【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

以前に紀伊路の研修をお願いした時に、都合が合わずに参加できなかった部分があり、歩いた区間が飛び飛びになっていたので、山中渓からしらみ潰しに歩いています。

今回は紀伊宮原駅~湯浅駅までです。

本当は紀伊内原駅まで歩いたのですが、シリーズ化をするとかなりの長編になってしまうので、湯浅駅で一旦区切ります。

天神社

すみません、写真を撮るのを忘れました。

案内板より

天神社は学問の神様を言われる菅原道真公を祭る。

「流れ天神」の異名があり、室町時代(1488年)の有田川大洪水のとき、粟生村(現有田川町)の四社明神が流されこの地に漂着した。

一度は粟生村に返されたが、五年後の大洪水に天神社のみ再び流されこの地に漂着した。

以来五百年余りこの地の守護神として祭られ、熊野詣の人々もこの神前で旅の安全を祈ってきた由緒ある神社である。

祭日は毎年一月二十五日の初祭りと七月二十五日の夏祭りである。
七月二十四日の宵宮祭りは近在からの参拝者も多く夜店も出て夜空をこがす打ち上げ花火は夏の夜の風物詩として現在も継承されている。

再び流されてこの地にたどり着いたとは、よほどここの居心地が良かったのかもしれません(笑)

菅原道真公といえば学問の神様として有名ですが、遣唐使を廃止したお方です。
なぜ遣唐使を廃止したのかは、こちらをご参照ください。
唐との関係
菅原道真と遣唐使廃止

近くにもうひとつ、「熊野参詣道について」という説明看板があります。

山口王子社から宮原の集落を通り「宮原の渡」で有田川を渡り、糸我にいたる。

江戸時代紀州藩はこの道を官道とし、この宮原に宿駅をもうけ交通の要所とした。
ここは常に人や馬が準備されおおいに賑わった。

有田川畔の天神社のそばに「札場地蔵」とよばれる祠があり、有田川が増水したとき、ここの川止めの制札を建てたのである。

白倉山麓には重要文化財木造十一面観音立像のある広利寺、県指定法燈国師関係史料のある禅宗の円満寺が所在する。

また、県指定無形民俗文化財「有田川の鵜飼」は六百年前の応永年間に始められたともいわれ、「徒歩(かち)づかい」という特殊な漁法が伝承されている。

制札とは道や神社などに立てる札のことで、現在では禁止事項などを書いています。

鵜飼の漁法、徒歩づかいについてはこちらをご参照ください。
有田川の鵜飼

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑭

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬

伊太祁曽神社

平緒王子から以前は小栗橋を渡ったのですが、あいにくこの日は工事中で橋がありませんでした。
もっと手前で知らせて欲しかったです。
橋まで来て「通行止め」ってひどくないですか?

仕方なく、また来た道を戻り、迂回して伊太祁曽神社を目指しました。
コンビニのところから真っ直ぐ行けば伊太祁曽神社だったのですが、地図で示している正規のルートを通って行きたかったので、ぐるっと迂回しました。

ここでまた迷いました。

六地蔵が見当たりません。

多分間違ったのでしょうが、以前通った道まで出ることができたので、何とか伊太祁曽神社にたどり着くことができました。

この地図、分かりにくい。

伊太祁曽神社については、こちらをご参照ください。
伊太祁曽神社の御由緒について
伊太祁曽神社、読み方は「いたきそ」なんですね。
で、駅の名前が「いだきそ」

神社の名前も、駅の名前も一緒だと思っていたので、いったいどっちが正しい呼び名だろうかと思っていましたが、呼び方自体がそれぞれ違っていたんですね。

話はそれますが、「橋杭岩」を何と呼びますか?
「十津川村」は?

