【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤

前回までの記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④

原谷皇太神社

「皇太神社」と呼ぶからには、主祭神はやはり天照大御神です。
創建は、棟札が火災で焼けているので分からないようですが、1678年の記録が一番古いということらしいです。
原谷皇太神社

ちなみに、天照大御神は女性ということが通説(?)になっていますが、ホツマツタヱでは男性として描かれています。
古事記・日本書紀の天照大御神は、時に姉(妹)のワカヒメとすり替わっている記述があります。
スサノオが天照大御神に会いに行き、天照大御神がそれを見て武装をし、スサノオと誓約(うけい)を交わす下りの箇所です。

ホツマツタヱを読む限り、天照大御神は男性としてでなければ辻褄が合わなくなる上に、その方が自然です。

このお社、キレイに管理されていて、地元の方々の信仰の深さを感じることができました。

西の馬留王子跡

説明板より

天仁ニ年(1109)十月十八日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、険阻な鹿瀬山を越えたのち、馬留の仮屋に泊まっています。

ここ馬留は、この地で馬に飼い葉を与えたり、休息させるための施設だったのでしょう。

ところが、十三世紀初頭の熊野御幸に随行したあ藤原定家や、藤原資の日記などに、この王子は記載されておらず、当時ここに王子社があった形跡はありません。

王子の名が見られるのは、江戸時代になってからです。

「熊野道中記」に「馬留王子」とあって、「間(はざま)王子」ともいうと、書かれています。

「紀伊続風土記」によると、この王子の境内は周囲が六十間あったそうです。

馬留王子跡は鹿瀬山の北と南のニヵ所にありますが、共に熊野御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示しています。

この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが、原谷皇太神社に合祀されました。

もう一つ、説明板があります。

熊野九十九王子社の一つである。

場所はこの上の畑中(下岡362番地)にあった。

参詣を終えて帰路についた貴顕の行列は険しい鹿ヶ瀬峠を越すため、この地で馬を留めたという。

沓掛王子と内ノ畑王子の間であるので間王子社ともいう。

なぜ「沓掛王子」と「内ノ畑王子」の間だけを捉えて言うんでしょうね?
そんなことをいうと、ほぼどの王子も「間王子」となるわけですよね?
この先の高家王子と西の馬留王子の間にある内ノ畑王子も「間王子」と呼べます(笑)

ちょっと説得力に欠けますね。

この先に「雨司神社説明板」がありますが、現在は入ることができず、説明板を読むことができませんでした。

先ほどの和歌山県神社庁の説明によると、どうやら明治40年に、原谷皇太神社に合祀されたようです。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④

前回までの記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③

沓掛王子跡

このあたりからは、旧道に入ったり、県道に出たりしながら歩きます。
だいたい道標が立っていますが、中には老朽化で倒れているものもあるので、怪しい分岐が出てきたら地図を確認しなかがら歩くといいです。

案内板より

藤原定家は、建仁元年(1201年)十月十日、「ツノセ王子」に参拝したのち、「シシノセ」(鹿瀬)ノ山をよじ登り、この山を越えて「沓カケ王子」、次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。

また、藤原頼資は承元四年(1210)四月二十六日に、角瀬王子から鹿瀬山に入り、山中・内匠(たくみ)王子の参拝しています。

このことから、熊野御幸の盛時には、「沓カケ王子」とも、「山中王子」ともいわれていたことがわかります。

沓掛王子と呼ばれたのは、険阻(けんそ)な鹿瀬峠を越え、人々は、いたんだ藁沓(わらぐつ)をはきかえたり、牛馬にも沓をはきかえたりしたことによると思われます。

この王子社は、古くは「原谷字新出王子谷」にありましたが、のちの衰退したようです。

江戸時代には、ここ披喜(ひき)の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、この王子社を「紀伊続風土記」では沓掛王子に比定しています。

鍵掛王子は、明治時代に鍵掛王子神社になりましたが、明治十年に原谷皇太神社に合祀されました。

「熊野道中記」には、鹿ヶ瀬峠を越える手前の王子のことを「沓掛王子」と言い、峠を越えたここでも「沓掛王子」または「山中王子」と言い、さらには「鍵掛王子」と呼ばれるなど、たくさんの呼び名があり、混乱します。

