【熊野古道小辺路】十津川温泉~本宮

田花館の絶品料理を食べて、温泉に入って元気全開で出発。

・・・しかし今日は暑すぎた。

ガイドさんは色んな方面に詳しく、特に私は林業について聞きたいことがたくさんあったので、今日も質問しまくりでした。

本当に勉強になりました。

他にも様々なことを教えていただき、実りの多い研修となりました。

道中で嫌な想いもしましたが、それを引いてもお釣りが来るほどのことを教えていただきましたので、またどこかでお世話になれればと思っています。

研修には、講師向きの人とガイド向きの人がいます。

今回の方は完璧に講師向きでした。

昨日の食事の席でガイドについて色んなお話をしましたが、その中でガイド料金のこと以外にも、現在の語り部の抱える問題についても的確な指摘をしていました。

ガイドに対する想いは私と合致することが非常に多く、つい私も熱く語ってしまいました。

兎にも角にも、お金を出して学ぶ価値は十分すぎるくらいありました。

今日は本宮の幼なじみが経営している宿に泊まっています。

明日は久しぶりに我が家に帰宅です。
ゆっくりしてる間はなく、午後は英会話のレッスンです。

【熊野古道小辺路】三浦口~十津川温泉

昨日の「事件」から気持ちを切り替えて本日も出発。
代わりに質問をぶつけまくりました。

しかし、さすがはベテランのガイド。

ほとんどのことについて答えていただき、今日は満足です。

西中大谷橋のバス停までの時間が微妙で結構急いで降りましたが、何とかバスにも間に合いました。

あの車道を、炎天下の中歩くという最悪の自体だけは避けることができました。

本日は田花館に宿泊です。

料理がうますぎた。

鮎の背ごし、初めて食べましたが絶品でした。

食事をしながら、みんなで歓談。

語り部さんも言ってましたが、和歌山のガイド料が安すぎます。

全国的に語り部団体はそうらしいのですが、和歌山も例外ではなく、ほんとに安いです。
そして、後継者不足が深刻化しています。
その一番の原因は、ガイド料の安さです。

言い方は悪いですが、定年退職後の暇つぶしと小遣い稼ぎが目的だと、若い世代が入って来なくて当然です。

奈良ではガイドを生業にしている人が200人いると聞きました。
和歌山では、私の知る限りではほんの数人しかいません。
この差は、絶対にガイド料です。
奈良のガイドさんは、〇〇円以下では行かないと決めているそうです。
その金額は、和歌山の相場とは雲泥の差です。

若い世代がガイドという職業に魅力を感じられるように条件を整えてあげなければ、新規で若い世代が加入するなんてことは絶対に無理です。

その点おいても、報酬面でそれなりのものがなければ来てはくれません。

和歌山の語り部団体は、このことに気づいていないのかもしれません。

ガイド料や語り部団体の苦言については、こちらの記事をご参考にされてください。
語り部団体との間で懸念される問題
ガイドの料金と団体の淘汰
ガイド料金と後継者問題

明日はいよいよ最終日です。

【熊野古道小辺路】大股~三浦口

今日は8時に宿を出てから大股を出発。

結局9時間あまりかかりました。道中もいろいろな話をしてくれましたが、最後にかなり語り部に対して腹が立ったので今はその怒りを沈めることに頑張っております。

最後の一言でこれまでの楽しい行程が帳消しになりました。

しかしあそこでキレなかった俺、偉いぞ(笑)