正解は「はしぐいいわ」「とつかわむら」です。

だいたいの人は「はしくいいわ」と言いますが、正式には「はしぐいいわ」です。
地元人は「はしぐい」と呼んでいます。
また、潮岬は「みさき」と呼んでいます。

「十津川村」は、「十津川警部」の影響からか、「とつがわ」と呼ぶ人がいますが、「とつかわ」です。

大鳥居

案内板より

明治十九年の記録によれば「大鳥居神明造柱廻り六尺三寸横巾三間壱分高サ三間九分」とあり、現在とほぼ同じ大きさであったこ事が窺える。

昭和十二年の御造営で現状の神明鳥居に変更されて以来、八十有余の星霜を経て老朽化が進み倒壊の恐れがあった。

折しも第六十二回伊勢神宮式年遷宮の古材の譲与に預り、鳥居の修繕を計画した次第である。

この鳥居の柱の下部分は今までの鳥居の木材を再利用し、上部分に伊勢神宮の古材を繋ぎ合わせ伊勢神宮と当社を融合した形で完成した。

尚笠木・島木・貫の腐食部分は埋木をすることにより原型の保持に努めた。

鳥居の名称に関する情報はこちらをご参照ください。
神社人 鳥居について

「埋木(うめき)」とは、補修方法の一つで、腐食した部分を切り取り穴を空け、そこに新材を埋め込む工法のことです。
他にも「矧木(はぎき)」「継木(つぎき)」などがあります。
修理工事こぼれ話④ 補足木材調査

伊勢の神宮の鳥居は式年遷宮の後に、日本各地の神社に「おすそ分け」をします。
もちろんですが、お伊勢さんのお下がりともなれば競争率が激しく、なかなか回って来ないそうです。
ちなみに、田辺の闘鶏神社の一の鳥居も、お伊勢さんからのお下がりです。

こうして、お伊勢さんで役目を終えた用材は日本各地で再利用されています。

日本では、とっくの昔からこうして自然の恵みをありがたく利用していたのです。
また、神社建築用材の森では植林もされています。
檜皮葺用の桧もこのような森の桧から利用されることが多いです。

SDGsなんて、いまさら世界が何を言っているの?って話です。
むしろ世界が遅れていたのです。

現に、過去に文明があったとされるところはことごとく砂漠になっています。

昔は森だったものが、木を切り尽くした結果砂漠化が起こったのです。

このように、外国では木を一旦切ってしまえば切りっぱなしで植林はしません。
なのではげ山になっています。
このことは、実際に海外の複数のお客様からも同じ話を聞きました。

なので、SDGsなんて、日本からしたら大きなお世話ですよ(笑)
日本ではとっくの昔からやっていることです。

SDGsは単なる利権がらみのプロパガンダです。
これを推進することにより、大儲けを企んでいる勢力があるってだけのことです。

SDGsについては、こちらをご参照ください。
SDGsが世界を破壊する①

伊太祈曽駅

和歌山電鐵貴志川線の駅。
なんとも味わいのある駅舎です。

この日はスーパー駅長よんたまは不在でした。

しかし、たま電車を見ることができました。
・・・これ、タマ電車ですよね?
でもちょっと違うような・・・
たま電車ミュージアムと書かれています。

車内はゴージャス。

あ、私が乗ったのは「うめ星電車」でしたが(笑)
うめ星電車

乗車すると、2両編成の2両目は中学生の遠足の帰りか何かで満員御礼。

かなりの賑わいでした。

いや~、こういう企業努力されているところは応援したくなりますね。

ということで、山中渓~伊太祈曽シリーズがこんなに長くなるとは思っていませんでした(笑)

またこんな形で別のコースについてもご紹介できればと思っています。


【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫

矢田峠

和佐王子跡から一旦県道を横切って矢田峠に向かいます。
相変わらず和佐歴史研究会さんの親切な案内板があるので迷うことはありません。

ずっとアスファルトの道だったので、こういう道が出てくるとホッとします。
・・・すぐに終わりますが(笑)
峠の近くに、ちょっと発見しにくいですが徳本上人名号碑があります。
紀伊路の名号碑は花押が入った「本物」が多いです。

峠で道が分岐しています。
看板は右に曲がるように書いていますが、下の地図のピンクのルート(峠から直進)を通るほうが安全です。
一応、右折が正式なルートのようですが、途中から県道と合流します。
車通りも多いので、ちょっと怖いです。

平緒王子跡

平緒自治会館の前に王子跡があります。
道沿いより少しだけ入ったところにあります。

案内板より

平尾王子とも書かれています。

後鳥羽上皇や、修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や、藤原頼資は、日前宮奉幣使として、日前宮に赴いたため、和佐王子社とこの王子社には参拝していません。

定家は日前宮から奈久智王子に向かい、この王子社には先達が奉幣しています。

僧実意の日記(「熊野詣日記」)、応永三十四年(1427)九月二十二日条によると、足利義満の側室・北野殿は、川辺で垢離を行って身を清め、和佐峠で休憩したのち、山東(和歌山市)に泊まっています。

この王子社は、天正十三年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めで衰退したといわれ、その後再建されて、「平緒王子社」と呼ばれていましたが、明治時代に都麻津比売神社に合祀されました。

いきなり「平尾王子とも書かれています」と書かれています(笑)
何に「平尾王子」と書かれているのか、謎です(笑)
「和佐峠」とは、矢田峠のことでしょうか?
都麻津比売神社はどこにあるのでしょうか?

