられたことが原因でしょう。

大日本帝国憲法では

一方、GHQに「改変」される前の「大日本帝国憲法」はどうでしょうか?

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス

単純明快です。
戦前までの天皇とは、本当の意味で国を束ねる存在であったわけです。

木花咲耶姫様の御神示

「いきなり何だ!」と思われるかもしれないですが、木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)という神様がいらっしゃいます。

コノハナサクヤヒメ様といえば、ニニギノミコトとの間に三人の御子(火遠理命、火須勢理命、火照命)をもうけます。
記紀では、一晩でコノハナサクヤヒメが身ごもったことを不審に思ったニニギノミコトの疑いを晴らすため、出入り口の無い産屋に火を放って三人を出産します。

その三人の御子の中の火遠理命から鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)が生まれ、ウガヤフキアエズノミコトから神武天皇が誕生します。

ですので、神武天皇から見れば、コノハナサクヤヒメはひいおばあさんです。

世の中には「シャーマン」と呼ばれる、いわゆるあちらの声が聞こえる方々がいらっしゃいますが、その中のひとりに天杵万乃(あまきまの)という方がいらっしゃいます。
天杵万乃さんは数学が得意で、数学の塾で講師をしていた経歴があり、数字を見ると勝手に因数分解をするほど数字が好きだったそうです。

元々、彼女自身はそういった存在など信じておらず、仏壇の扉も普段は閉めっぱなしにしているほど信心がなかったそうですが、ある日、病の床に伏している時にはっきりと「木花咲耶姫」という字が浮かび上がり、それからというもの、彼女と思われる存在からメッセージが届くようになったそうです。
当時は、突然自分の身に起こったこと(メッセージが聞こえる)に対して、「自分は気がおかしくなったのではないか」と思い、悩まれたそうですが、繰り返し受ける様々な話の内容が、あまりにも筋が通っていることから、彼女の存在を信じるようになった(せざるを得なくなった)そうです。
そしてそれらのメッセージを、世間の人々に発信しなさいという言葉を受けます。

ちなみに、メッセージが降りてくる時は、日本語ではなく数字が降りてくるような感覚だそうです。

私は5、6年前に彼女のブログを拝見し、その記事すべてを読みましたが、どれを取っても一本スジがきちんと通っており、このメッセージは間違いがないという確信に至りました。
(でないと、ここで紹介しようなんて思いません)

残念ながら、当時読ませていただいたブログのURLが2回ほど変わっており、今はそれを読むことはできませんが、現在でも、当時に受けたであろうメッセージを含めて、発信をされています。

興味のある方はこちらからどうぞ。

さて、前置きが長くなりましたが、その「神示」の中で、天皇についていくつも触れられていますが、その中の一つを引用させていただきます。

はるか遠き神世の時代。

食べものも少なく、文明の発達も穏やかなりし頃、神は人を愛で、人は神を尊び感謝捧げ、人の魂も美しく輝けり。

神は人に我を与えん。
そは人が発展し向上し、さらなる成長図るためのものなり。

なれど長き時流れ、文明発達し食べものも豊富となるにつれ、人は少しずつ神から離れ、その我は神の思いに反し我欲として増長せん。

さにて神は常に神と交信し神の道から離れし人を正道にいざなう役割を担い神に仕える人、天皇陛下を定めん。

人が正道にありて、更なる発展を正しく遂げるために天皇家は存在す。

さなれば日の本復活には、天皇陛下が神世の時、神より与えられたる本来の役割取り戻さねばならぬものなり。

つまり、神と交信ができ、その教えを用いて民を正しい方向に導く存在ということになります。

ホツマツタヱでは?

ホツマツタヱではどうでしょうか?

いにしえの あまつちうびの
きはなきに きさしわかるる
あうのめを をはあめとなり
つきとなる かみそのなかに
あれまして くにとこたちの
とこよくに

このクニトコタチが、最初に出現された神です。
ここでいう「神」とは、「守(カミ)」であり、国の政(まつりごと)を司る存在、国の指導者という意味だと思います。
そして、クニトコタチが初代アマカミであり、のちの「スヘラギ」「すめらみこと」「天皇」と呼ばれました。
国の名は「日本」ではなく「トコヨクニ」と言ったそうです。

・・・そもそも、「天皇」って、漢語読みですもんね。

なので、「天皇」と呼ばれるようになったのは、漢字が入ってきてからでしょうね。

国の指導者という点では、先程の天杵万乃さんのブログの内容と重なる部分がありますよね。
そして、大日本帝国憲法に見る、戦前の天皇についての解釈も、ほぼ間違いがなかったということになります。

