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【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
善童子王子
富安壮の産土神で田藤次王子ともいう。
「中右記」に大般経六百巻を蔵すると記され大社と伝える。
秀吉の紀州攻め後衰微し明治末年湯川神社に合祀された。
定家がここを訪れた時には規模の大きなお社だったようですが、今は小さな祠が建っているだけです。
秀吉の紀州攻めは熊野古道沿いにも話が残っていて、潮見峠や上富田の山本氏、近露の野長瀬氏などとも激しい戦が繰り広げられました。
一方で、信長の焼き討ちにあった青岸渡寺は秀吉が復興しています。
愛徳山(あいとくさん)王子跡
少し見にくいですが、この王子に行くためには「コースアウト」をする必要があります。
ここを訪れた後、来た道を戻ってもいいですが、そのまま進めば古道に合流するようです。
「ようです」というのは、私もそこを歩いたことがないからですが、古道沿いにその出口があり、そこに愛徳山王子への看板がありますので。
本王子は、旧川上村阿田木神社より勧請されたと伝え、御幸記に次又愛徳山王子と初めて名が見える。
また、藤原定家の明月記に盛範が当社を修造した功によって賞せられた事が記され、鎌倉時代かなり重要な社であったようである。
ここに見える「川上村」とは、現・日高川町の東部の日高川流域と初湯川(うぶゆかわ)の流域にあります。
地理的に言うと両所はかなり離れています。
そこに「上阿田木神社(かみあたぎじんじゃ)」が鎮座しています。
上阿田木神社 拝殿
境内
上阿田木神社のご祭神は熊野権現であり、主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。
創建は非常に古く、西暦928年にまで遡ります。
説明板には「御幸記に愛徳山王子と初めて名が見える」とあります。
「御幸記」とは、藤原定家の「熊野御幸記」を指しているのでしょう。
藤原定家が熊野に来たのが1210年。
上阿田木神社の創建は928年なので、愛徳山王子がいつ勧請されたかは分かりませんが、時代考証としても合っています。
この王子名の「愛徳山」とは、初湯川にある「愛徳山」という地名から来ているのでしょう。
「愛徳山」はもともと「あたぎやま」と呼ばれていたようで、上阿田木神社の創建について書かれている「愛徳山熊野権現縁起」には愛徳山を「あたぎやま」と読んでいます。
また、昔は「上愛徳六所権現(かみあたぎろくしょごんげん)」と呼ばれていたそうです。
上阿田木神社
両所を繋いだもの
この両所がなぜ繋がっていたのか?ということですが、一番大きな要因は「川」だと思います。
和歌山県の飛び地・北山村は、新宮市と林業で非常に強いつながりを持っていました。
その要因が当時の交通手段である熊野川でした。
北山村の住民は材木の筏を組んでそれを操って新宮市まで運び、新宮市に到着するとそれを解体して木材業者に納入し、筏を操った「筏師」は「筏師の道」を通って北山村まで徒歩で帰っていました。
この新宮市が、廃藩置県の時に和歌山県に編入されたため、北山村の住民は「新宮が和歌山県に入ったのなら私たちも」とということになり、和歌山県に編入されたという経緯があります。
北山村観光サイト
日高川流域でも北山村と同じように、林業で御坊市とのつながりがあったそうです。
日高川ガイド
そういった経緯から、こんな離れた所に愛徳山王子が勧請されたと思えば、何ら不思議なことではありません。