謎だらけです。

そして、事実しか書かれていない、典型的な「面白くない説明」のお手本とも言える内容です。
それくらいしか書くことがなかったのでしょうか。

秀吉の紀州攻めの標的になったのであれば、当時は相当な力を持ったお社たっだのかもしれません。
そういった当時の様子でも書かれていれば、少しは読み応えもあるのですがね。

山中渓~伊太祈曽⑭へ続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪

川端王子を過ぎると、和佐歴史研究会さんが設置してくれている道標に従って歩きます。
分岐にはほぼ完璧に設置されていたので本当にわかりやすかったです。
導き石は・・・あかん(笑)

旧中筋家住宅

写真に収めようとしましたが、デカすぎて入りません(笑)

説明板より

旧中筋家住宅には、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代末期の和佐組大庄屋ふさわしい屋敷構えを残しています。

嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

旧中筋家住宅は、主屋のほか表門・長屋蔵・北蔵・内蔵・御成門の附属建物が、昭和49年(1974)に国の空用文化財に指定されました。

旧中筋家住宅は、戦後楫本重一(かじもとしげかず)氏の所有となり維持管理されてきましたが、和歌山市が監理団体となり、平成12年(2000)から平成22年まで約10年間にわたって保存修理事業を行ない、平成22年8月から一般公開しています。


中筋家の歴史についてはこちらとご参照ください。
元は根来だったんですね。
中筋家の歴史

料金は、一般100円(高校生以下は無料)、団体(20名以上)は80円。
開館時間は3月~11月までの間の土日祝、9時~16時30分まで(入館は16時まで)
ただし、上記以外の期間でも、5人以上で1ヶ月前までに申し込めば公開してくれるそうです。

和佐王子跡

説明板より

後鳥羽上皇や修明門院の熊野御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、日前宮奉幣使となって、吐前王子から日前宮に赴いたため、和佐王子社や次の平緒(平尾)王子社には参拝していません。

しかし、御幸の一行は熊野古道を通り、和佐王子社に参拝したものと思われます。

江戸時代初期には、二社の和佐王子社跡があり、一社は川端(川端王子)で、他の一社がこの王子社跡です。

紀州藩主徳川頼宣は、寛文年間(1661~72)にこの地を和佐王子跡と定め、緑泥片岩に「和佐王子」の四字を刻んだ碑を建てています。

「紀伊続風土記」には、川端王子を和佐王子と称し、この王子社は坂本にあったことから、「坂本王子」と称すと記されていますが、川端王子を中世の和佐王子とするには無理があります。

この王子社は明治時代の神社合祀で、高積神社に合祀され、今は往時の石碑を残すのみです。

この王子跡の近くに、和佐大八郎墓があります。
田辺の浄恩寺にも和佐大八郎の墓があります。
どっちが本物かは分かりませんが、和佐大八郎は紀州藩士で弓の名人であり、京都の三十三間堂で通し矢日本一の名声を上げた人物です。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬に続きます。


【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩

布施屋駅に入り損ねて再び戻り、少し休憩をしました。
以前歩いた時は改装前でしたが、今回は改装が終わっていましたので非常にキレイでした。
ただし、トイレがあったかどうか、記憶が定かではありません。
改装されてなくなったのかもしれませんが、見当たりませんでした。

川端王子

説明板より

後鳥羽上皇や修明門院の 御幸に随行した藤原定家や藤原頼資は、吐前王子に参ったのち、日前宮の奉幣使として御幸の一行と別れ、日前宮に参拝しています。

その後、両人は和佐・平緒王子に参らずに、奈くち(菜口)王子社に参拝するのですが、川端王子は中世の参詣記には登場しません。
したがって、中世には、この王子社はなかったものと考えられます。

しかし、江戸時代初頭の頃には、二社の和佐王子社があったそうです。
一社は坂本(和佐王子)で、他の一社は元は熊野古道沿いの川端にあったのが、現在地に移されたといわれます。
この王子社が、川端王子と呼ばれるようになったようです。