おかしくなったのは戦後からです。

まとめ

「天皇」とは元々、民を導く存在であり、神(アメノミオヤカミ)の意思から離れて行った人々を、再び正道へと導くための存在だったということが、おわかりいただけるのではないかと思います。

そして、天皇とは祈りの存在であり、神道の頂点に立つお方です。
陛下は「象徴」となってしまった今でも、毎日国民のために祈ってくださっています。

現在は、天皇不要論みたいなものを主張する輩がいるようですが、とんでもないことです。

天皇がなくなれば、世界の親国である日本の終わりを意味し、世界の親国の終わりは世界の終わりにつながるということを、肝に命じてほしいですね。

大元の神について

今回は、大元の神についてです。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教など(元は同じですが)、他に神の存在を認めない宗教における神とは、人知を超えた絶対的存在であり、天地創造の神です。

また、真言密教においても最高の存在は大日如来であり、宇宙そのものという考えです。

では、神道にはそういった存在はないのでしょうか?
(ここでは、ホツマツタヱに書かれている内容も、「日本古来の信仰」ということで、「神道」と括らせていただきます)

古事記、日本書紀、ホツマツタヱで見ていきます。

古事記

天地が初めて発(あらわ)れた時、高天原に成ったのは天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)でした(以下、すべてカタカナ表記とし、「ノカミ」も省略します)

まず最初に成った神は、アメノミナカヌシと書かれています。
によると、この「アメノミナカヌシ」は宇宙そのものだとされています。
そして古事記では、この神は独神であり、男女の区別がない神とされています(まあ、神話ですからね)

古事記では、天地が創造される過程を示す記述は、無いに等しいです。

日本書紀

日本書紀にはこの点に関する記述がたくさん書かれており、「一書ではこう言っている」が6つもあり、それぞれの内容が微妙に違います(違うから載せたんでしょうけどね)

その「一書ではこう言っている」の前の段落で、「代表」のような記述があり、それによると

昔、天と地がまだ分かれず、引用の別もまだ生じなかった時、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。

やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものが固まるのには時間がかかった。
だからまず天が出来上がって、大地はその後に出来た。

そしてその後から、その中に神がお生まれになった。

天地が開けた始めに(中略)ある物が生じた。形は葦のようだったが、まもなくそれが神となった。

クニトコタチと申し上げる。

と書かれています。

日本書紀ではおおむね、クニトコタチが最初の神だとされていますが、天地が出来た後から生まれた神であることから、どうやら「宇宙そのもの」でも「天地創造の神」でもないようです。

また、天地が造られた過程が描かれていますが、「勝手に出来た」ような書き方であり、天地を造った神の存在はありません。

ホツマツタヱ

ホツマツタヱでは、いきなり「神が伝えてきたことによると」から始まります。

南方熊楠も言っていましたが、昔の人は「第六感」が発達していて(というか、元々備わっていた)、神々(または霊)と交信をすることが出来たそうです。

いきなりインパクトがありますね。

話がそれました。

それによると、

大昔にまだ天地が定まっていない時(宇宙もない時)唯一いらっしゃった神・アメノミオヤカミ(天御祖神)だけが存在し、その周りに「ウビ」と呼ばれる混沌が雲のように漂っていた。

アメノミオヤカミが息を大きく吐くと、「ウビ」が動いて渦(うず)を巻き始めた。

渦の中心は柱となり、やがて軽いものは陽極に、重いものは陰極に集まり、それが天(ここではおそらく宇宙)や太陽、地球と月が生まれた。

という内容の記述があります。

「唯一いらっしゃった神」によって天地(宇宙)を創造する過程が描かれていますので、アメノミオヤカミが、キリスト教などの「神」にあたる存在だと考えられます。

古事記における「アメノミナカヌシ」は、ホツマツタヱでは地球が出来た後に人類の祖として誕生し、その子孫からクニトコタチが生まれるという流れになっています(クニトコタチは初代アマカミ)
また、古事記のアメノミナカヌシは、天地ができてから成った神であることから、アメノミオヤカミとも、キリスト教などの「神」とも違います。

とにかく、「アメノミオヤカミ」というお名前は、私も聞き馴染みがありませんでした(記紀にももちろん登場しませんし)
しかし、縄文時代の人々も、やはりこの天地を造った「何か」がいらっしゃって、人間はその中で生かされているということがわかっていたのでしょうね。

そう考えると、キリスト教であろうと、神道(縄文時代の人々の信仰)であろうと、「信仰している神は同じであり、それぞれが違う角度から、違う方法で崇めているだけ」ということになりますね。
それが今、現代の日本人の信仰に中に存在していないことが残念です。