あんな侮辱を受けたのは初めてでした。

ま、経験の深い人から見れば言われても仕方ないところもあるので、気を取り直して明日も頑張りますよ。

【熊野古道小辺路】高野山~大股

朝のお勤め終了後、朝食を取って8:30頃にスタート。

時折雨が降る天気でしたが、心地よい風が吹き気持ちよく歩くことができました。

今日も語り部さんからたくさんのことを教えていただきました。

お話を聞きながら、きのこを観察しながら、ヘビと戯れながら、ゆっくりと歩きました。

語り部さんはたくさんのことを知っていましたが、きのこについて非常にくわしく、今日はたくさんのきのこの説明をしていただきました。

特に長年謎だった、ロクショウグサレキンのことを知ることができたのは個人的に良かったです。

17:00にホテルのせ川に到着。

アマゴの洗いって、初めて食べましたが、クセがなく美味しかったです。
他の料理も美味しかったです。

明日は8:00頃出発です。

【熊野古道小辺路】前泊

明日からいよいよ熊野古道の難所・小辺路研修です。

今日は移動日でした。

いつも利用する聖地巡礼バスが、今年の夏は運行していなかったので、レンタカーを借りで自家用車と2台でゴール地点の本宮に1台を停め、そこから橋本市でレンタカーを乗り捨て、電車→ケーブルカー→バスで高野山に到着しました。

朝9時頃に出発し、高野山に着いたのが16:00。

高野山はあまりにも遠すぎます。

南院で語り部さんと合流し、夕食を一緒に取りました。

南院は、波切不動明王を祀る寺院で、この写真の本堂の軒には八大龍王の絵が描かれています。
これがなかなか圧巻です。

語り部さんは、行者さんの家系の生まれで、高野山や熊野、吉野について、非常に興味深いお話をしていただきました。

・・・メモを取っておきたいくらいでした。

語り部さんは奈良の方ですが、「和歌山の語り部さんとも仕事をすることがあるが、和歌山の料金は安すぎる」とおっしゃっていました。

その点については、私も以前の記事にも書きましたが、本当に安すぎます。

以前の記事についてはこちら
ガイド料金と後継者問題
ガイドの料金と団体の淘汰
語り部団体との間で懸念される問題

楽しみで今日は寝れないかも(笑)

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅③

過去の記事はこちら
【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②

吉田八幡神社

ご祭神は八幡大神、神功皇后、高良神(こうらかみ)

八幡大神はまたの名を「誉田別命(ほんだわけのみこと)」といい、後の「応神天皇」を指します。
神功皇后は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」であり、誉田別命のお母さんです。
この神功皇后が三韓征伐をしますが、この時すでに神功皇后は誉田別命を身ごもっており、出産を遅らせるために腹にさらしを巻いて三韓征伐に向かったという、とても強いお方です。

・・・今であれば「女性に何てことをさせるのだ!」と、フェミニストが怒って来そうですが(笑)

高良神とは「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)」であり、景行天皇から仁徳天皇までの4代に渡り仕えた臣下です。
神功皇后ともゆかりの深いお方で、和歌山生まれです。
よく和歌山県内の神社を参拝すると、武内宿禰さんをお祀りしている神社が多いことに気づくと思います。

ちなみに、「宿禰」とは称名(たたえな)です。

説明板より

鎮座地は昔より「やはた山」と呼ばれ、八幡大神とは特に縁が深く、その周辺に「九海士(くあま)の里、九艘谷(くそうだに)」と言う地名が残っており、「九艘谷」は入江となっていたと言われ、神功皇后が三韓征伐の帰途の折、この地に行宮所を設け、しばし、この地に留まられた。
この地を出立するに当り、9人の供の者に船1艘ずつ与えて帰宮された。
留まった9人の供の者は、その舟で漁業に努め、農耕に精出し、行宮の聖地に八幡大神をお祀りしたと伝えられています。

天智天皇の時代(670年頃)、九海士の里のむら長「早鷹」という者が、子供が無いのを憂い、八幡大神に祈願の末、「宮子姫(髪長姫とも呼ぶ)」を授かり、姫は文武天皇の御側としてお仕えしたと伝えられています。

