【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅④

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【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅③

髪長姫と道成寺

吉田八幡神社の下に、髪長姫の物語を書いた看板がありました。

7世紀後半、九海士の里で誕生した宮子には大きくなっても髪が生えませんでした。

ある年、九海士の里は不漁。不漁の原因は海底から射す不思議な光でした。

宮子の母・渚は「娘に髪が生えないのは前世の報い。私が罪滅ぼしをすれば・・・」と自ら犠牲となって里人を救おうと海に飛び込みました。
海中に深く潜り、光り輝いているものを確かめると、それは小さな黄金の観音様でした。

渚は海中から観音様を拾い上げると庵に大切に祀りました。

光が消えた海では大漁続きとなりました。里人たちは渚を限りなく尊敬しましたが、渚は手柄を誇ることもなく謙虚に里人のため礼拝を続けました。

ある夜、渚に観音様が現れます。夢の中で髪の生えないかわいそうな娘のことを訴えました。
夢から覚めると宮子に美しい髪が生えており、宮子の父・早鷹と渚は大変喜び、観音様のおかげと大変感謝しました。

年頃になると髪ものび、とても美しい黒髪であったので「髪長姫」と呼ばれるようになりました。

ある日宮子の美しい黒髪をツバメがくわえ、奈良の都の当時勢力を誇っていた藤原不比等の宮殿まで運びました。
不比等はその美しい髪を見て「この髪の持ち主を宮仕えに迎えよう」と養女に迎えるのでした。

藤原不比等の養女となった宮子は、文武天皇の御后となり、奈良の東大寺を建立した聖武天皇をお産みになりました。

宮子は奈良に行っても故郷の九海士の里を忘れられず、特に庵に残してきた観音様気になり悩んでいました。
その悩みはやがて天皇のお耳に達し、「宮子に長く美しい髪を与えた観音様を祀るお寺を造立せよ」との勅命により、道成寺が建立されたと言われています。

本当にツバメが髪をくわえて行ったのかかどうかは分かりませんが、神社仏閣の由緒って、どこまでが本当でどこまでが「盛られた」話なのか分からないところがまた面白いと思います。

弘法大師が唐から三鈷杵を投げたとか(笑)
3つの月が降りてきたとか。
熊野の神々が岩に降りたとか。

熊野権現垂迹縁起の記述は、個人的に嘘だと思っていますがね。

道成寺

お参りしたあと、住職さんの道成寺と安珍清姫のお話を聞きました。

道成寺の説明では真面目?にされていましたが、安珍清姫の絵解き説法は冗談を交えて非常に面白かったです。
ちょっと綾小路きみまろのように、聴衆をちょっとイジるという印象でした。

今回お話いただいた方は、英語でも説法ができるそうなので、外国人をお連れすれば喜んでくれると思います。

安珍清姫のお話は、元になったお話がありますが、そのご紹介はまたの機会に。

要約版はこちらをご参考にされてください。
安珍と清姫の物語

和歌山県の地図には、「蛇塚」と書かれていたので行ってみましたが、特に説明看板もなく、これが何なのかはよく分かりません。

【熊野古道紀伊路】紀伊内原駅~西御坊駅④に続きます。

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅③

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【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①
【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②

吉田八幡神社

ご祭神は八幡大神、神功皇后、高良神(こうらかみ)

八幡大神はまたの名を「誉田別命(ほんだわけのみこと)」といい、後の「応神天皇」を指します。
神功皇后は「息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)」であり、誉田別命のお母さんです。
この神功皇后が三韓征伐をしますが、この時すでに神功皇后は誉田別命を身ごもっており、出産を遅らせるために腹にさらしを巻いて三韓征伐に向かったという、とても強いお方です。

・・・今であれば「女性に何てことをさせるのだ!」と、フェミニストが怒って来そうですが(笑)

高良神とは「武内宿禰命(たけのうちのすくねのみこと)」であり、景行天皇から仁徳天皇までの4代に渡り仕えた臣下です。
神功皇后ともゆかりの深いお方で、和歌山生まれです。
よく和歌山県内の神社を参拝すると、武内宿禰さんをお祀りしている神社が多いことに気づくと思います。