明治時代に高積神社に合祀されて、建物は取り壊されましたが、地元の人たちがこの小祠を建て、今に残されているのです。

和歌山に入ると、定家のように随行していた人は、一旦「離団」し、日前宮に立ち寄り奉幣をするのがしきたりだったようです。
この時、定家は馬二頭と御幣を奉納しています。

そこで定家は日前宮の宮司の身なりを「浄衣、折烏帽子は甚だ凡なり」と、その粗末さに腹を立てています。

挙句の果てに「遥拝は、御幣をとりて拝舞」しなければならないと言われ、御幣を持って舞を踊らされています。

その御幣を受け取った社司は、黄色い衣冠をつけた神官を中門の中に入れて長い祝詞をあげ始めました。

それが終わると、今度は還祝(かえり)をあげ始めます。

そして、またもや御幣を両手に持たされ、踊らされました。

やっとの思いで日前宮を後にした定家でしたが、今度は路上で待ち受けていた満願寺の僧たちから「日前宮への御幣使は必ずこの寺に立ち寄り、御踊経(ごようきょう)の供物を上げていく」と言われ、寺に連れ込まれてしまいます。

仕方なく定家がお布施を包んで差し出すと、「これでは少ない」と言われる始末。

この僧たちの態度を見た定家は「すこぶる比興(ひきょう)なり」と怒りを顕にしています。
そして、僧たちがご祈祷にかかるのを尻目に、定家は癇癪を起こして寺を飛び出しています。

こういった定家の話、人間臭くて面白くないですか?

今回のお話は、こちらを参考にさせていただきました。

藤原定家の熊野御幸

 

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨

土手の道へ上がり、しばらくは土手を歩きますが、地図ではそこから一旦降りて川辺橋を渡るようになっています。
渡る前にはお地蔵さんが並んでいると書かれています。

確かにお地蔵さんはありましたが、この道も分かりにくかったです。

何とか川辺橋に着き、橋を渡りましたが、この橋が長かったです。

橋を渡れば「布施屋の渡し説明板」と地図には書かれていましたが、発見することができず。

そういえば、以前語り部さんに案内してもらった時に、渡しのことについて聞いたことがありました。

どんな話かは忘れましたが(笑)

吐前(はんざき)王子跡

ここも社殿や石碑などもなく、ただ説明看板があるだけなので写真はありません。

説明看板より

この王子社名は、藤原定家や藤原頼資の日記に見られます。

頼資の承元四年(1210年)の御幸随行の日記は、「修明門院熊野御幸記」と呼ばれます。
それによると、承元四年四月二十四日、修明門院は紀ノ川を、国司が用意した高欄・水引で飾った船で渡り、「在崎」の行宮に着きます。
この在崎は、吐崎(吐前)の書き間違いと思われます。

吐前では、紀ノ川の水で心身を清める水垢離を行い、祓いをして王子社に参拝するのが通例でした。

江戸時代には、この王子社は王子権現と呼ばれ、付近は森に覆われていたようです。

この案内板の北東に、かつて周囲より一段高くなった土地があり、そこに王子権現が祀られていましたが、現在は削平されています。
地元の人は、この土地を「オコードー」と呼んでいます。御幸道、あるいは御幸堂のことかと思われます

普通の説明板では、事実のみを書いたつまらないものが多いですが、この説明板は地元の方々がここをどのように呼んでいたかということまで書かれてあり、珍しく面白いです。

高欄とは、渡り廊下などの両側に設けられた、いわゆる柵のことです。

吐前王子跡からは道標に従って布施屋駅を目指しますが、布施屋駅に入る道が分かりにくかったです。

ここでも、入るべき道を通り過ぎ、そのまま先に川端王子まで来てしまいました。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧

中村王子跡

ここは「王子があったであろう」という場所に看板が立っているだけで、それらしきものは全くなく、現在は畑(田んぼ)になっています。
畑の写真を撮っても仕方ないので写真はなしです。

説明看板より

川辺から神波、楠本にかけて平安時代の終わりごろから鎌倉時代のはじめにかけて盛んにおこなわれた熊野三山への参詣(熊野詣)の道が通っていた。

この参詣道の要所要所には、休憩や熊野三山の遥拝のための施設(王子社)が設けられており、この付近には中村王子社があった。

楠本の古い地名が中村であったと伝えられているために、中村王子社と呼ばれている。

川辺王子社や中村王子社の位置はいくつかの異なった考証があるが、これは熊野参詣の道すじが時代によって多少変わったためと考えられる。

中村王子社の次の王子社は、紀の川を渡って吐前王子社となる。

熊野古道のルートは、時代の変遷とともに微妙に変わっているということは聞いたことがあります。
那智にもそういったルートがあり、今私たちが歩いているルートは、時代が比較的新しいものだと聞きました。
また、この地域も紀の川の氾濫により、ルートが変更されたのではという考証もあるようです。
また、山中のルートではおそらく土砂災害などもあり、変更を余儀なくされたところもあったと思います。
現に、現在通行できない岩神峠なども、現代版「ルート変更」だと思います。