そして、もう一つ、沓掛王子の説明看板があります。

昭和四十八年六月九日指定 熊野九十九王子社の一つである、建仁元年(1201年)の「御幸記」にでている沓掛王子社は王子谷にあったが、後世この地に移された。

現在、弁財天社が祀られている。

いたって簡素(笑)

爪かき地蔵

説明板より

弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)したとき、土地の人の無事息災を祈願して岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。

現在、地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出てくるから水かけ地蔵ともいう。

信仰心のない人はいくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことが出来ない。

また、東隣、宅地内に弘法井戸がある。

「巡錫」とは、僧が錫杖(しゃくじょう)を持って巡業するところから来た言葉で、各地を巡り歩いて教えを広めることを言います。

しかし、弘法大師にまつわる話が各地に残されていますが、実際に本当に弘法大師ゆかりの史跡ってどれくらいなんでしょうね?
けっこう後付けで創作された話が大半のような気がします。

お坊さんって、爪で何かを彫るお力をお持ちのようで、一遍上人も爪で梵字を刻んだとされる岩が湯の峰温泉にあります。

まあ、爪で岩に何かを彫るなんて普通に考えてもできるわけがなく、だれも信じないでしょうけど(笑)

はっ!わたしは絶対にこのお地蔵さんは見れないわ(笑)

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤に続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③

前回までの記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②

汗かき地蔵(地蔵寺)

説明板より

地蔵寺は熊野参詣道最大の難所、鹿ヶ瀬峠の麓にあり、本尊は寺号の示すとおり地蔵菩薩であります。

地蔵菩薩は桧材を使った寄木造の立像で、像高は161.8cm
台座には一重の蓮華座が用いられています。

地蔵菩薩の表面仕上げには、体の部分は漆下地を施し、着衣は素地として古色を施しています。

また、作風から制作時期は鎌倉時代(13世紀半ば頃)と推定されます。

地蔵菩薩は「汗かき地蔵」と呼ばれ、鹿ヶ瀬峠を越える旅人が弱ると背中を押して助けたので額に汗をかいているのだという、ゆかしい伝承が残っています。

地蔵寺が熊野古道に面していることや「汗かき地蔵」の言い伝えから熊野参詣の道中を守る神仏として旅人から信仰されていたことも想起されます。

寄木造(よせぎづくり)とは、いくつかの木材を組み合わせてつくる工法をいいます。
対して、一木造(いちぼくづくり)は文字通り、一本の木からつくりますが、そのためには相当大きな木が必要です。
寄木造とは
上記リンクの説明の最後に、「寄木造の基礎は、奈良時代の乾漆像に用いられた木心(もくしん)制作の技法が発展したものとも、中国の造像技術から得たものともいわれるが、日本の寄木技術は中国でさえ及ばないような極度の発達を遂げている」と書かれていますが、中国の造像技術から来たものではないと思います。
今でも、ハイブリッド車をつくることすらできない国ですから。
何でもかんでも中国から伝わったという考えは、やめたほうがいいです。

古色とは、人工的に古く見せる塗装の技法です。
古色仕上げ

高野山にも「汗かき地蔵」がありますね。
人間の苦しみや悲しみを一手に引き受けてくれると信じられていて、人々を救済するために奔走し汗をかいているように見えることから名づけられたそうです。

お地蔵さんは世のため人のために奔走していて、忙しいんです(笑)

東の馬留王子

河瀬(ごのせ)王子からほどなく歩くと、東の馬留王子跡に到着します。
河瀬王子から0.7km。
・・・ちょっと王子間の距離が短すぎるように思いますが。

「東の馬留」があるなら、「西の馬留」もあると思われた方、鋭いです。

鹿ヶ瀬峠を越えた後に西の馬留王子が登場します。

説明板より

この王子社を過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ヶ瀬峠があります。

熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族たちは、この峠を越えて熊野に参詣しました。

しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。

江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野までの道案内書、「熊野道中記」には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。

ところが、「紀伊続風土記」では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。

以降、この王子社は馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子神社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社に合祀されました。

なぜ突然「馬留王子」という呼び名が出てきたのか、謎です。
先ほども書いたように、河瀬王子からの距離が短すぎます。
鹿ヶ瀬峠を越えたところにも「馬留」があることから、おそらく、峠をはさんだ両側のふもとに、荷物を運ぶための馬を常備していたのでしょう。
それを「王子」と誤認?したのではないかと思います。

鹿ヶ瀬峠

東の馬留王子を過ぎると、いよいよ紀伊路最大の難所・鹿ヶ瀬峠です。
約2.2km、ゆっくり登って1時間くらいはかかると思います。

藤原定家らがここを歩いた時は、もちろん舗装などされているわけがなく、まさに「崔嵬険阻(さいかいけんそ)」だったでしょうね。

今は舗装されているので、思ったほどキツいとは感じませんでした。
ただし、急坂はあります。
鹿ヶ瀬峠の頂上(「峠」っていうんですよね)を「大峠」と呼んでいます。

大峠の説明板より

広川町における熊野古道は、湯浅町より広川町に沿って民家やみかん畑の間を進み、井関・河瀬地区に入り鹿ヶ瀬峠を越え日高町に至ります。

道沿いには、道中の安全を祈願した王子社が数か所あるが、現在は河瀬王子のみその跡を留めています。

また、井関・河瀬地区は宿場町としての要衝の地であったといわれ、今もその当時の屋号で呼称される民家も数多くあります。

鹿ヶ瀬峠は熊野路の難所の一つであり、大峠(この地)は当時、茶屋・旅籠があり賑わいを見せていました。

周辺には養源寺の草創と伝えられる法華壇や南北朝の争いを伝える鹿ヶ瀬城跡もあります。

説明板にもあるように、峠を下りきったところには養源寺の前身である「鹿ヶ瀬法華寺」があったようです。
後に、徳川吉宗公より、頼宣公の御殿跡地を寄進され、そこに移転されて「養源寺」と改称されたとのことです。
養源寺

私が歩いた時は、鹿ヶ瀬峠にはナルトサワギクが満開でした。
ナルトサワギクは外来種で、1976年に徳島で初めて確認されてから、あっという間に西日本に広がりました。

熊野古道最長の石畳

大峠からはしばらく未舗装の道を下り、小峠に至ります。
小峠からは、熊野古道最長(503m)の石畳を下ります。
・・・雨の日は歩きたくないなぁ。

金魚茶屋跡

説明板より

「紀伊国名所図会」にも載せられているように、ここには江戸時代の宿場であり、往来の旅人から金魚茶屋として親しまれ、鹿ヶ瀬山から流れ出る清流を筧で引き、金魚を飼って旅人の旅情を慰めていたことから、この名がついたといわれている。

この説明を読点で区切ることなく、一文で仕留めていることに感服(笑)

「金魚茶屋」って、いい響きですね。

よほど金魚が目立っていたのか、それとも金魚くらいしか目玉がなかったのかは分かりません(笑)

江戸時代って、金魚は結構珍しかったのかもしれませんね。
なので、わたしは前者を支持します(笑)

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④へ続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②

前回の記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①

徳本上人名号碑(道標)

河瀬橋(ごのせばし)を渡ると、徳本上人名号碑が建っています。

説明看板より

道標を兼ねた供養塔

この供養塔は天保八年(1837年、大塩平八郎の乱のあった年)の飢饉による多数の飢餓者の七回忌供養のため、天保十四年(1843年)にふじたき(藤滝)念仏堂の発願により建てられ、以来明治の頃まで板橋(流れ橋)の渡りづめにあった。

明治に入って木造の永久橋が今の位置に出来てここに移転したが、後に近くの地蔵寺の門前に安置した。

それから百有余年を過ぎた平成十四年(2002年)再び元の位置に戻してお祀りすることにした。

正面のお名号は徳本上人の字体による。又、台石には世話人の名前もある。

石柱及び台石には次のように書かれている。

右面 是ヨリ
左リ紀三井寺道
六里八丁

上津木 中村
ふじたき
念仏堂
建之

正面 右く満み道
南無阿弥陀佛
左むろご道
酉年以来餓死亡霊
七回忌 為 菩提
徳本 花押
三界萬霊有無両縁
乃至法界平等利益
某 敬白
左面   いせ
右     みち
  かうや
年来之志願
      建立
十万以信施
      霊應
維時天保十四卯晩秋

台石には世話人の名前とその地域が列挙されていますが、省略(笑)

徳本上人名号碑と道標の組み合わせは珍しいのではないでしょうか?