ちなみに、「宿禰」とは称名(たたえな)です。

説明板より

鎮座地は昔より「やはた山」と呼ばれ、八幡大神とは特に縁が深く、その周辺に「九海士(くあま)の里、九艘谷(くそうだに)」と言う地名が残っており、「九艘谷」は入江となっていたと言われ、神功皇后が三韓征伐の帰途の折、この地に行宮所を設け、しばし、この地に留まられた。
この地を出立するに当り、9人の供の者に船1艘ずつ与えて帰宮された。
留まった9人の供の者は、その舟で漁業に努め、農耕に精出し、行宮の聖地に八幡大神をお祀りしたと伝えられています。

天智天皇の時代(670年頃)、九海士の里のむら長「早鷹」という者が、子供が無いのを憂い、八幡大神に祈願の末、「宮子姫(髪長姫とも呼ぶ)」を授かり、姫は文武天皇の御側としてお仕えしたと伝えられています。

当神社の向かいに文武天皇の勅願寺である「道成寺」が建立(701年)されて栄えたが、神社は荒廃しました。

その後、改めて石清水八幡宮より勧請し、東吉田政所某なる住宅の西に一時奉斎、(現在の藤田小学校西約200m付近)、後に八幡山の現在地に遷したと言われています。

境内地に神宮寺の真言宗浄国寺が建立されたが延宝3年(1675年)に道成寺の末寺となり、龍宮山雲性寺に改称しましたが、明治3年頃焼失しました。

八幡山北麓に上阿田木神社より勧請された「愛徳山王子社」も鎮座していましたが、その後荒廃し、現在はその跡を留めていません。

明治6年村社となり、明治41年に氏子地域内の小社が合祀されました。

秋の例大祭は、「やはたの朝馬」の行事が催されて賑わったが、昭和初頭より馬が少なくなり、馬駈けは途絶えた。
その後、平成12年に氏子総意に依り、例祭日の神賑(かみにぎわい)行事は形を変えて復活しました。

なお、琴平神社の例祭3月10日に執り行われ、氏子、崇敬者より餅米の奉納があり、「1畳に延ばした厄除餅の餅撒行事」も行われています。

「行宮」とは、「あんぐう」または「かりみや」とも呼ばれ、一時的に建設された施設のことをいいます。

「勅願寺(ちょくがんじ)」とは、時の天皇が国家鎮護や皇室の繁栄を祈願して建立または指定したお寺のことです。
和歌山県には、道成寺の他に青岸渡寺や長保寺(ちょうほうじ)があります。

「神宮寺」とは、神仏習合の思想の元に建てられた神社に付属するお寺のことで、僧が仏式で神社の祭祀をするための施設といえばいいのでしょうか。
「神仏習合」というと、平安時代のイメージがありますが、神宮寺の建立が始まったのは奈良時代、つまり仏教公伝からのようです。

ちなみに、昔は「仏教伝来」と呼ばれていましたが、今は538年(または552年)に百済から公式に伝えられた年を「仏教公伝」と読んで区別しています。
日本は海洋国家であり、海洋民族でもありました。
人々は優れた航海技術をもって、様々な国と交易をしていました。
その中で、「公伝」以前に私的に仏教が入っていたので、それと区別をしています。
那智でも、インドの裸形上人が那智の浜に漂着したとされているのは317年です。
「公伝」よりもずっと昔のことです。

仏教公伝の真相については、こちらをご参照ください。
日本文化はChinaやKoreaからの渡来ではない

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅④へ続きます。

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②

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【紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①

善童子王子

富安壮の産土神で田藤次王子ともいう。

「中右記」に大般経六百巻を蔵すると記され大社と伝える。

秀吉の紀州攻め後衰微し明治末年湯川神社に合祀された。

定家がここを訪れた時には規模の大きなお社だったようですが、今は小さな祠が建っているだけです。

秀吉の紀州攻めは熊野古道沿いにも話が残っていて、潮見峠や上富田の山本氏、近露の野長瀬氏などとも激しい戦が繰り広げられました。

一方で、信長の焼き討ちにあった青岸渡寺は秀吉が復興しています。

愛徳山(あいとくさん)王子跡

少し見にくいですが、この王子に行くためには「コースアウト」をする必要があります。
ここを訪れた後、来た道を戻ってもいいですが、そのまま進めば古道に合流するようです。
「ようです」というのは、私もそこを歩いたことがないからですが、古道沿いにその出口があり、そこに愛徳山王子への看板がありますので。

本王子は、旧川上村阿田木神社より勧請されたと伝え、御幸記に次又愛徳山王子と初めて名が見える。

また、藤原定家の明月記に盛範が当社を修造した功によって賞せられた事が記され、鎌倉時代かなり重要な社であったようである。

ここに見える「川上村」とは、現・日高川町の東部の日高川流域と初湯川(うぶゆかわ)の流域にあります。
地理的に言うと両所はかなり離れています。
そこに「上阿田木神社(かみあたぎじんじゃ)」が鎮座しています。

上阿田木神社 拝殿
境内

上阿田木神社のご祭神は熊野権現であり、主祭神は伊弉冉尊(いざなみのみこと)です。
創建は非常に古く、西暦928年にまで遡ります。
説明板には「御幸記に愛徳山王子と初めて名が見える」とあります。
「御幸記」とは、藤原定家の「熊野御幸記」を指しているのでしょう。
藤原定家が熊野に来たのが1210年。
上阿田木神社の創建は928年なので、愛徳山王子がいつ勧請されたかは分かりませんが、時代考証としても合っています。

この王子名の「愛徳山」とは、初湯川にある「愛徳山」という地名から来ているのでしょう。

「愛徳山」はもともと「あたぎやま」と呼ばれていたようで、上阿田木神社の創建について書かれている「愛徳山熊野権現縁起」には愛徳山を「あたぎやま」と読んでいます。
また、昔は「上愛徳六所権現(かみあたぎろくしょごんげん)」と呼ばれていたそうです。
上阿田木神社

両所を繋いだもの

この両所がなぜ繋がっていたのか?ということですが、一番大きな要因は「川」だと思います。

和歌山県の飛び地・北山村は、新宮市と林業で非常に強いつながりを持っていました。
その要因が当時の交通手段である熊野川でした。

北山村の住民は材木の筏を組んでそれを操って新宮市まで運び、新宮市に到着するとそれを解体して木材業者に納入し、筏を操った「筏師」は「筏師の道」を通って北山村まで徒歩で帰っていました。

この新宮市が、廃藩置県の時に和歌山県に編入されたため、北山村の住民は「新宮が和歌山県に入ったのなら私たちも」とということになり、和歌山県に編入されたという経緯があります。
北山村観光サイト

日高川流域でも北山村と同じように、林業で御坊市とのつながりがあったそうです。
日高川ガイド

そういった経緯から、こんな離れた所に愛徳山王子が勧請されたと思えば、何ら不思議なことではありません。


【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅①

いよいよ紀伊路も御坊に入ります。

紀伊内原駅を出発してからは、しばらくは「これ」といったものがありませんが、のどかな田園風景と住宅街を通ります。
けっこうこの風景がツボだったりします。

道中に「弁財天山古墳」の案内看板があったので、すこしコースアウトしますが立ち寄りました。

けっこう大きな池のほとりを歩いて行きます。

これが古墳。

説明板より

石室部の内部構造は完存している。石室の奥壁の下部に密着して、緑泥片岩の石棺二組があり、一組から刀剣の腐食したもの(を)発見した。

この棺は男性を葬ったものと考えられる。出土品には、坩、蓋坏、壷、提瓶、楯形、埴輪等数多くあった。

頼む、漢字によみがなを振っておいてくれ(笑)

「坩」は「かん」とも読みますが、ここでは「つぼ」ですね。
壷でも土で出来た壷のようです。
しかし、この説明板には「壷」の文字も見られるため、この違いが何なのかは分かりません。

「蓋坏」は「ふたつき」で、このようなものです。
蓋坏

「提瓶」は「ていへい」とか「さげべ」と呼ばれ、いわゆる水筒のことのようです。
提瓶

「楯形」はそのまま「たてがた」と読みますが、おそらくは「楯形埴輪」のことかと思います。
楯形

この説明板の説明を読んで「ふむふむ」と分かる人っていったいどれくらいいるのか?