力侍神社

中村王子跡からしばらく歩くと、力侍神社が見えてきます。
いや、お社は道からは見えていないです。
長ーい参道があるからです。

説明看板より

川辺王子跡

熊野参詣道(熊野古道)は、和泉山脈の雄ノ山峠を越えて南下し、紀ノ川に至ります。


今日、平野部の参詣道の道筋は、雄ノ山峠から直線的に当地に至るルート、市内山口から西へ向かい上野に所在する別の川辺王子社跡推定地や楠本の中村王子社跡を経て当地に至るルートなどが伝えられています。

古代以降、紀ノ川は何度も氾濫したため、熊野参詣道のルートも変遷したと考えられています。

ここ力侍神社は、川辺王子跡推定地の一つとして和歌山県指定文化財(史跡)に指定されています。

・・・王子の説明になっていない(笑)

力侍神社本殿・摂社八王子社本殿(和歌山県指定文化財・建造物)

力侍神社は、もとは神波(こうなみ)村(現和歌山市神波)にあったものが、上野村(現和歌山市上野)八王子社境内に移されました。


その後、寛永年間に両社とも当地移されたといわれます。

両社殿は、細やかな彫刻や鮮やかな彩色など桃山期(16世紀後半)の建築様式を備えた、一間社流造(いっけんしゃながれづくり)で、近世初期(17世紀前半頃)の建立当初の姿をよく伝えており、和歌山県県下における貴重な神社建築として、和歌山県指定文化財(建造物)に指定されています。

和歌山県神社庁には、八王子社が川辺王子だと記されています。
力侍神社

ここにトイレとベンチがあります。
ベンチですが、中央が割れていてちょっと座りにくかったです(笑)

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩に続きます。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦

山口神社からは粉河加太線に出て、しばらくは車がバンバン通る道を歩きます。
それから道標に従って細い道に入りますが、これが迷路のようで分かりにくかった・・・。

川辺(かわなべ)王子

説明看板より

藤原定家の日記、建仁元年(1201年)十月八日条に「川辺王子」、藤原頼資の日記、承元四年(1210年)四月二十四日条に「四橋」の王子が見られます。

四橋王子という名は、和泉国と紀伊国の境にあった堺橋から数えて、四番目の橋付近にあったことから、名付けられたのでしょう。

山口王子が三橋王子といわれたのも、このためだと思われます。

この王子は、「紀伊続風土記」によると、いつのころからか、八王子社と呼ばれるようになり、江戸時代には川辺村(和歌山市川辺)の力侍神社境内に遷座したとあります。

当地に残った旧八王子社を川辺王子跡と考証したのは、「和歌山県聖蹟」ですが、参詣道が不自然に迂回するため、川辺王子社は川辺村薬師堂付近にあったとする説もあります。

説明板にもあるように、参詣道が不自然に迂回しています。
ただ、説明板にある薬師堂がどこにあるのかはわかりませんが。

ここから中村王子社跡までの道で、ガッツリ迷いました。

分岐には基本的に導き石が埋めているのですが、中にはそれがないところもあり、そのまま真っすぐ進んでは間違っていることに気づいて戻るというのを繰り返しながら歩きました。
また、道路に埋めているので見落としがちです。
ずっと下を見て歩いているわけではありませんので。

地図には書いていませんが、シュロの木を植えている民家へは、一旦大きな道を横切らないといけません。
とにかく迷いに迷いました。

そんなこんなで、ようやく中村王子跡にたどり着きました。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥

中山王子からは再び踏切を渡って車道を歩きます。
しばらく歩くと何やら案内看板のようなものが見えてきました。
「お、これは分かりやすいな」と思ったのもつかの間・・・

こんな看板、警察以外必要か?(笑)
熊野古道の看板を立てておけよ(笑)

峠の不動明王

しばらくは阪和自動車道に沿ってダラダラと上りがありますが、その頂上付近に峠の不動明王があります。
道中安全のお地蔵さんは多いですが、不動明王って、ちょっと変わってますね。