速玉大神について考える

今日は熊野三山の御祭神の一柱、熊野速玉大神について考えたいと思います。

熊野で異名を持つ神々

熊野三山で祀られているそれぞれの主祭神は、一般の呼び名とは違うことはみなさんもご存知のことだと思います。
熊野では家津御子神はスサノオ、熊野夫須美大神はイザナミ、熊野速玉大神はイザナギとされています。

先輩ガイドから聞いた話では、「それぞれの土地で神様の呼び名が違うことがあるように、熊野三山でのこれらの呼び名は、熊野での呼び方」ということでした。
いわゆる、「神様の方言」のような感じでしょうか。
しかし、どういう経緯でそのような名前になったのかという説明がありませんでした。

以前の記事「ソサノヲとクマノ宮」でもお話したように、ホツマツタヱからの解釈では、ソサノヲはイサナミの汚気(おけ)が移った子という意味でした。

「けつみこ」の「け」は「食べ物」を表すので、家津御子神とは、食べ物を司る神だという話を聞いたことがあります。
もちろん、「け」は食べ物の意味も表しますが、スサノオは食べ物の神ではないため、この場合は当てはまらないと思います。

では、速玉大神はどうでしょうか?

速玉さんについて、私が聞いた話や、本で読んだ話を交えてお話をしていきます。
なお、現在の速玉大神の解釈を否定するものではありませんので、あくまでも「一解釈」として読んでいただければ幸いです。

日本書紀に見る速玉大神

古事記を読む限り、「速玉大神」あるいは、それに似た名前の神は登場しません。
日本書紀に唯一、「一書(第十)にいう」として「速玉之男」として登場します。

伊弉諾尊(イザナギノミコト、以下カタカナ表記)が伊弉冉尊(イザナミノミコト、以下カタカナ表記)のおられる所にいらっしゃって、語っておられるのに、「あなたが愛しくてやってきた」と。
答えて言われる。「どうぞ私を見ないでください」と。

イザナギノミコトは聞かれないで、なおもご覧になっていた。

それでイザナミノミコトは恥じて恨んで言われるのに、「あなたは本当の私の姿を見てしまわれました。私もあなたの本当の姿を見ましょう」と。

イザナギノミコトは恥ずかしいを思われたので、出て帰ろうとされた。
その時ただ黙って帰らないで誓いの言葉として「もう縁を切りましょう」と言われた。

また、「お前には負けないつもりだ」と言われた。
そして吐かれた唾から生まれた神を名付けて速玉之男という。

次に掃き払って生まれた神を、泉津事解之男(よもつことさかのお)と名付けた。

二柱の神である。

 

お名前は出せませんが、ある宮司さんからも同じような話を聞きました。
さらにその宮司さんの話では、昔は誓約(うけい)をする時に、「事を分ける」という意味で唾を吐き合ったそうです。
その時に生まれた「仲介の神」が速玉之男、そして、誓約を交わしたこの誓約の言葉によって生まれた神(事を分ける神)が事解之男(ことさかのお)であり、この二柱の神は一対をなすので、別々に祀られているより一緒に祀られているほうが自然だというお話でした。

そして、日本書紀から見れば、速玉大神とイザナギは別の神として描かれています。

少し話題がそれますが、全国の熊野神社に祀られている神を見ると、そのほとんどが、イザナミ、速玉、事解男命の三柱だそうです。
そういえば、私の地元の白浜にも「熊野三所神社」がありますが、祭神はイザナミ、速玉、事解男です。

全国に散らばる熊野神社が三山から勧請されたのであるならば、「オリジナル」の三山のそれぞれの主祭神が、なぜイザナミ、イザナギ、スサノオなのでしょうか。

自然信仰から見た速玉大神

速玉大神について、自然信仰からの解釈も聞いたことがあります。

熊野のみならず、神道の起源は自然信仰とされています。
本宮は木と川、那智は言わずもがな滝、そして新宮はゴトビキ岩と川の信仰があるということです。

その中で、「はやたま」の「たま」とは玉のように早いことを言うそうで、「はやたま」とは、速い川の流れを表すそうです。

ただ、個人的にはあまりしっくりきていません。

和歌山県神社庁の記述

和歌山県神社庁のHPでは、

速玉は映霊で、イザナギノミコトの映え輝くばかりの力強い神霊の意で、夫須美はイザナミノミコトの万物を産み成し、幸へ給う女神としての大神徳を称えた御名である

と書かれていて、速玉はイザナギの称え名(たたえな)としています。
称え名という習慣は、ホツマツタヱでも幾多と記載があります。

例えば、ソサノヲが出雲の発展を成功に導いた時に贈られた名は「ヒカワカミ」、タマキネの称え名は「トヨケカミ(豊受大神)」など、何か国のために尽力をして一定の成果を収めた人物に贈られています。