河瀬王子跡

説明板のあるように、昔社殿があったであろう石垣が残っています。

説明板より

藤原定家は「明月記」によると、建仁元年(1201)十月十日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。

また、藤原頼資の日記では、承元四年(1210)四月二十六日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。

江戸時代の「熊野道中記」などでも、「津の瀬王子」と書いています。

このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。

「紀伊続風土記」では、「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の固態を伝えているように思われます。

また、この王子社がら鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。

もうひとつ、案内板があります。

此の所において雨漸くやむ。

夜また明く。次にツノセ王子に参り、次にまた シシノセの山をよぢ昇る。崔嵬の嶮岨。

巌石は昨日に異ならず、此山を越えて 沓カケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて 
樹陰滋り、路甚だ狭し云々

「熊野御幸記」

(広川町誌より)

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③に続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①

久米崎王子跡

この王子社は跡地で建物はなく、説明板が立っているだけですので写真はありません。
場所は、国道42号線に出て少し脇に入ったところにあります。

説明板より

この王子社の名は、藤原定家の日記の建仁元年(1201年)十月十日の記事に見えますが、この頃の参詣道は王子社から南西よりに離れていたのではないかと思われているため、定家は路頭の木に向かって遥拝しただけです。

その後、承元四年(1210)四月二十五日に藤原頼資は、この王子に参拝しています。

承久三年(1221)に承久の乱が起こって以降、上皇や女院の熊野御幸はほとんど行われなくなり、王子社の多くは荒廃しました。
久米崎王子も例外ではなく、十五年後の嘉禎ニ年(1236)には、跡形も無くなっており、鎌倉幕府は、この地の豪族である湯浅氏に、社殿の修復を命じています。

しかし、その後も荒廃したらしく、江戸時代初頭、紀州藩主徳川頼宣は小社を再建しています。その後、久米崎王子社として祀られていましたが、明治四十年に顕国神社に合祀され、跡地だけとなりました。

度々再建されましたが、最終的には明治の神社合祀の「餌食」となった王子ですね。
先人たちは、こういった遺産を後世に残すことを非常に重んじていたことがうかがえます。
しかし、「西洋に追いつき、追い越せ」の明治維新によって、そういった大切な歴史的建造物の多くが姿を消してしまったことは非常に残念です。

当時は欧米列強に飲み込まれないように西欧化することが当時の情勢からみて仕方のないことだったかもしれませんが、ちょっとやり過ぎたのではないでしょうか?

津兼(井関)王子跡

この王子社も跡地で建物がありませんので写真はありません。

説明板より

藤原定家は建仁元年(1201)十月十日、湯浅を雨の中にたち、久米崎王子を遥拝し、ついで参拝した井関王子でようやく雨が止んだと日記に書いています。

藤原頼資の日記では、承元四年(1210) 四月二十六日、久米崎王子についで白原王子に参拝しています。
井関王子と白原王子同じ王子社とも考えられます。

これより約百年前の天仁ニ年(1109)、藤原宗忠は「弘王子社」についで、白原王子社に参拝していますが、この王子は近年出現したものだと記しています。

江戸時代の「紀伊続風土記」には、井関王子社は村の北入口にあり、今は地名をとって津兼王子というと記しています。

また、近世初頭に熊野街道が西側に移ったことにより、旧井関橋を渡ってすぐの台地上に新しく津兼王子社が作られました。
その新しい津兼王子神社は、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、現在は跡形もありません。
この中世の王子社の跡地も近年の湯浅御坊道路広川インターの建設によって消滅しました。

明治時代の神社合祀運動が盛んな時代ならいざ知らず、現在でも王子社の建物が残っていたなら、広川インターチェンジの場所も、王子社を避けて通るように設計されていたのではないでしょうか?
合祀され、跡地になっていたから跡形もなく消されたのだと思います。
そう思うと、明治時代というのは熊野にとっては壊滅的なダメージを与えてしまったと言わざるを得ません。

しかし、井関王子と白原王子の関係って、どうなんでしょうね?