山口王子

すみません、ここでは地元の小学生の遠足があったようでワチャワチャになっていたので写真を撮ることができませんでした(笑)
また行く機会があれば確認してアップします。
山口王子へは、車道から道標に沿って細い道を左に入ります。
何も考えずに歩くと見落とす可能性がありますのでご注意を。

山口神社

1つ目の「山口神社近道」と書かれた看板をやり過ごすと、2つ目の看板が現れます。
この看板に従って右に入ります。

その看板の後ろ、墓地の中に道標があります。

道標には

右 加太淡島神社道 
左 和歌山及紀三井寺?(草が邪魔でで読めない)

と書かれているようです。

しばらく道なりに歩くと右手に鳥居が現れます。
長い参道を歩いて境内に到着。
素晴らしいお社でした。

創建は定かではありませんが、おそらく平安初期には建てられたものだろうとされています。
秀吉の紀州攻めに遭い、宝物や書物のほとんどが焼けてしまったようです。

主祭神は伊久津比売命(いくつひめのみとこ)
すみません、結構神様の名前は知っているつもりでしたが、この神様がどのような神様なのかはわかりません。

山口神社については、こちらをご参照ください。
山口神社 和歌山県神社庁

山口神社を出ようと参道を歩いていると、先ほどの子どもたちと再び会いました。
ちゃんと挨拶をしてくれて可愛かったです。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧へ続く


【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤

中山王子

しばらく道なりに進み、踏切を渡ったところに中山王子跡があります。

説明看板より

かつて、京都から熊野三山までの熊野参詣道に、八十余ヶ所の王子社が祀られていました。

王子社というのは、俗に「熊野九十九王子」といわれる熊野権現の御子神を祀る社のことです。

中山王子は紀伊国に入って最初の王子社で、藤原定家の日記、建仁元年(1201年)十月八日条に、その名が見られます。

また、この付近は「雄の山中」といわれたところから、藤原頼資(よりすけ)の日記では「山中王子」と書かれ、承元4年(1210年)四月二十四日条に、修明門院が山中王子に参詣し、峠で雄山の人たちや無縁者等に、帷(かたびら)五、六十両ほどを、ふるまったと記されています。

江戸時代には、道沿いに、周囲三十六間の境内があり、王子権現社が祀られていたようですが、明治時代に春日神社に合祀され、旧跡も鉄道の敷設によって無くなりました。

また、「葛城第四番・入江之宿滝畑行処」という看板もあります。

1.葛木第四番経塚
   境谷村入口の桜地蔵経塚
   山中渓関所跡の経塚
2.中山権現
   滝畑村入口の中山王子(跡)
3.音無しの滝(不動の滝)
   滝崖面に不動丸カンマン字有り
   滝崖右上に八大龍王石祠有り
4.春日神社
   右 丹生明神
   主 春日大神
   左 熊野権現
5.金剛童子(南谷池)

葛木修験第四の宿「入江の宿」は、紀泉の国境で、祓い橋で身を清めて入峰の規則
葛木修験では極めて重要な位置です。
ありがたや菩提の入江にたどりきて
来しかた思いて心あらたに

宝照院鉄山 記

とあります。

カンマンとは、不動明王など各尊を一字で表した梵字のことをいうそうです。

入江宿滝畑の金剛童子についての説明もあります。

日本遺産葛木修験行所 葛木之峯西北位結界 

入江宿滝畑の金剛童子 

昔、役行者は葛木二十八宿の霊場を不動堅固に保つために葛木の八方位に各金剛童子を配し結界しました。

役行者が大峰山上ヶ岳で三世救済の金剛蔵王権現をご感得になられた際にその湧出岩から続いて十五体の金剛童子が出現になりました。

行者は葛木大峰の全霊域の清浄を保ち乱れぬように両峰にこの金剛童子を配置し両峰に結界を張られたのです。

大峰に八大金剛童子を、葛木には七大金剛童子を配して結界しました。

更には両峰の護法善神として大峰に八大龍王、葛木には七大竜王を勧請しました。

この葛木第三入江宿の滝畑には宿着童子が配祀され西北位に入り江を結界しています。
この故にこの峯域を入江の宿と称します。

さて、この金剛童子(宿着童子)は村置くのこの南谷池に鎮座します。
悠久の激動苦難の時代を超えてこの葛木一円を村落を諸悪鬼から堅固に守護しています。

宝照院鉄山 記

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦へ続く