古事記と日本書紀①

古事記と日本書紀、現代では古事記の方が人気があるかと思います。
本でも古事記の本というのは売れる一方で、日本書紀は売るのが難しいのだそうです。

これには理由があります。
もともと、我が国においては昭和20年まで「国史」とされていたのは日本書紀の方でした。
西暦720年、元正天皇に奏上され、その翌年の721年にそれが教科書として使われていました。
日本書紀は全文漢文で書かれていましたが、それをお師匠さんが大和言葉に置き換えて最初は貴族の子どもたちに教えていました。

その内容の素晴らしさから、やがて豪族や一般庶民の間にまで広がっていきます。

日本書紀は持統天皇までのことが描かれていますが、その後のことについても教えるようになり、それがやがて寺子屋へとつながっていきます。

一方で、古事記はどうであったかというと、実はほとんど埋もれていて知られていなかったそうです。

江戸時代に本居宣長が「古事記伝」を著して誰も読めなくなっていた古事記を改めて世に出し、その内容が非常に面白いということで、古事記も人気が出るようになりました。

大東亜戦争終結後、GHQが日本を占領し、歴史教育を禁止します。
このことは何を表すかというと、日本書紀での教育を禁止したということです。

しかし、神話の重要性を知っていた日本人は、「日本書紀が使えないのであれば古事記を使おう」ということになり、戦後から古事記について語られるようになりました。




日本の古代とは②

前回の続きです。
前回の記事はこちらから。

詳しくはこちらをご覧ください。めちゃくちゃ面白いです。
ねずさんの学ぼう日本

本来、学問というのは政治的であってはなりません。
事実を事実として、学ぶべきことをきちんと学び、日本人としてのアイデンティティを構築していくものです。
しかし現在では、それを大きく歪められてしまっているという現実があります。

日本は歴史のない国で、朝鮮半島から色々なものを教わったのだと、文字などもすべて半島から教わったなどと言われていますが、すべてウソです。

ウソを言わなければならないくらい、彼らには悔しいという気持ちがあり、本当は日本には深い歴史があることを彼らは知っているのです。
そして、悔しいから日本を痛めつけようとします。
日本人はというと、日本人は優しいので、それに配慮をしながら譲歩をする・・・その譲歩をした結果、「平安時代が古代」ということにされてしまっています。

仏教伝来の真実

日本への仏教伝来(公伝)ですが、一応、朝鮮の百済から経典・仏像・唐の高僧を贈ってもらった・・・ということになっています。
この時、文字も初めて伝来したともされています。

しかし、これには理由があります。

当時の朝鮮の百済の南、ちょうど釜山のあるあたりには「伽耶(かや)」という国がありました。
この伽耶、もともとは日本の直轄領で、任那日本府が置かれていたところです。
ところが、百済はこの時に大友金村(おおとものかなむら)という役人に賄賂を贈り、勝手に自分たちの土地にしてしまいます。
これを知った伽耶の住民は怒り、その後100年に渡って百済への税金の支払いを拒み、それを日本に納めていました。

この事件を知った天皇が激怒。
それをなだめるために何か贈り物をしなければならないだろうとなりました。
しかし、当時百済には、大和朝廷より優れた物が何もなかったので、やむなく、百済より文化の進んだ唐の国の仏教の経典と仏像をお坊さんまで取り寄せて、それを日本に献上しました。

これが、「仏教公伝」と言われている話の真実です。

そもそも、最近「仏教公伝」と呼ぶようになったのは、それ以前から日本には仏教が伝わっていたことが分かったからです。
身近なところでは、補陀洛山寺を開山したとされる裸形上人がそうです。
裸形上人は4世紀(317年)に那智の浜に漂着し、補陀洛山寺と青岸渡寺を開いたとされています。
仏教公伝よりもはるか前の時代です。
ちなみに、仏教公伝は538年とされています(552年説もあり。もうどっちでもいい・笑)

日本人は海洋民族であり、優れた航海技術を持ち合わせていたため、世界のあらゆるものを取り入れることができました。
なので、こういった仏像なんかも随分前に入手していました。
だからそんな物もあえてもらう必要はありませんでした。

しかし、唐の国の高僧であれば、我が国としてもそれなりの処遇をしなければならないとなっただけの話です。

日本の古代とは①

現代とは、第二次大戦が終わってから、明治維新から第二次大戦が終わるまでを近代、近世は信長の時代あたりから江戸時代、それでは、日本における古代とは、いつごろのことを言うのでしょうか?

古墳時代までを古代、奈良時代、飛鳥時代、平安時代、鎌倉時代を中世という認識を持たれている方が多いと思います。

ところが、現在の学校の教科書では、古代は平安時代までで、中世が始まるのが鎌倉時代から、と書いているそうです。

古代と中世の違いとは、中世は歴史の記録がはっきりと残されていて、いつ何が起こったか、どういう出来事が起こったかを、年代とともにある程度明確につかめる時代のことを指します。

例えば、鎌倉時代であれば、源頼朝がいつ征夷大将軍となって、北条氏が執権を始めたのがいつなのかという情報は明確です。
逆に、いつ起こったのかよく分からない時代を古代と言います。
この時代区分の定義は、世界共通で使われています。

我が国では、飛鳥時代、奈良時代、平安時代の記録は非常に明確で、それぞれの時代の右大臣が誰で左大臣が誰で太政官の仕組みがどのようになっていて・・・ということが明確に分かるようになっています。

このことから、飛鳥時代以降を中世と分類しなければならないところを、学校の教科書では、鎌倉時代より前のことはよく分からないという分類にされてしまっています。

なぜ、こんな分類になっているかというと、近隣諸国条項に基づいて、「特亜三国」の歴史認識に我が国は配慮をして歴史教育をしなければならないということが原因となっているからです。

チャイナの歴史、韓国の歴史を見た時に、彼らにとっての中世よりも、日本の中世は後にしなければならないという文科省の指導で、平安時代は「古代」とされているのです。

いったい、自国の歴史を学ぶのに何で他国の顔色を伺いながら学ばなければならないのでしょうか?
本当におかしな国ですね。

次回に続きます。

弥生人渡来説の嘘③

前回までの記事をまだ読まれていない方は、こちらをご参照ください。
弥生人渡来説の嘘①
弥生人渡来説の嘘②

だいたい、それぞれの国ごとに、それぞれの顔や姿に特徴があります。
しかし、日本人においては、目の色が茶色だったり青っぽかったり、髪の毛が縮れている人もいればストレートな人もいたり、鼻が高い人もいれば低い人もいたり、彫りが深いひともいればそうでない人もいたり、肌の色が白い人もいれば黒い人もいたりと、様々な顔や姿の人がいます。
これは、昔から他の様々な国の人々と交わっていたからだと言えます。

しかし、それよりも重要なことは、人の物を奪って自分の物にするという発想ではなく、災害の多い我が国においては、お互い助け合いながら生きていかないとならないという発想が、昔から根付いていたことです。

どこの民族であれ、どこの出身であれ、肌の色が白かろうが黒かろうが、みんなが協力して生きていかなければ、生きていくことができない。
いくらお金を持っていても、洪水が起これば全部流されてしまいます。
もう一度家を立てようと思っても、民衆の中にその余力がなければ、いつまで経っても家を建てることはできません。
食べ物もなくなってしまいます。
災害になった時は、お金持ちも貧乏人も一緒になって力を合わせて立ち上がって行かなければ、日本という国土に住むことができないのです。
これを、我々は古い時代から学んで来ました。

弥生人が朝鮮半島からやってきて政権を奪い取ったというつまらないことよりも、むしろ大切なことは、災害大国・日本においては、助け合いながらでないと生きていけないということです。

弥生人渡来説の嘘②

前回の記事を読まれていない方は、まずはこちらをご参照ください。
弥生人渡来説の嘘①

そもそも、縄文時代晩期の日本列島に人口は26万人です。
当時は県境というものは存在しませんでした。
同時に、チャイナや朝鮮を見ても、国境というものはありませんでした。
3~4万年前から優れた航海技術があった縄文人たちは、近隣諸国のみならず、世界中を航海していたということが言えます。

実際、南米でも縄文式土器が発見されていますし、アフリカでも発見されています。

縄文人は、細長い顔もあれば平べったい顔の人もいました。
その人たちが、世界に散っていき、その先で現地の人と交わり、また違った顔かたちの人が生まれたということも十分に考えられます。