謎なところは、藤原宗忠が来た時(1190年)では「白原王子」となっていたところを、1201年に定家が来た時には「井関王子」となり、その後1210年に藤原頼資が来た時には再び「白原王子」となっている点です。

通常、王子は2~4kmごとに建てられていたので、そう頻繁に王子が登場するとは考えられないので「同じ」と考えられるということでしょうが、それにしても「白原」から「井関」になり、再び「白原」に戻る理由の説明がほしいところです。

宗忠が書いているように、王子は初めから「九十九ほど」あったわけではなく、時代によってその数が増えたり減ったりしています。
本宮エリアでは水呑王子が「新王子」と同じ日記に書かれていますので、上皇・法皇の熊野御幸が盛んになってから、王子の数も増えていったのでしょう。

王子の数が増えた理由についてはよく分かりませんが、おそらく、上皇・法皇、貴族にすこしでも地元でとどまってほしいという住民の願いが込められていたのかもしれません。
あるいは、とどまることによって莫大なお金を地元に落としていったとか・・・
「地元の住民は、上皇・法皇がいらっしゃった時は食事などを用意しなければならなかったので苦痛だった」という話を聞いたことがありますが、なにか地元にとってもプラスになる理由がなければ、新しい王子を作ろうという心理が働かないはずです。

ただ、国民の皇族の方々に対する気持ちというのは、奉仕の気持ちが根底にありました。
以前は皇居の門番を国ごとで持ち回りで自主的にやっていた時代もあり、それは給料や手当が出るわけでもありませんが、それを「名誉なこと」としていました。
なので「うちのおじいちゃんは、皇居の門番をやった」と自慢ができるほどだったいいます。

こういったことを考えると、もしかすると、上皇・法皇、貴族を呼び寄せるために、井関王子と白原王子のどちらかがにわかにつくられ、一行はそのいずれかに参ったのではないか?とも考えられます。
宗忠の日記から見れば、「弘王子社」がもともとあり、「白原王子」が新しく建てられたものだということが分かります。
このことから考えると、「弘王子社」と「井関王子社」が同じであり、「白原王子」が後からつくられたと考えるほうが自然のような気もします。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②に続きます。


【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑥

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

深専寺

案内板より

深専寺は、奈良時代、行基により開かれた海運院を前身に、寛正3年(1462)に明秀上人が再興した西山浄土宗の寺院である。

寛文3年(1663)に建立された本堂をはじめ近世に整備された堂舎が広がる境内は、醤油醸造家たちも行き来した熊野街道沿いにあり、聖護院門跡らの熊野入峰の際には宿舎としても利用された。

門前に立つ「大地震津波心得の記碑」には、当地の醤油醸造家らの名が寄進者として刻まれている。

その「大地震津波心得の記碑」です。

大地震津なミ心え之記

嘉永七年六月十四日夜八ツ時下り大地震ゆり出し 翌十五日まで三十一ニ度ゆりそれより小地震日としてゆらざることなし 

廿五日頃漸ゆりやミ人心もおだやかになりしニ同年十一月四日晴天四ツ時大地震凡半時ばかり瓦落柱ねぢれたる家も多し川口よた来たることおびただしかりしかとも其日もことなく暮て翌五日昼七ツ時きのふより強き地震にて未申のかた海鳴こと三四度見るうち海のおもて山のごとくもりあがり津波といふやいな高波うちあげ北川南川原へ大木大石をさかまき家蔵船みぢんニ砕き高波おし来たる勢ひすさまじくおそろしなんといはんかたなし 

これより先地震をのがれんため濱へ逃あるひハ舟にのり又ハ北川南川筋へ逃たる人のあやうきめにあひ溺死の人もすくなからず 
すでに百五十年前宝永四年乃地震にも濱邊へにげて津波に死せし人のあまた有しとなん聞つたふ人もまれになり行ものなれハこの碑を建置ものそかし 

又昔よりつたへいふ井戸の水のへりあるひハにごれハ津波有へき印なりといへれど この折には井の水乃へりもにごりもせざりしさすれハ井水の増減によらずこの後萬一大地震ゆることあらハ火用心をいたし津波もよせ来へしと心えかならず濱邊川筋へ逃ゆかず深専寺門前を東へ通り天神山へ立のくべし 恵空一庵書

すこし読みにくいですが、生々しい記述とともに、避難経路の指示と、近づいてはならない場所について書かれています。

先人たちは子孫を想い、自分たちがしたこのような苦しい経験をさせないようにしたいという意図がひしひしと伝わってきます。

私の近くにある飛鳥神社にも、同じく宝永四年に起こった地震による津波の警告板があります。
この警告板は、毎年例祭の時に掲示し、参拝者に注意を喚起しているそうです。

上記文中にある「半時(はんとき)」とは、約1時間のことだそうです。
湯浅でも、白浜でも同じように約1時間も揺れる地震とは、ちょっと想像できません。

湯浅駅

2020年に、図書館や観光センターが入った複合施設的な建物に生まれ変わりました。
以前研修に来た時はまだ改築中でしたが、非常にきれいな駅舎になりました。

駅前には駐車場があり、最初の2時間は無料、以後1時間ごとに100円、24時間最大で500円で駐車できます。

駐車台数は63台です。
湯浅町営駅前駐車場


【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

逆川王子

案内板より

藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月十八日条に「逆河王子」と書かれているのが、最も古い文献です。

藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。

この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。

明治時代には村社となっていましたが、明治四十三年の神社合祀で、田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。

王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れていることから、逆川と呼ばれたのです。

方津戸峠(方寸峠)

案内板より

方寸とは「一寸四方の狭い所」の意味である。

この峠は、古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれてきた。熊野参詣の旅人は、有田川を渡り、険しい糸我を越え、逆川王子社に参拝した。

峠に登ると、遠くには日高へ越える難所「鹿ケ瀬峠」、また眼下には湯浅と広の平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。

熊野へは、まだまだほど遠いが、ここで一息を入れて、旅の疲れを癒やしたことと思われる。

また、平安時代の末期、当時の湯浅荘の地頭湯浅宗重は、熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き、紀州随一の強力な武士団を作り上げた。(後にさらに東の青木山に移転した)。

江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には、湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで、湯浅の玄関口であったという。

この案内板は、有田南ロータリークラブのものです。

今は道も舗装されていて何でもないところですが、当時は特に湯浅醤油盛況のころには重要な場所であったことが分かります。
案内板がないとそのまま通り過ぎるような場所なので、こういった看板があればありがたいですね。

写真の場所から道標に従って右に入ります。
私はこの道標を見逃して真っ直ぐ行ってしまい、しばらくしてから間違っていたことに気づき、戻りました。
ちなみに、真っ直ぐ行っても古道に合流しますが、随分遠回りになります(地図中のピンクの道)

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

糸我峠

峠ふもとの道標から約0.8km、20分で峠に到着します。
途中、一部未舗装の道があります。

案内板より

熊野参詣道紀伊路の有田市と湯浅町の跨る丘陵を南北に越えるのが糸我峠である。

古代からの交通の要衝地であり、「万葉集」七巻に「足代(あて)過ぎて 絲鹿(いとか)の山の桜花 散らずあらなむ 還り来るまで」と詠まれている。

「熊野御幸記」には、イトかの王子に参ず又険阻(けんそ)を凌ぎてイトか山を昇る」と記されている。

「平家物語」の巻第六「祇園女御」には、糸我峠における伝説が記されている。
平忠盛は白河院が寵愛していた祇園女御を賜っていたが、その女御は白河院の子を孕んでいたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にして武士にせよ。」と仰せになられた。

まもなく男子が産まれ、忠盛はそのことを奏上しようと思っていたが、適当な機会がなかった。

白河院が熊野御幸の途中、糸我峠に輿を据えさせてしばらくご休憩なされた。
その時、忠盛は藪にぬかご(山芋)がいくつもあったのを見つけてそれを採り、白河院に「いもが子ははふほどにこそなりにけれ」と申し上げた。
すると院は直ちにお気づきになり、「ただもり取りてやしなひにせよ」と後の句をお付けになられた。