当神社の向かいに文武天皇の勅願寺である「道成寺」が建立(701年)されて栄えたが、神社は荒廃しました。

その後、改めて石清水八幡宮より勧請し、東吉田政所某なる住宅の西に一時奉斎、(現在の藤田小学校西約200m付近)、後に八幡山の現在地に遷したと言われています。

境内地に神宮寺の真言宗浄国寺が建立されたが延宝3年(1675年)に道成寺の末寺となり、龍宮山雲性寺に改称しましたが、明治3年頃焼失しました。

八幡山北麓に上阿田木神社より勧請された「愛徳山王子社」も鎮座していましたが、その後荒廃し、現在はその跡を留めていません。

明治6年村社となり、明治41年に氏子地域内の小社が合祀されました。

秋の例大祭は、「やはたの朝馬」の行事が催されて賑わったが、昭和初頭より馬が少なくなり、馬駈けは途絶えた。
その後、平成12年に氏子総意に依り、例祭日の神賑(かみにぎわい)行事は形を変えて復活しました。

なお、琴平神社の例祭3月10日に執り行われ、氏子、崇敬者より餅米の奉納があり、「1畳に延ばした厄除餅の餅撒行事」も行われています。

「行宮」とは、「あんぐう」または「かりみや」とも呼ばれ、一時的に建設された施設のことをいいます。

「勅願寺(ちょくがんじ)」とは、時の天皇が国家鎮護や皇室の繁栄を祈願して建立または指定したお寺のことです。
和歌山県には、道成寺の他に青岸渡寺や長保寺(ちょうほうじ)があります。

「神宮寺」とは、神仏習合の思想の元に建てられた神社に付属するお寺のことで、僧が仏式で神社の祭祀をするための施設といえばいいのでしょうか。
「神仏習合」というと、平安時代のイメージがありますが、神宮寺の建立が始まったのは奈良時代、つまり仏教公伝からのようです。

ちなみに、昔は「仏教伝来」と呼ばれていましたが、今は538年(または552年)に百済から公式に伝えられた年を「仏教公伝」と読んで区別しています。
日本は海洋国家であり、海洋民族でもありました。
人々は優れた航海技術をもって、様々な国と交易をしていました。
その中で、「公伝」以前に私的に仏教が入っていたので、それと区別をしています。
那智でも、インドの裸形上人が那智の浜に漂着したとされているのは317年です。
「公伝」よりもずっと昔のことです。

仏教公伝の真相については、こちらをご参照ください。
日本文化はChinaやKoreaからの渡来ではない

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅④へ続きます。

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②

過去の記事はこちら
【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①

善童子王子

富安壮の産土神で田藤次王子ともいう。

「中右記」に大般経六百巻を蔵すると記され大社と伝える。

秀吉の紀州攻め後衰微し明治末年湯川神社に合祀された。

定家がここを訪れた時には規模の大きなお社だったようですが、今は小さな祠が建っているだけです。

秀吉の紀州攻めは熊野古道沿いにも話が残っていて、潮見峠や上富田の山本氏、近露の野長瀬氏などとも激しい戦が繰り広げられました。

一方で、信長の焼き討ちにあった青岸渡寺は秀吉が復興しています。

愛徳山(あいとくさん)王子跡

少し見にくいですが、この王子に行くためには「コースアウト」をする必要があります。
ここを訪れた後、来た道を戻ってもいいですが、そのまま進めば古道に合流するようです。
「ようです」というのは、私もそこを歩いたことがないからですが、古道沿いにその出口があり、そこに愛徳山王子への看板がありますので。

本王子は、旧川上村阿田木神社より勧請されたと伝え、御幸記に次又愛徳山王子と初めて名が見える。

また、藤原定家の明月記に盛範が当社を修造した功によって賞せられた事が記され、鎌倉時代かなり重要な社であったようである。

ここに見える「川上村」とは、現・日高川町の東部の日高川流域と初湯川(うぶゆかわ)の流域にあります。
地理的に言うと両所はかなり離れています。
そこに「上阿田木神社(かみあたぎじんじゃ)」が鎮座しています。