緑泥片岩は中央構造線の南側で採れるため、この付近では採れないのでは?
だとすれば、遠い和歌山市付近からわざわざ持ってきたと考えられるため、やはりここに鎮まっておられる方というのは、当時相当力のあったお方っだったんでしょうね。

【熊野古道紀伊路】紀伊宮原駅~西御坊駅②に続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑥-②

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅

すみません、梅の収穫がピークに差し掛かり、人手も少ないこともあってなかなかの重労働です。
昨日はさすがに疲れ切ってしまい、早くに寝てしまいました。

気を取り直して昨日の続きを。

内ノ畑王子でのしきたりは、他の王子と違って変わっていますね。

ちなみに、この王子には「ツチ金剛童子」が祀られているそうですが、熊野古道はもともと修験者が開いた道であり、大峯奥駈道のスタイルを踏襲しています。

古道沿いの「王子」も、奥駈道の「靡(なびき)」と同じような役割があります。
奥駈には75ヵ所の靡がありますが、そこでは読経などの習慣を踏襲しているようです。

王子でも、上皇・法皇が読経や里神楽、和歌会、相撲などをして熊野三山を目指しました。

王子の名前の由来ははっきりしていませんが、修験者が祀る神(仏)を「童子」と言い、その「童子」が転訛して「王子」となったとい説があります。

内ノ畑王子への道ですが、これまで進んで来た道から右折をして「なめら橋」を渡り、その先の分岐を左に進みますので迷わないように注意してください。

高家(たいえ)王子

説明板より

天仁ニ年(1109)に熊野参詣をした藤原宗忠は、十月十九日に大家(たいえ)王子社に参詣しています。

それからおよそ百年後の、承元四年(1210)、後鳥羽上皇の後宮・修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資の、四月二十六日に高家王子社に参拝しています。

この王子は、江戸時代には若一王子社と称され、萩原村東光寺の地にあったことから、東光寺王子ともいわれています。

境内には「長床」という僧の修行場、ないし宿泊施設が設けられており、法華寺という別当寺があったようですが、東光寺との関係は明らかではありません。

明治時代に王子神社と改称されました。

本殿は、明治二十一年に暴風雨で倒壊したため、二年後に再建されています。

神社名は、大蔵省管財局の指示で、村の名称を使用して、昭和二十八年に内原王子神社となりました。

なお、旧社地は現在の地よりも北にあったと推定されていますが、詳細は不明です。

神社として現存しているため、非常に管理が行き届いていてキレイでした。
また、社殿には祭りの様子の写真(主に巫女さん)が飾られており、地域との深いつながりを感じることができます。

この神社、明治41年に30の周辺の神社を合祀しています。
主祭神の「皇大神」とは、天照大御神のことを指します。
内原王子神社
伊勢の内宮の御正宮は「天照皇大神宮」と呼ばれています。

愛子の渕由緒

説明板より

ここより南五十米に「愛子の渕」がある。

江戸時代、この近くの豪族、秦政助の一子亀千代は生まれつき目が見えず、なげき、円応寺(現在廃寺)の観音様に願掛けしたが、その効もなく、前途を悲しみ渕に身投げした。

政助は悲しみ、村人の慰める言葉もなかった。

ところが、不思議と亀千代の体は温味が戻りやがて口を開き「今、地獄へ落ちるところを観音様のお救いで助かった。」と言った一同はその神秘に呆然とし、喜んだ。

この事があってから、この渕を「愛子の渕」と呼ぶようになったと言う。

初めてこの説明を読んだ時「?」となりました。

ここで登場する「愛子」とは、子どもの名前ではなく「愛弟子」などの「愛」のことをいうのでしょう。
そうしないと、なぜ身投げした「亀千代」が「愛子」になったのかの説明ができません。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑥

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤

内ノ畑王子跡

説明板より

建仁元年(1201)十月十日、鹿瀬山を越えた藤原定家たちは、木の枝を伐って槌を造り、榊の枝に付けて「内ノハタノ王子」に持ち寄り、そこに結び付けたのです。

建宝五年(1217)、後鳥羽上皇と修明門院の熊野御幸に随行した藤原頼資たちも、十月五日に、同じように槌を造り、王子前で「徳あり、徳あり」と声高に言い、弱く貧しい人たちにそれを与えています。

祀られている「ツチ金剛童子」にちなんで槌を造り、現世の利益を願ったのでしょう。

こうした風習から、この王子社は「槌の王子」ともいわれ、応永三十四年(1427)九月二十四日、足利義満の側室、北野殿の先達をつとめた僧実意たちも、風習に従って同様のことを行っています。

江戸時代には、隣接地のこの地に移転して、「槌王子社」として祀られ、明治時代に槌王子神社となりましたが、神社合祀で、新熊野神社に合祀され、その後、内原王子神社に合祀されました。

・・・すみません、文章を打ちながら眠ってしまっていました。

続きはまた明日に。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③
【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④

原谷皇太神社

「皇太神社」と呼ぶからには、主祭神はやはり天照大御神です。
創建は、棟札が火災で焼けているので分からないようですが、1678年の記録が一番古いということらしいです。
原谷皇太神社

ちなみに、天照大御神は女性ということが通説(?)になっていますが、ホツマツタヱでは男性として描かれています。
古事記・日本書紀の天照大御神は、時に姉(妹)のワカヒメとすり替わっている記述があります。
スサノオが天照大御神に会いに行き、天照大御神がそれを見て武装をし、スサノオと誓約(うけい)を交わす下りの箇所です。

ホツマツタヱを読む限り、天照大御神は男性としてでなければ辻褄が合わなくなる上に、その方が自然です。

このお社、キレイに管理されていて、地元の方々の信仰の深さを感じることができました。

西の馬留王子跡

説明板より

天仁ニ年(1109)十月十八日、熊野参詣途中の藤原宗忠は、険阻な鹿瀬山を越えたのち、馬留の仮屋に泊まっています。

ここ馬留は、この地で馬に飼い葉を与えたり、休息させるための施設だったのでしょう。

ところが、十三世紀初頭の熊野御幸に随行したあ藤原定家や、藤原資の日記などに、この王子は記載されておらず、当時ここに王子社があった形跡はありません。

王子の名が見られるのは、江戸時代になってからです。

「熊野道中記」に「馬留王子」とあって、「間(はざま)王子」ともいうと、書かれています。

「紀伊続風土記」によると、この王子の境内は周囲が六十間あったそうです。

馬留王子跡は鹿瀬山の北と南のニヵ所にありますが、共に熊野御幸時代に見られない王子で、それ以降に王子社が建立されたことを示しています。

この王子社は明治時代に馬留王子神社となりましたが、原谷皇太神社に合祀されました。

もう一つ、説明板があります。

熊野九十九王子社の一つである。

場所はこの上の畑中(下岡362番地)にあった。

参詣を終えて帰路についた貴顕の行列は険しい鹿ヶ瀬峠を越すため、この地で馬を留めたという。

沓掛王子と内ノ畑王子の間であるので間王子社ともいう。

なぜ「沓掛王子」と「内ノ畑王子」の間だけを捉えて言うんでしょうね?
そんなことをいうと、ほぼどの王子も「間王子」となるわけですよね?
この先の高家王子と西の馬留王子の間にある内ノ畑王子も「間王子」と呼べます(笑)

ちょっと説得力に欠けますね。

この先に「雨司神社説明板」がありますが、現在は入ることができず、説明板を読むことができませんでした。

先ほどの和歌山県神社庁の説明によると、どうやら明治40年に、原谷皇太神社に合祀されたようです。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅④

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沓掛王子跡

このあたりからは、旧道に入ったり、県道に出たりしながら歩きます。
だいたい道標が立っていますが、中には老朽化で倒れているものもあるので、怪しい分岐が出てきたら地図を確認しなかがら歩くといいです。

案内板より

藤原定家は、建仁元年(1201年)十月十日、「ツノセ王子」に参拝したのち、「シシノセ」(鹿瀬)ノ山をよじ登り、この山を越えて「沓カケ王子」、次いで「内ノハタノ王子」に参拝しています。

また、藤原頼資は承元四年(1210)四月二十六日に、角瀬王子から鹿瀬山に入り、山中・内匠(たくみ)王子の参拝しています。

このことから、熊野御幸の盛時には、「沓カケ王子」とも、「山中王子」ともいわれていたことがわかります。

沓掛王子と呼ばれたのは、険阻(けんそ)な鹿瀬峠を越え、人々は、いたんだ藁沓(わらぐつ)をはきかえたり、牛馬にも沓をはきかえたりしたことによると思われます。

この王子社は、古くは「原谷字新出王子谷」にありましたが、のちの衰退したようです。

江戸時代には、ここ披喜(ひき)の地に「鍵掛王子」といわれる王子社が、弁財天社と共に建っており、この王子社を「紀伊続風土記」では沓掛王子に比定しています。

鍵掛王子は、明治時代に鍵掛王子神社になりましたが、明治十年に原谷皇太神社に合祀されました。

「熊野道中記」には、鹿ヶ瀬峠を越える手前の王子のことを「沓掛王子」と言い、峠を越えたここでも「沓掛王子」または「山中王子」と言い、さらには「鍵掛王子」と呼ばれるなど、たくさんの呼び名があり、混乱します。