忠盛は山芋にかけて女御が男子を産んだことを報告し、院もすぐに察知して連歌にてこれを詠まれた。

この時から忠盛は自分の子として養うようになり、その男子が後の平清盛であるという。

近世の様子として、文化8年(1811)発行の「紀伊国名所図会」に、「道を挟んで二軒の茶店があり、名産の蜜柑を貯へおきて盛暑のころ是を往来の人に鬻(ひさ)ぐ其氣味佳妙(そのきみかみょう)にして金掌玉露(きんしょうぎょくろ)にも勝るとして他郷の人ハ殊更に驚嘆す」との記述があり、現在と同じ場所に峠と一里塚や古道が描かれている。

現状の道は、有田市糸我から湯浅町吉川に抜ける里道であり、大部分は蜜柑栽培の作業道となっている。

峠から糸我側には七曲がりと呼ばれる地道が続いている。

峠から吉川側の道は、簡易舗装されているものの大規模な改変はされておらず、往時の計上を保持しているものと考えられる。

このように、糸我峠は、古代から交通の要衝地であり、和歌山県の歴史を考えるうえで重要な交通関連の史跡であるため、平成27年10月7日に国の史跡「熊野参詣道」に追加指定されている。

なかなか読みごたえがあります(笑)

歩いている時にこれをじっくり読んでいる人はおそらくいないでしょうね(笑)

しかし、この糸我峠にはそれだけのお話が詰まっているところであるということですね。

峠からの眺望はすばらしいです。

険阻とは地勢の厳しい様のことを言います。
藤原宗忠の中右記には滝尻の上りのことを「崔嵬険阻(さいかいけんそ)」と表現しています。
崔嵬とは岩がごろごろしていて険しい様のことを言います。
崔嵬(さいかい)
険阻(けんそ)

「名産の蜜柑を貯へおきて」は、蔵出しみかんのことでしょうか?
蔵出しみかん
しかし、蔵出しみかんの出荷は1月下旬とのことなので、また違うミカンのことでしょうかね。とても「盛暑の頃」までは持たないのでは?

また、峠には説明板にあった歌を刻んだ碑が立っています。

糸我峠を下りきったあたりに吉川老人憩いの家があります。
トイレもできます。

建物から想像するに、トイレの様子を想像してから実際に見ると結構キレイで、いい意味で期待を裏切ってくれます。
ベンチもあるので少し休憩もできます。
以前案内してもらった時は、ここでお昼を食べました。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

糸我稲荷神社

すみません、この神社については詳しいことは分かりません。
ただ、京都の伏見稲荷の創建よりも60年古く、日本最古の稲荷神社と言われているそうです。
そういえば、新宮の阿須賀神社境内にある稲荷神社も相当古く、こちらも日本最古と聞いたことがあります。
さらには、京都伏見稲荷はここから勧請されたという説を唱える人もいるとか。
ちなみに、奈良県の玉置神社の三柱神社は、この稲荷神社から勧請されたという記録が社伝に残っていると聞いたことがあります。

はたしてどちらが古いのかは分かりませんが、「相当古い」ということは確かなようです。

糸我稲荷神社楠の大木

説明板より

稲荷神社の楠の木は、記録によると明治十三年までは四本あったとされています。

現在は三本であるがその配置から見ると境内の四隅に計画的に植えられていたことがうかがえます。

三本とも樹勢は旺盛で、それぞれの幹の廻りは5メートルから6.5メートルに達し、樹齢も五百年以上を経ており、市内最大のものです。

鳥居に掲げられた「本朝最初」の扁額にふさわしく稲荷神社の歴史を物語る大木です。

糸我稲荷神社の隣には、くまの古道歴史民俗資料館があります。
ここで様々な熊野古道にまつわる情報が展示されていますが、あいにくこの日は休業日で入ることができませんでした。
開館時間は9:30~17:00。
水曜、木曜は定休日です。
・・・定休日。
それも二連休。
やる気の高さがうかがえます。

糸我王子

説明板より

藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月十八日に、有田川に係る仮橋を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名は、その時の日記には書かれていません。

