【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①

久米崎王子跡

この王子社は跡地で建物はなく、説明板が立っているだけですので写真はありません。
場所は、国道42号線に出て少し脇に入ったところにあります。

説明板より

この王子社の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201年)十月十日の記事に見えますが、この頃の参詣道は王子社から南西よりに離れていたのではないかと思われているため、定家は路頭の木に向かって遥拝しただけです。

その後、承元四年(1210)四月二十五日に藤原頼資は、この王子に参拝しています。

承久三年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。
久米崎王子も例外ではなく、十五年後の嘉禎ニ年(1236)には、跡形も無くなっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じています。

しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣は小社を再建しています。その後、久米崎王子社として祀られていましたが、明治四十年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。

度々再建されましたが、最終的には明治の神社合祀の「餌食」となった王子ですね。
先人たちは、こういった遺産を後世に残すことを非常に重んじていたことがうかがえます。
しかし、「西洋に追いつき、追い越せ」の明治維新によって、そういった大切な歴史的建造物の多くが姿を消してしまったことは非常に残念です。

当時は欧米列強に飲み込まれないように西欧化することが当時の情勢からみて仕方のないことだったかもしれませんが、ちょっとやり過ぎたのではないでしょうか?

津兼(井関)王子跡

この王子社も跡地で建物がありませんので写真はありません。

説明板より

藤原定家は建仁元年(1201)十月十日、湯浅を雨の中にたち、久米崎王子を遥拝し、ついで参拝した井関王子でようやく雨が止んだと日記に書いています。

藤原頼資の日記では、承元四年(1210) 四月二十六日、久米崎王子についで白原王子に参拝しています。
井関王子と白原王子同じ王子社とも考えられます。

これより約百年前の天仁ニ年(1109)、藤原宗忠は「弘王子社」についで、白原王子社に参拝していますが、この王子は近年出現したものだと記しています。

江戸時代の「紀伊続風土記」には、井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子というと記しています。

また、近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子社が作られました。
その新しい津兼王子神社は、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。
この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました。

明治時代の神社合祀運動が盛んな時代ならいざ知らず、現在でも王子社の建物が残っていたなら、広川インターチェンジの場所も、王子社を避けて通るように設計されていたのではないでしょうか?
合祀され、跡地になっていたから跡形もなく消されたのだと思います。
そう思うと、明治時代というのは熊野にとっては壊滅的なダメージを与えてしまったと言わざるを得ません。

しかし、井関王子と白原王子の関係って、どうなんでしょうね?

謎なところは、藤原宗忠が来た時(1190年)では「白原王子」となっていたところを、1201年に定家が来た時には「井関王子」となり、その後1210年に藤原頼資が来た時には再び「白原王子」となっている点です。

通常、王子は2~4kmごとに建てられていたので、そう頻繁に王子が登場するとは考えられないので「同じ」と考えられるということでしょうが、それにしても「白原」から「井関」になり、再び「白原」に戻る理由の説明がほしいところです。

宗忠が書いているように、王子は初めから「九十九ほど」あったわけではなく、時代によってその数が増えたり減ったりしています。
本宮エリアでは水呑王子が「新王子」と同じ日記に書かれていますので、上皇・法皇の熊野御幸が盛んになってから、王子の数も増えていったのでしょう。

王子の数が増えた理由についてはよく分かりませんが、おそらく、上皇・法皇、貴族にすこしでも地元でとどまってほしいという住民の願いが込められていたのかもしれません。
あるいは、とどまることによって莫大なお金を地元に落としていったとか・・・
「地元の住民は、上皇・法皇がいらっしゃった時は食事などを用意しなければならなかったので苦痛だった」という話を聞いたことがありますが、なにか地元にとってもプラスになる理由がなければ、新しい王子を作ろうという心理が働かないはずです。

ただ、国民の皇族の方々に対する気持ちというのは、奉仕の気持ちが根底にありました。
以前は皇居の門番を国ごとで持ち回りで自主的にやっていた時代もあり、それは給料や手当が出るわけでもありませんが、それを「名誉なこと」としていました。
なので「うちのおじいちゃんは、皇居の門番をやった」と自慢ができるほどだったいいます。