日本人のDNA解析を行うと、54%がフィリピン・マレー系であり、半島系とはまったくDNAが結びついていません。

塩の摂取法

人は塩がないと生きていけません。
最近は中高年には減塩が推奨されてはいますが、基本、塩がないと生きていくことは無理です。
日本人のように、海洋民族であれば海、魚、海藻などから簡単に塩を摂ることができます。
では、内陸部の人たちはどうやって塩を得ていたのでしょうか?
岩塩があれば塩を手に摂ることができます。
しかし、その岩塩がない場合は?
海から運ぶにも何百キロと離れています。

彼らは肉から摂るより方法がありませんでした。

そして、彼らの考えでは、人間は一度死んでしまえばただの肉となり、それを動物に食わせ、その動物をいただく・・・となり、そうして食物連鎖が起こります。
チャイナで食人文化が芽生えたのも、こういった考えがあったからかもしれません。

弥生人渡来説の嘘①

今回も、小名木善行さんのお話からです。

私たちは学校で、縄文人と弥生人は顔形、文化なども違うと教わりました。
この説、2005年に覆るまでは、そう信じられてきました。

一般に、弥生人はキツネ顔の細面、縄文人は岩のようなゴツい顔をしているなどと言われてきました。
これが「でっち上げ」だということが証明されたのです。

この「縄文人面長説」の根拠は、島根県の遺跡から発掘された人骨が弥生人のもので非常に細長、これに対して、岩手県の宮野貝塚から発掘された縄文人とされる頭蓋骨は平べったくて横幅が広かったというところからきています。

ところが、その他で発掘された縄文人の頭蓋骨を見ると、細面のものが多いということがわかりました。
同じ宮野貝塚で発掘された頭蓋骨も、弥生人のものとされていた頭蓋骨よりももっと細面のものまで発掘されました。

これでは今までまかり通っていた説が覆ってしまいます。
そこで別の学者さんが、縄文人の頭蓋骨が平べったいということを証明する写真を発表しましたが、その写真、コピーを何度も何度もしたらしくて画像が非常に荒いそうです。
人間の顔をというものは、みなさんもそうなのですが、絶対にきれいな左右対称ではありません。頭蓋骨も然りです。
この写真は、その顔の細長い部分を切り取り、平べったい部分を張り合わせて線対称にし、何度もコピーを重ねることによってその線を消した合成(捏造?・笑)写真であったことが判明しました。

・・・なんでこんなすぐにバレる嘘をつく必要があるんですかね?

戦後にもてはやされた「騎馬民族渡来説」ですが、騎馬民族はモンゴル地方の人であり、その民族が朝鮮半島を制圧したのは14世紀なので、何千年も前の話とはまったく時代が合っていません。

「弥生人が朝鮮半島からやってきて日本の政権を奪い取った」という説は、戦後、半島系の人たちが、自分たちが日本の政治・経済を牛耳っていくのにあたって、過去においても同じことがあったと「言いたかった」というだけの理由なのだそうです。

この捏造写真を発表した学者、どこかから多額のお金でももらっていたんでしょうか?
よく、物事の裏、歴史の背景には必ずお金の流れがあるといいます。
なぜ、菅原道真公が廃止にするまで危険を犯しながらも遣唐使をやめなかったのか?
一藩の一若造でしかなかった坂本龍馬が、なぜあんな軍備ができたのか?
最近では、なぜ、尾身会長が2類相当から5類相当に下げないのか?
「Follow the money」です。


縄文時代と稲作⑤

稲作が日本人にとって、最も重要なことがありました。
日本は古来より台風、洪水、火山の噴火など、災害の多い国です。
その災害がひとたび起こってしまうと、今まで食べられていたものが食べられなくなってしまいます。
今であれば冷蔵庫に食料を保存することができますが、当時はもちろんそんなものはありません。
その災害に備えて4年5年と食料を蓄えておく必要がありました。
長期に渡って保存できる唯一の食料が米だったわけです。

今スーパーなどで売られている状態、つまり、精米した状態のお米であれば日持ちはしませんが、籾のついた状態であれば、味は落ちますが20年経っても食べられるそうです。

どんなに凶作になっても、どんなに災害が起きようと、お米さえあれば何とか食いつないでいくことができます。
これが日本の文化の中心に据えられるようになります。

そしてこれが、日本建国の理由になります。

当時、近畿地方では色々な問題が起き、飢饉の状態にありました。
一方、九州や四国にはお米がたくさんありました。
そこで神武天皇は、お米が食べられなくなった地域に、お米が多いところから米を融通するシステムをお創りになられます。
こうすることによって、日本国民全員が一つの家族としてお互いに助け合おうではないか、というのが日本の建国宣言なのです。