それから約百年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っています。

「糸我王子」と正しく書いたのは、藤原頼資の日記です。
頼資は修明門院に随行して、承元四年(1210)四月二十五日に、この王子社に参拝しています。

糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、「紀伊続風土記」に、「廃糸我王子」と記されています。

また、この付近には、江戸時代に「水王子社」と「上王子社」がありましたが、地元では、上王子社を糸我王子に比定しています。
両王子社は明治時代、稲荷神社合祀されましたが、平成七年愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子として再建されました。

文中に出てくる「伊止賀」は、おそらく当て字でしょう。
近露王子を「近津湯」と書いているのもそうですね。
昔は、音に合わせて感じを当てることがよく行われていたようです。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④に続きます。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

宮原橋を渡り、しばらくは有田川沿いを歩きます。
ここを、地図を見ながら歩いていると道標を見逃してそのまま真っ直ぐ進んでいました。

「謎解き」の看板はここでも健在でした。

得生寺

案内板より

得生寺記という古記録によると、天平宝字三年(西暦759)時の右大臣藤原豊成の女(むすめ)中将姫遭難の旧跡である。

当初中将姫の家士伊藤治時の創設した草庵が、後に一寺となり、安養庵と呼んだ。

時代が降って、室町時代に入り、西山浄土宗の名僧明秀光雲上人紀州に来り、文明年間(1469~1487)同上人によって改宗され、伊藤春時の僧名を寺号とし、雲雀山得生寺として今日に至っている。

現在の得生寺は、寛永五年(1752)四月、新田蓮坪の現在地に建立された。

寺内西正面に開山堂がある。堂内に中将姫を中心に春時(得生)夫妻が安置されている。

当寺では恒例の中将姫会式が、毎年五月十四日に勤修され、地元の子供達が二十五菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養をする。
会式当日は、善男善女で大へんな賑いであり昔から次の言葉で呼ばれている。

「嫁見するなら糸我の会式それで会わねば千田祭」

二十五菩薩練供養は、和歌山県無形文化財に指定されている。

俺も嫁見に行こうかな?

あ、俺には嫁がいてた(笑)

さて、もう一つの案内板に、上記の補足的内容が書かれています。

奈良時代の天平19(747)年丁亥(ひのとい)に時の右大臣藤原豊成卿夫妻が、長谷寺に祈願して誕生したしたのが中将姫で、姫が3歳の時に母の紫の前が亡くなり、7歳の時に父の豊成卿が照代の前を後妻に迎えました。

継母は次第に姫を憎むようになり、姫13歳の時に密かに伊藤春時という家臣に命じて、紀伊の国雲雀山で姫を殺害しようとしましたが春時はかえって姫の徳に打たれ、都より妻を呼び寄せ夫婦で姫を守り育てました。

3年後の天平宝字5(761)年に豊成卿が猟に来て姫と涙の再開を果たし、都に帰りましたが17歳の時に当麻寺(たいまでら)で剃髪して法如(ほうにょ)と名乗り、有名な当麻曼荼羅を織り上げましたが、宝亀6(775)年卯月14日に25菩薩に迎えられ、29歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。

二十五菩薩とは、読んで字の如く25の菩薩ですが、こんなにいらっしゃるとは知りませんでした。
このなかでせいぜい、観音菩薩、虚空蔵菩薩、勢至菩薩くらいです。
二十五菩薩

さて、この説明文の中にある、伊藤春時が中将姫の徳に打たれたその「徳」とは、いったい何だったのでしょうか?
多分、この詳しいお話を語り部さんから聞いたと思うのですが、忘れてしまいました(笑)

同じ説明板に、二十五菩薩練り供養のことが書かれています。

毎年姫の命日に当たる5月14日に執り行なわれる来迎会式で、小学生たちが25菩薩に扮して、開山堂より本堂へ山内を練り歩く二十五菩薩練り供養は、昔からの仏教文化の一端を知る貴重な行事と言われています。

二十五菩薩練供養は、やはり中将姫ゆかりの當麻寺が有名のようです。
というか、現在各地で行われている練供養の元祖と言われていますので当然でしょうか。
こちらでも、やはり5月14日に練供養が行われていましたが、2019年以降は4月14日に改められたようです。
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)PDF版

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③へ続きます。