上阿田木神社 拝殿
境内

上阿田木神社のご祭神は熊野権現であり、主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。
創建は非常に古く、西暦928年にまで遡ります。
説明板には「御幸記に愛徳山王子と初めて名が見える」とあります。
「御幸記」とは、藤原定家の「熊野御幸記」を指しているのでしょう。
藤原定家が熊野に来たのが1210年。
上阿田木神社の創建は928年なので、愛徳山王子がいつ勧請されたかは分かりませんが、時代考証としても合っています。

この王子名の「愛徳山」とは、初湯川にある「愛徳山」という地名から来ているのでしょう。

「愛徳山」はもともと「あたぎやま」と呼ばれていたようで、上阿田木神社の創建について書かれている「愛徳山熊野権現縁起」には愛徳山を「あたぎやま」と読んでいます。
また、昔は「上愛徳六所権現(かみあたぎろくしょごんげん)」と呼ばれていたそうです。
上阿田木神社

両所を繋いだもの

この両所がなぜ繋がっていたのか?ということですが、一番大きな要因は「川」だと思います。

和歌山県の飛び地・北山村は、新宮市と林業で非常に強いつながりを持っていました。
その要因が当時の交通手段である熊野川でした。

北山村の住民は材木の筏を組んでそれを操って新宮市まで運び、新宮市に到着するとそれを解体して木材業者に納入し、筏を操った「筏師」は「筏師の道」を通って北山村まで徒歩で帰っていました。

この新宮市が、廃藩置県の時に和歌山県に編入されたため、北山村の住民は「新宮が和歌山県に入ったのなら私たちも」とということになり、和歌山県に編入されたという経緯があります。
北山村観光サイト

日高川流域でも北山村と同じように、林業で御坊市とのつながりがあったそうです。
日高川ガイド

そういった経緯から、こんな離れた所に愛徳山王子が勧請されたと思えば、何ら不思議なことではありません。


【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①

いよいよ紀伊路も御坊に入ります。

紀伊内原駅を出発してからは、しばらくは「これ」といったものがありませんが、のどかな田園風景と住宅街を通ります。
けっこうこの風景がツボだったりします。

道中に「弁財天山古墳」の案内看板があったので、すこしコースアウトしますが立ち寄りました。

けっこう大きな池のほとりを歩いて行きます。

これが古墳。

説明板より

石室部の内部構造は完存している。石室の奥壁の下部に密着して、緑泥片岩の石棺二組があり、一組から刀剣の腐食したもの(を)発見した。

この棺は男性を葬ったものと考えられる。出土品には、坩、蓋坏、壷、提瓶、楯形、埴輪等数多くあった。

頼む、漢字によみがなを振っておいてくれ(笑)

「坩」は「かん」とも読みますが、ここでは「つぼ」ですね。
壷でも土で出来た壷のようです。
しかし、この説明板には「壷」の文字も見られるため、この違いが何なのかは分かりません。

「蓋坏」は「ふたつき」で、このようなものです。
蓋坏

「提瓶」は「ていへい」とか「さげべ」と呼ばれ、いわゆる水筒のことのようです。
提瓶

「楯形」はそのまま「たてがた」と読みますが、おそらくは「楯形埴輪」のことかと思います。
楯形

この説明板の説明を読んで「ふむふむ」と分かる人っていったいどれくらいいるのか?