世界には様々な国がありますが、それらは制圧・征服・粛清・王権の強化というところから始まります。
あるいは、独立するために戦争をして自由をもぎ取るんだというところから始まります。
世界で唯一日本だけが、お互いが助け合うために国家がつくられました。

他国とはそもそも、国家成立の経緯がまったく違うということです。
これが神武天皇の即位以来、2680年ほど前から続いています。

そんな国に生まれた私たちは、本当に幸せだと思います。


縄文時代と稲作④

稲作がチャイナの福建省あたりから山東半島を経て遼東半島、そして朝鮮半島を経由して日本に入ったという説がありますが、そもそも山東半島周辺は乾燥していて稲作には向いていませんし、朝鮮半島北部は水の流れが良くないので、稲作ができませんでした。

現在、朝鮮半島北部は稲作地帯になっていますが、日本人が移住をしていた時に、遠くから水を引いて米を作れるようにしたからです。
その恩恵があり、現在は稲作ができるようになっています。
そのことを知ってか知らずか、お米が穫れているので「日本よりも先に稲作が始まった」というようなことを言っているのです。
あわよくば、「日本に教えてあげた」のように言っています。
呆れますね。

・・・まあ、こういった類の主張は、朝鮮の「得意技」ですよね。
以前、サッカーの日本人観戦者が、試合後に掃除をすることが話題になりましたが、あれも「元は俺たちが始めたことだ」とか言っていましたね。
仏像は盗んで返しませんし、いつまで経っても「謝れ」「誠意を見せろ」と言ってお金を巻き上げる・・・煮ても焼いても食えないどうしようもない国です。

縄文時代と稲作③

約3万年~4万年前、日本ではすでに優れた航海技術があったことが示唆されたわけですが、では、稲作についてはどうなのでしょうか。

お米の成分に含まれているガラス成分である「プラントオパール」というものが、8000年前の遺跡から発掘されました。
ということから、どうも8000年前にはすでに米を食べていたらしいのです。

この頃(6000年~8000年前)は、西日本は熱帯であったことが分かっています。
今の熱帯と温帯の境界は台湾の北部と南部ですが、太古の昔はその境目がずっと北にあったわけです。

稲というのはもともと熱帯性植物です。
そして、熱帯には雨季と乾季があります。
雨季と乾季があると、そこに稲が自生します。
このことから、稲作をしていたのではなく、西日本一帯に稲が自生していて、それを食べていた、ということになります。

ところが、今度は寒冷化が進み、自生していた稲が育たなくなってしまいます。
そこで、稲を「騙す」ために灌漑用水を整え、強制的に「雨季」を作って稲を育てるようになりました。

とはいえ、この頃は狩猟採集生活が主であったため、ドングリ、椎の実、栗などの木の実や、魚や貝などを食べながら、米「も」食べていたというのが、当時の食生活であったようです。




縄文時代と稲作②

ところが、戦後に考古学が発展し、日本各地で次から次へと遺跡が発掘され始めます。
そうすると、「我が国は皇国史観である」と言って「お上」から目をつけられるようになります。
そのおかげで考古学がまったく進みませんでした。

そうした中、昭和26年に磨製石器が発掘されます。
世界では約8000年前から磨製石器が使われ始めたとされる中で、日本のそれは約3万年前から使われていたことが分かりました。
その後も日本各地で磨製石器が発見され、沼津と長野で発見された石器は、伊豆半島の突端から海上約67kmにある神津島でしか採れない石で作られたものでした。
そしてそれが約4万年前のものだったのです。

神津島まではもちろん、泳いで行くこともできませんし、潮流が速いので丸木舟で渡ることもできません。
ましてや、万一丸木舟で渡れたとしても、帰りに石を積んで帰って来ることなんてできません。
とすると、アウトリガー付きの帆掛け船でなければ、島に渡って石を積んでくることなど不可能と考えるべきです。

ということで、約3万年~4万年前にはすでに日本ではそれだけの航海技術を持っていたということになります。

また、海で海藻や魚を採って生活を営んでいたと考えられるようにもなりました。