熊野古道では、野長瀬一族が護良親王から「横矢」の名前を賜ったという話が残っていますので、当時は当たり前に行われていたのでしょう。

ホツマツタヱでは仲人

さて、いつもこのブログを読んでくださっている方(いてるのか?)なら、最後にホツマツタヱではどうなっているのか、興味が湧くところだと思います。

ホツマツタヱでは、イサナギ・イサナミの家系が書かれています。
家系についてはまたの機会にお話するとしてここでは省略しますが、イザナギ・イサナミとも、初代アマカミ・クニトコタチの譜系から誕生しています。

イサナギはアワナギを父に持ち、イサナミはトヨケカミ(豊受大神)を父に持ちます。
なので、トヨケカミはアマテルカミ(天照大神)の祖父であり、師でもあったわけです。

ちなみに、お二人のヰミナ(斎名・本名)はタカヒト、イサコです。

お二人が結婚をするため、まずハヤタマノヲ(速玉大神)が二人の縁結びを試みましたがうまくいかず、代わってコトサカノヲ(事解之男)が引き継いだそうです。
コトサカノヲは、お二人にトコミキ(床酒・二人が交わる前に酌み交わす酒)の作法を授けます。

残念ながら、ホツマツタヱではこれしか書かれていません。
ハヤタマノヲのことも、コトサカノヲのことも、どの譜系の人なのかがまったくわかりません。

ホツマツタヱでは速玉大神、事解之男とも、イサナギ・イザナミの仲人として登場しています。
「仲を取り持つ」という点では、日本書紀の記述と似ています。
そして、ホツマツタヱでもハヤタマノヲはイサナギと別の人物として描かれています。
内容は若干違いますが、日本書紀の「一の書(第十)」というのは、ホツマツタヱからの引用かもしれません。
このように、日本書紀にはホツマツタヱと似た記述が散見されます。

ということは、三山の速玉大神もイザナギではないのでしょうか?

神像の話

これはちょっとデリケートな部分なので、話題に入れようかどうか悩みましたが、「あくまでも聞いた話」というレベルで読んでいただければと思います。

現在国宝とされている神像四躯(速玉、夫須美、家津御子、国常立)のうち、新宮の解釈では一体がイザナミであることは確実なので、もう一体は夫のイザナギであろうとしたしたことから、イザナギ=速玉という解釈が生まれたのだろう・・・という話を複数の方から聞いたことがあります。

記憶がうろ覚えですが、これらの神像は「発見された」と聞いた記憶があります。

どういった経緯で発見されたのかは覚えていませんが、おそらく発見されるまでは、畏れ多くて社殿を開けることがなかった、あるいは、ごく一部の神職さんしか見ることが出来なかったからかもしれません。
伊勢の神宮では、三種の神器の八咫鏡を天皇陛下でさえ見ることが許されないと言われていることからも、こうしたことは十分考えられる事かと思います。

見つかった神像がどなたであるか、神像に彫っていたり書かれていたりすれば別ですが、何もそういったことが書かれていなければ、推定の域を越えることはないと思います。

なので、「イザナミがあるのだから、もう一体はイザナギだろう」と考えるのは自然なことだと思います。

結局、速玉大神とは

これまでの話をまとめると、速玉大神とは、「イザナギのと同一説」と「イザナギとは別の神説」に分けられます。
まず、同一説では、

◯イザナギの称え名である

 

別の神説では、

◯自然信仰から生まれた神である

◯イザナギ・イザナギの誓約の際に生まれた神であり、「事を分ける」儀式によって生まれた仲介役の神である

◯お二人が結婚する時の仲人だった

上記の中で「速玉=玉のように速い川の流れ」という「自然信仰説」は、那智の滝やゴトビキ岩とは違い、後付けかもしれません。
ハヤタマノヲが神格化され、後に自然神として信仰され始めたのではないかと思っています。

個人的な意見ですが、私は三山の速玉大神も、イザナギではないと思っています。
ただし、自分が案内する時はイザナギと説明はしています。
お客様を混乱させてしまうということと、三山や神社庁がイザナギと特定している以上、これに逆らうことはできませんので。

ただ、説明をするたびに心の奥底で「違うのではないか」という気持ちが湧き起こります。
色んな話を聞くと、そう思えてなりません。