こういったことを考えると、もしかすると、上皇・法皇、貴族を呼び寄せるために、井関王子と白原王子のどちらかがにわかにつくられ、一行はそのいずれかに参ったのではないか?とも考えられます。
宗忠の日記から見れば、「弘王子社」がもともとあり、「白原王子」が新しく建てられたものだということが分かります。
このことから考えると、「弘王子社」と「井関王子社」が同じであり、「白原王子」が後からつくられたと考えるほうが自然のような気もします。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②に続きます。


【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑥

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

深専寺

案内板より

深専寺は、奈良時代、行基により開かれた海運院を前身に、寛正3年(1462)に明秀上人が再興した西山浄土宗の寺院である。

寛文3年(1663)に建立された本堂をはじめ近世に整備された堂舎が広がる境内は、醤油醸造家たちも行き来した熊野街道沿いにあり、聖護院門跡らの熊野入峰の際には宿舎としても利用された。

門前に立つ「大地震津波心得の記碑」には、当地の醤油醸造家らの名が寄進者として刻まれている。

その「大地震津波心得の記碑」です。

大地震津なミ心え之記

嘉永七年六月十四日夜八ツ時下り大地震ゆり出し 翌十五日まで三十一ニ度ゆりそれより小地震日としてゆらざることなし 

廿五日頃漸ゆりやミ人心もおだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ツ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し川口よた来たることおびただしかりしかとも其日もことなく暮て翌五日昼七ツ時きのふより強き地震にて未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやいな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家蔵船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろしなんといはんかたなし 

これより先地震をのがれんため濱へ逃あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからず 
すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれになり行ものなれハこの碑を建置ものそかし 

又昔よりつたへいふ井戸の水のへりあるひハにごれハ津波有へき印なりといへれど この折には井の水乃へりもにごりもせざりしさすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし 恵空一庵書

すこし読みにくいですが、生々しい記述とともに、避難経路の指示と、近づいてはならない場所について書かれています。

先人たちは子孫を想い、自分たちがしたこのような苦しい経験をさせないようにしたいという意図がひしひしと伝わってきます。

私の近くにある飛鳥神社にも、同じく宝永四年に起こった地震による津波の警告板があります。
この警告板は、毎年例祭の時に掲示し、参拝者に注意を喚起しているそうです。

上記文中にある「半時(はんとき)」とは、約1時間のことだそうです。
湯浅でも、白浜でも同じように約1時間も揺れる地震とは、ちょっと想像できません。

湯浅駅

2020年に、図書館や観光センターが入った複合施設的な建物に生まれ変わりました。
以前研修に来た時はまだ改築中でしたが、非常にきれいな駅舎になりました。

駅前には駐車場があり、最初の2時間は無料、以後1時間ごとに100円、24時間最大で500円で駐車できます。

駐車台数は63台です。
湯浅町営駅前駐車場


【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

逆川王子

案内板より

藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月十八日条に「逆河王子」と書かれているのが、最も古い文献です。

藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。

この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。

明治時代には村社となっていましたが、明治四十三年の神社合祀で、田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。

王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れていることから、逆川と呼ばれたのです。

方津戸峠(方寸峠)

案内板より

方寸とは「一寸四方の狭い所」の意味である。

この峠は、古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれてきた。熊野参詣の旅人は、有田川を渡り、険しい糸我を越え、逆川王子社に参拝した。

峠に登ると、遠くには日高へ越える難所「鹿ケ瀬峠」、また眼下には湯浅と広の平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。

熊野へは、まだまだほど遠いが、ここで一息を入れて、旅の疲れを癒やしたことと思われる。

また、平安時代の末期、当時の湯浅荘の地頭湯浅宗重は、熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き、紀州随一の強力な武士団を作り上げた。(後にさらに東の青木山に移転した)。

江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には、湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで、湯浅の玄関口であったという。

この案内板は、有田南ロータリークラブのものです。

今は道も舗装されていて何でもないところですが、当時は特に湯浅醤油盛況のころには重要な場所であったことが分かります。
案内板がないとそのまま通り過ぎるような場所なので、こういった看板があればありがたいですね。

写真の場所から道標に従って右に入ります。
私はこの道標を見逃して真っ直ぐ行ってしまい、しばらくしてから間違っていたことに気づき、戻りました。
ちなみに、真っ直ぐ行っても古道に合流しますが、随分遠回りになります(地図中のピンクの道)

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

糸我峠

峠ふもとの道標から約0.8km、20分で峠に到着します。
途中、一部未舗装の道があります。

案内板より

熊野参詣道紀伊路の有田市と湯浅町の跨る丘陵を南北に越えるのが糸我峠である。

古代からの交通の要衝地であり、「万葉集」七巻に「足代(あて)過ぎて 絲鹿(いとか)の山の桜花 散らずあらなむ 還り来るまで」と詠まれている。

「熊野御幸記」には、イトかの王子に参ず又険阻(けんそ)を凌ぎてイトか山を昇る」と記されている。

「平家物語」の巻第六「祇園女御」には、糸我峠における伝説が記されている。
平忠盛は白河院が寵愛していた祇園女御を賜っていたが、その女御は白河院の子を孕んでいたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にして武士にせよ。」と仰せになられた。

まもなく男子が産まれ、忠盛はそのことを奏上しようと思っていたが、適当な機会がなかった。

白河院が熊野御幸の途中、糸我峠に輿を据えさせてしばらくご休憩なされた。
その時、忠盛は藪にぬかご(山芋)がいくつもあったのを見つけてそれを採り、白河院に「いもが子ははふほどにこそなりにけれ」と申し上げた。
すると院は直ちにお気づきになり、「ただもり取りてやしなひにせよ」と後の句をお付けになられた。

忠盛は山芋にかけて女御が男子を産んだことを報告し、院もすぐに察知して連歌にてこれを詠まれた。

この時から忠盛は自分の子として養うようになり、その男子が後の平清盛であるという。

近世の様子として、文化8年(1811)発行の「紀伊国名所図会」に、「道を挟んで二軒の茶店があり、名産の蜜柑を貯へおきて盛暑のころ是を往来の人に鬻(ひさ)ぐ其氣味佳妙(そのきみかみょう)にして金掌玉露(きんしょうぎょくろ)にも勝るとして他郷の人ハ殊更に驚嘆す」との記述があり、現在と同じ場所に峠と一里塚や古道が描かれている。

現状の道は、有田市糸我から湯浅町吉川に抜ける里道であり、大部分は蜜柑栽培の作業道となっている。

峠から糸我側には七曲がりと呼ばれる地道が続いている。

峠から吉川側の道は、簡易舗装されているものの大規模な改変はされておらず、往時の計上を保持しているものと考えられる。

このように、糸我峠は、古代から交通の要衝地であり、和歌山県の歴史を考えるうえで重要な交通関連の史跡であるため、平成27年10月7日に国の史跡「熊野参詣道」に追加指定されている。

なかなか読みごたえがあります(笑)

歩いている時にこれをじっくり読んでいる人はおそらくいないでしょうね(笑)

しかし、この糸我峠にはそれだけのお話が詰まっているところであるということですね。

峠からの眺望はすばらしいです。

険阻とは地勢の厳しい様のことを言います。
藤原宗忠の中右記には滝尻の上りのことを「崔嵬険阻(さいかいけんそ)」と表現しています。
崔嵬とは岩がごろごろしていて険しい様のことを言います。
崔嵬(さいかい)
険阻(けんそ)

「名産の蜜柑を貯へおきて」は、蔵出しみかんのことでしょうか?
蔵出しみかん
しかし、蔵出しみかんの出荷は1月下旬とのことなので、また違うミカンのことでしょうかね。とても「盛暑の頃」までは持たないのでは?

また、峠には説明板にあった歌を刻んだ碑が立っています。

糸我峠を下りきったあたりに吉川老人憩いの家があります。
トイレもできます。

建物から想像するに、トイレの様子を想像してから実際に見ると結構キレイで、いい意味で期待を裏切ってくれます。
ベンチもあるので少し休憩もできます。
以前案内してもらった時は、ここでお昼を食べました。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

糸我稲荷神社

すみません、この神社については詳しいことは分かりません。
ただ、京都の伏見稲荷の創建よりも60年古く、日本最古の稲荷神社と言われているそうです。
そういえば、新宮の阿須賀神社境内にある稲荷神社も相当古く、こちらも日本最古と聞いたことがあります。
さらには、京都伏見稲荷はここから勧請されたという説を唱える人もいるとか。
ちなみに、奈良県の玉置神社の三柱神社は、この稲荷神社から勧請されたという記録が社伝に残っていると聞いたことがあります。

はたしてどちらが古いのかは分かりませんが、「相当古い」ということは確かなようです。

糸我稲荷神社楠の大木

説明板より

稲荷神社の楠の木は、記録によると明治十三年までは四本あったとされています。

現在は三本であるがその配置から見ると境内の四隅に計画的に植えられていたことがうかがえます。

三本とも樹勢は旺盛で、それぞれの幹の廻りは5メートルから6.5メートルに達し、樹齢も五百年以上を経ており、市内最大のものです。

鳥居に掲げられた「本朝最初」の扁額にふさわしく稲荷神社の歴史を物語る大木です。

糸我稲荷神社の隣には、くまの古道歴史民俗資料館があります。
ここで様々な熊野古道にまつわる情報が展示されていますが、あいにくこの日は休業日で入ることができませんでした。
開館時間は9:30~17:00。
水曜、木曜は定休日です。
・・・定休日。
それも二連休。
やる気の高さがうかがえます。

糸我王子

説明板より

藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月十八日に、有田川に係る仮橋を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名は、その時の日記には書かれていません。

それから約百年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っています。

「糸我王子」と正しく書いたのは、藤原頼資の日記です。
頼資は修明門院に随行して、承元四年(1210)四月二十五日に、この王子社に参拝しています。

糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、「紀伊続風土記」に、「廃糸我王子」と記されています。

また、この付近には、江戸時代に「水王子社」と「上王子社」がありましたが、地元では、上王子社を糸我王子に比定しています。
両王子社は明治時代、稲荷神社合祀されましたが、平成七年愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子として再建されました。

文中に出てくる「伊止賀」は、おそらく当て字でしょう。
近露王子を「近津湯」と書いているのもそうですね。
昔は、音に合わせて感じを当てることがよく行われていたようです。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④に続きます。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

宮原橋を渡り、しばらくは有田川沿いを歩きます。
ここを、地図を見ながら歩いていると道標を見逃してそのまま真っ直ぐ進んでいました。

「謎解き」の看板はここでも健在でした。

得生寺

案内板より

得生寺記という古記録によると、天平宝字三年(西暦759)時の右大臣藤原豊成の女(むすめ)中将姫遭難の旧跡である。

当初中将姫の家士伊藤治時の創設した草庵が、後に一寺となり、安養庵と呼んだ。

時代が降って、室町時代に入り、西山浄土宗の名僧明秀光雲上人紀州に来り、文明年間(1469~1487)同上人によって改宗され、伊藤春時の僧名を寺号とし、雲雀山得生寺として今日に至っている。

現在の得生寺は、寛永五年(1752)四月、新田蓮坪の現在地に建立された。

寺内西正面に開山堂がある。堂内に中将姫を中心に春時(得生)夫妻が安置されている。

当寺では恒例の中将姫会式が、毎年五月十四日に勤修され、地元の子供達が二十五菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養をする。
会式当日は、善男善女で大へんな賑いであり昔から次の言葉で呼ばれている。

「嫁見するなら糸我の会式それで会わねば千田祭」

二十五菩薩練供養は、和歌山県無形文化財に指定されている。

俺も嫁見に行こうかな?

あ、俺には嫁がいてた(笑)

さて、もう一つの案内板に、上記の補足的内容が書かれています。

奈良時代の天平19(747)年丁亥(ひのとい)に時の右大臣藤原豊成卿夫妻が、長谷寺に祈願して誕生したしたのが中将姫で、姫が3歳の時に母の紫の前が亡くなり、7歳の時に父の豊成卿が照代の前を後妻に迎えました。

継母は次第に姫を憎むようになり、姫13歳の時に密かに伊藤春時という家臣に命じて、紀伊の国雲雀山で姫を殺害しようとしましたが春時はかえって姫の徳に打たれ、都より妻を呼び寄せ夫婦で姫を守り育てました。

3年後の天平宝字5(761)年に豊成卿が猟に来て姫と涙の再開を果たし、都に帰りましたが17歳の時に当麻寺(たいまでら)で剃髪して法如(ほうにょ)と名乗り、有名な当麻曼荼羅を織り上げましたが、宝亀6(775)年卯月14日に25菩薩に迎えられ、29歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。

二十五菩薩とは、読んで字の如く25の菩薩ですが、こんなにいらっしゃるとは知りませんでした。
このなかでせいぜい、観音菩薩、虚空蔵菩薩、勢至菩薩くらいです。
二十五菩薩

さて、この説明文の中にある、伊藤春時が中将姫の徳に打たれたその「徳」とは、いったい何だったのでしょうか?
多分、この詳しいお話を語り部さんから聞いたと思うのですが、忘れてしまいました(笑)

同じ説明板に、二十五菩薩練り供養のことが書かれています。

毎年姫の命日に当たる5月14日に執り行なわれる来迎会式で、小学生たちが25菩薩に扮して、開山堂より本堂へ山内を練り歩く二十五菩薩練り供養は、昔からの仏教文化の一端を知る貴重な行事と言われています。

二十五菩薩練供養は、やはり中将姫ゆかりの當麻寺が有名のようです。
というか、現在各地で行われている練供養の元祖と言われていますので当然でしょうか。
こちらでも、やはり5月14日に練供養が行われていましたが、2019年以降は4月14日に改められたようです。
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)PDF版

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③へ続きます。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

以前に紀伊路の研修をお願いした時に、都合が合わずに参加できなかった部分があり、歩いた区間が飛び飛びになっていたので、山中渓からしらみ潰しに歩いています。

今回は紀伊宮原駅~湯浅駅までです。

本当は紀伊内原駅まで歩いたのですが、シリーズ化をするとかなりの長編になってしまうので、湯浅駅で一旦区切ります。

天神社

すみません、写真を撮るのを忘れました。

案内板より

天神社は学問の神様を言われる菅原道真公を祭る。

「流れ天神」の異名があり、室町時代(1488年)の有田川大洪水のとき、粟生村(現有田川町)の四社明神が流されこの地に漂着した。

一度は粟生村に返されたが、五年後の大洪水に天神社のみ再び流されこの地に漂着した。

以来五百年余りこの地の守護神として祭られ、熊野詣の人々もこの神前で旅の安全を祈ってきた由緒ある神社である。

祭日は毎年一月二十五日の初祭りと七月二十五日の夏祭りである。
七月二十四日の宵宮祭りは近在からの参拝者も多く夜店も出て夜空をこがす打ち上げ花火は夏の夜の風物詩として現在も継承されている。

再び流されてこの地にたどり着いたとは、よほどここの居心地が良かったのかもしれません(笑)

菅原道真公といえば学問の神様として有名ですが、遣唐使を廃止したお方です。
なぜ遣唐使を廃止したのかは、こちらをご参照ください。
唐との関係
菅原道真と遣唐使廃止

近くにもうひとつ、「熊野参詣道について」という説明看板があります。

山口王子社から宮原の集落を通り「宮原の渡」で有田川を渡り、糸我にいたる。

江戸時代紀州藩はこの道を官道とし、この宮原に宿駅をもうけ交通の要所とした。
ここは常に人や馬が準備されおおいに賑わった。

有田川畔の天神社のそばに「札場地蔵」とよばれる祠があり、有田川が増水したとき、ここの川止めの制札を建てたのである。

白倉山麓には重要文化財木造十一面観音立像のある広利寺、県指定法燈国師関係史料のある禅宗の円満寺が所在する。

また、県指定無形民俗文化財「有田川の鵜飼」は六百年前の応永年間に始められたともいわれ、「徒歩(かち)づかい」という特殊な漁法が伝承されている。

制札とは道や神社などに立てる札のことで、現在では禁止事項などを書いています。

鵜飼の漁法、徒歩づかいについてはこちらをご参照ください。
有田川の鵜飼

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑭

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬

伊太祁曽神社

平緒王子から以前は小栗橋を渡ったのですが、あいにくこの日は工事中で橋がありませんでした。
もっと手前で知らせて欲しかったです。
橋まで来て「通行止め」ってひどくないですか?

仕方なく、また来た道を戻り、迂回して伊太祁曽神社を目指しました。
コンビニのところから真っ直ぐ行けば伊太祁曽神社だったのですが、地図で示している正規のルートを通って行きたかったので、ぐるっと迂回しました。

ここでまた迷いました。

六地蔵が見当たりません。

多分間違ったのでしょうが、以前通った道まで出ることができたので、何とか伊太祁曽神社にたどり着くことができました。

この地図、分かりにくい。

伊太祁曽神社については、こちらをご参照ください。
伊太祁曽神社の御由緒について
伊太祁曽神社、読み方は「いたきそ」なんですね。
で、駅の名前が「いだきそ」

神社の名前も、駅の名前も一緒だと思っていたので、いったいどっちが正しい呼び名だろうかと思っていましたが、呼び方自体がそれぞれ違っていたんですね。

話はそれますが、「橋杭岩」を何と呼びますか?
「十津川村」は?

正解は「はしぐいいわ」「とつかわむら」です。

だいたいの人は「はしくいいわ」と言いますが、正式には「はしぐいいわ」です。
地元人は「はしぐい」と呼んでいます。
また、潮岬は「みさき」と呼んでいます。

「十津川村」は、「十津川警部」の影響からか、「とつがわ」と呼ぶ人がいますが、「とつかわ」です。

大鳥居

案内板より

明治十九年の記録によれば「大鳥居神明造柱廻り六尺三寸横巾三間壱分高サ三間九分」とあり、現在とほぼ同じ大きさであったこ事が窺える。

昭和十二年の御造営で現状の神明鳥居に変更されて以来、八十有余の星霜を経て老朽化が進み倒壊の恐れがあった。

折しも第六十二回伊勢神宮式年遷宮の古材の譲与に預り、鳥居の修繕を計画した次第である。

この鳥居の柱の下部分は今までの鳥居の木材を再利用し、上部分に伊勢神宮の古材を繋ぎ合わせ伊勢神宮と当社を融合した形で完成した。

尚笠木・島木・貫の腐食部分は埋木をすることにより原型の保持に努めた。

鳥居の名称に関する情報はこちらをご参照ください。
神社人 鳥居について

「埋木(うめき)」とは、補修方法の一つで、腐食した部分を切り取り穴を空け、そこに新材を埋め込む工法のことです。
他にも「矧木(はぎき)」「継木(つぎき)」などがあります。
修理工事こぼれ話④ 補足木材調査

伊勢の神宮の鳥居は式年遷宮の後に、日本各地の神社に「おすそ分け」をします。
もちろんですが、お伊勢さんのお下がりともなれば競争率が激しく、なかなか回って来ないそうです。
ちなみに、田辺の闘鶏神社の一の鳥居も、お伊勢さんからのお下がりです。

こうして、お伊勢さんで役目を終えた用材は日本各地で再利用されています。

日本では、とっくの昔からこうして自然の恵みをありがたく利用していたのです。
また、神社建築用材の森では植林もされています。
檜皮葺用の桧もこのような森の桧から利用されることが多いです。

SDGsなんて、いまさら世界が何を言っているの?って話です。
むしろ世界が遅れていたのです。

現に、過去に文明があったとされるところはことごとく砂漠になっています。

昔は森だったものが、木を切り尽くした結果砂漠化が起こったのです。

このように、外国では木を一旦切ってしまえば切りっぱなしで植林はしません。
なのではげ山になっています。
このことは、実際に海外の複数のお客様からも同じ話を聞きました。

なので、SDGsなんて、日本からしたら大きなお世話ですよ(笑)
日本ではとっくの昔からやっていることです。

SDGsは単なる利権がらみのプロパガンダです。
これを推進することにより、大儲けを企んでいる勢力があるってだけのことです。

SDGsについては、こちらをご参照ください。
SDGsが世界を破壊する①

伊太祈曽駅

和歌山電鐵貴志川線の駅。
なんとも味わいのある駅舎です。

この日はスーパー駅長よんたまは不在でした。

しかし、たま電車を見ることができました。
・・・これ、タマ電車ですよね?
でもちょっと違うような・・・
たま電車ミュージアムと書かれています。

車内はゴージャス。

あ、私が乗ったのは「うめ星電車」でしたが(笑)
うめ星電車

乗車すると、2両編成の2両目は中学生の遠足の帰りか何かで満員御礼。

かなりの賑わいでした。

いや~、こういう企業努力されているところは応援したくなりますね。

ということで、山中渓~伊太祈曽シリーズがこんなに長くなるとは思っていませんでした(笑)

またこんな形で別のコースについてもご紹介できればと思っています。


【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫

矢田峠

和佐王子跡から一旦県道を横切って矢田峠に向かいます。
相変わらず和佐歴史研究会さんの親切な案内板があるので迷うことはありません。

ずっとアスファルトの道だったので、こういう道が出てくるとホッとします。
・・・すぐに終わりますが(笑)
峠の近くに、ちょっと発見しにくいですが徳本上人名号碑があります。
紀伊路の名号碑は花押が入った「本物」が多いです。

峠で道が分岐しています。
看板は右に曲がるように書いていますが、下の地図のピンクのルート(峠から直進)を通るほうが安全です。
一応、右折が正式なルートのようですが、途中から県道と合流します。
車通りも多いので、ちょっと怖いです。

平緒王子跡

平緒自治会館の前に王子跡があります。
道沿いより少しだけ入ったところにあります。

案内板より

平尾王子とも書かれています。

後鳥羽上皇や、修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資は、日前宮奉幣使として、日前宮に赴いたため、和佐王子社とこの王子社には参拝していません。

定家は日前宮から奈久智王子に向かい、この王子社には先達が奉幣しています。

僧実意の日記(「熊野詣日記」)、応永三十四年(1427)九月二十二日条によると、足利義満の側室・北野殿は、川辺で垢離を行って身を清め、和佐峠で休憩したのち、山東(和歌山市)に泊まっています。

この王子社は、天正十三年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれ、その後再建されて、「平緒王子社」と呼ばれていましたが、明治時代に都麻津比売神社に合祀されました。

いきなり「平尾王子とも書かれています」と書かれています(笑)
何に「平尾王子」と書かれているのか、謎です(笑)
「和佐峠」とは、矢田峠のことでしょうか?
都麻津比売神社はどこにあるのでしょうか?

謎だらけです。

そして、事実しか書かれていない、典型的な「面白くない説明」のお手本とも言える内容です。
それくらいしか書くことがなかったのでしょうか。

秀吉の紀州攻めの標的になったのであれば、当時は相当な力を持ったお社たっだのかもしれません。
そういった当時の様子でも書かれていれば、少しは読み応えもあるのですがね。

山中渓~伊太祈曽⑭へ続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪

川端王子を過ぎると、和佐歴史研究会さんが設置してくれている道標に従って歩きます。
分岐にはほぼ完璧に設置されていたので本当にわかりやすかったです。
導き石は・・・あかん(笑)

旧中筋家住宅

写真に収めようとしましたが、デカすぎて入りません(笑)

説明板より

旧中筋家住宅には、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代末期の和佐組大庄屋ふさわしい屋敷構えを残しています。

嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

旧中筋家住宅は、主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の附属建物が、昭和49年(1974)に国の空用文化財に指定されました。

旧中筋家住宅は、戦後楫本重一(かじもとしげかず)氏の所有となり維持管理されてきましたが、和歌山市が監理団体となり、平成12年(2000)から平成22年まで約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年8月から一般公開しています。


中筋家の歴史についてはこちらとご参照ください。
元は根来だったんですね。
中筋家の歴史

料金は、一般100円(高校生以下は無料)、団体(20名以上)は80円。
開館時間は3月~11月までの間の土日祝、9時~16時30分まで(入館は16時まで)
ただし、上記以外の期間でも、5人以上で1ヶ月前までに申し込めば公開してくれるそうです。

和佐王子跡

説明板より

後鳥羽上皇や修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、吐前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)王子社には参拝していません。

しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社に参拝したものと思われます。

江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。

紀州藩主徳川頼宣は、寛文年間(1661~72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四字を刻んだ碑を建てています。

「紀伊続風土記」には、川端王子を和佐王子と称し、この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。

この王子社は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。

この王子跡の近くに、和佐大八郎墓があります。
田辺の浄恩寺にも和佐大八郎の墓があります。
どっちが本物かは分かりませんが、和佐大八郎は紀州藩士で弓の名人であり、京都の三十三間堂で通し矢日本一の名声を上げた人物です。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬に続きます。