緑泥片岩は中央構造線の南側で採れるため、この付近では採れないのでは?
だとすれば、遠い和歌山市付近からわざわざ持ってきたと考えられるため、やはりここに鎮まっておられる方というのは、当時相当力のあったお方っだったんでしょうね。

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②に続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑥-②

前回までの記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅

すみません、梅の収穫がピークに差し掛かり、人手も少ないこともあってなかなかの重労働です。
昨日はさすがに疲れ切ってしまい、早くに寝てしまいました。

気を取り直して昨日の続きを。

内ノ畑王子でのしきたりは、他の王子と違って変わっていますね。

ちなみに、この王子には「ツチ金剛童子」が祀られているそうですが、熊野古道はもともと修験者が開いた道であり、大峯奥駈道のスタイルを踏襲しています。

古道沿いの「王子」も、奥駈道の「靡(なびき)」と同じような役割があります。
奥駈には75ヵ所の靡がありますが、そこでは読経などの習慣を踏襲しているようです。

王子でも、上皇・法皇が読経や里神楽、和歌会、相撲などをして熊野三山を目指しました。

王子の名前の由来ははっきりしていませんが、修験者が祀る神(仏)を「童子」と言い、その「童子」が転訛して「王子」となったとい説があります。

内ノ畑王子への道ですが、これまで進んで来た道から右折をして「なめら橋」を渡り、その先の分岐を左に進みますので迷わないように注意してください。

高家(たいえ)王子

説明板より

天仁ニ年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月十九日に大家(たいえ)王子社に参詣しています。

それからおよそ百年後の、承元四年(1210)、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資の、四月二十六日に高家王子社に参拝しています。

この王子は、江戸時代には若一王子社と称され、萩原村東光寺の地にあったことから、東光寺王子ともいわれています。

境内には「長床」という僧の修行場、ないし宿泊施設が設けられており、法華寺という別当寺があったようですが、東光寺との関係は明らかではありません。

明治時代に王子神社と改称されました。

本殿は、明治二十一年に暴風雨で倒壊したため、二年後に再建されています。

神社名は、大蔵省管財局の指示で、村の名称を使用して、昭和二十八年に内原王子神社となりました。

なお、旧社地は現在の地よりも北にあったと推定されていますが、詳細は不明です。

神社として現存しているため、非常に管理が行き届いていてキレイでした。
また、社殿には祭りの様子の写真(主に巫女さん)が飾られており、地域との深いつながりを感じることができます。

この神社、明治41年に30の周辺の神社を合祀しています。
主祭神の「皇大神」とは、天照大御神のことを指します。
内原王子神社
伊勢の内宮の御正宮は「天照皇大神宮」と呼ばれています。

愛子の渕由緒

説明板より

ここより南五十米に「愛子の渕」がある。

江戸時代、この近くの豪族、秦政助の一子亀千代は生まれつき目が見えず、なげき、円応寺(現在廃寺)の観音様に願掛けしたが、その効もなく、前途を悲しみ渕に身投げした。

政助は悲しみ、村人の慰める言葉もなかった。

ところが、不思議と亀千代の体は温味が戻りやがて口を開き「今、地獄へ落ちるところを観音様のお救いで助かった。」と言った一同はその神秘に呆然とし、喜んだ。

この事があってから、この渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったと言う。

初めてこの説明を読んだ時「?」となりました。

ここで登場する「愛子」とは、子どもの名前ではなく「愛弟子」などの「愛」のことをいうのでしょう。
そうしないと、なぜ身投げした「亀千代」が「愛子」になったのかの説明ができません。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑥

前回までの記事はこちら
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤

内ノ畑王子跡

説明板より

建仁元年(1201)十月十日、鹿瀬山を越えた藤原定家たちは、木の枝を伐って槌を造り、榊の枝に付けて「内ノハタノ王子」に持ち寄り、そこに結び付けたのです。

建宝五年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資たちも、十月五日に、同じように槌を造り、王子前で「徳あり、徳あり」と声高に言い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。

祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったのでしょう。

こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永三十四年(1427)九月二十四日、足利義満の側室、北野殿の先達をつとめた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。

江戸時代には、隣接地のこの地に移転して、「槌王子社」として祀られ、明治時代に槌王子神社となりましたが、神社合祀で、新熊野神社に合祀され、その後、内原王子神社に合祀されました。

・・・すみません、文章を打ちながら眠ってしまっていました。

続きはまた明日に。