そして、もう一つ、沓掛王子の説明看板があります。

昭和四十八年六月九日指定 熊野九十九王子社の一つである、建仁元年(1201年)の「御幸記」にでている沓掛王子社は王子谷にあったが、後世この地に移された。

現在、弁財天社が祀られている。

いたって簡素(笑)

爪かき地蔵

説明板より

弘法大師がこの地に巡錫(じゅんしゃく)したとき、土地の人の無事息災を祈願して岩に爪で地蔵尊を刻んだと伝えられている。

現在、地蔵尊のお姿は見られないが、水をかけると浮かび出てくるから水かけ地蔵ともいう。

信仰心のない人はいくら水をかけても地蔵尊のお姿を拝むことが出来ない。

また、東隣、宅地内に弘法井戸がある。

「巡錫」とは、僧が錫杖(しゃくじょう)を持って巡業するところから来た言葉で、各地を巡り歩いて教えを広めることを言います。

しかし、弘法大師にまつわる話が各地に残されていますが、実際に本当に弘法大師ゆかりの史跡ってどれくらいなんでしょうね?
けっこう後付けで創作された話が大半のような気がします。

お坊さんって、爪で何かを彫るお力をお持ちのようで、一遍上人も爪で梵字を刻んだとされる岩が湯の峰温泉にあります。

まあ、爪で岩に何かを彫るなんて普通に考えてもできるわけがなく、だれも信じないでしょうけど(笑)

はっ!わたしは絶対にこのお地蔵さんは見れないわ(笑)

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅⑤に続きます。

【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅③

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汗かき地蔵(地蔵寺)

説明板より

地蔵寺は熊野参詣道最大の難所、鹿ヶ瀬峠の麓にあり、本尊は寺号の示すとおり地蔵菩薩であります。

地蔵菩薩は桧材を使った寄木造の立像で、像高は161.8cm
台座には一重の蓮華座が用いられています。

地蔵菩薩の表面仕上げには、体の部分は漆下地を施し、着衣は素地として古色を施しています。

また、作風から制作時期は鎌倉時代(13世紀半ば頃)と推定されます。

地蔵菩薩は「汗かき地蔵」と呼ばれ、鹿ヶ瀬峠を越える旅人が弱ると背中を押して助けたので額に汗をかいているのだという、ゆかしい伝承が残っています。

地蔵寺が熊野古道に面していることや「汗かき地蔵」の言い伝えから熊野参詣の道中を守る神仏として旅人から信仰されていたことも想起されます。

寄木造(よせぎづくり)とは、いくつかの木材を組み合わせてつくる工法をいいます。
対して、一木造(いちぼくづくり)は文字通り、一本の木からつくりますが、そのためには相当大きな木が必要です。
寄木造とは
上記リンクの説明の最後に、「寄木造の基礎は、奈良時代の乾漆像に用いられた木心(もくしん)制作の技法が発展したものとも、中国の造像技術から得たものともいわれるが、日本の寄木技術は中国でさえ及ばないような極度の発達を遂げている」と書かれていますが、中国の造像技術から来たものではないと思います。
今でも、ハイブリッド車をつくることすらできない国ですから。
何でもかんでも中国から伝わったという考えは、やめたほうがいいです。

古色とは、人工的に古く見せる塗装の技法です。
古色仕上げ

高野山にも「汗かき地蔵」がありますね。
人間の苦しみや悲しみを一手に引き受けてくれると信じられていて、人々を救済するために奔走し汗をかいているように見えることから名づけられたそうです。

お地蔵さんは世のため人のために奔走していて、忙しいんです(笑)

東の馬留王子

河瀬(ごのせ)王子からほどなく歩くと、東の馬留王子跡に到着します。
河瀬王子から0.7km。
・・・ちょっと王子間の距離が短すぎるように思いますが。

「東の馬留」があるなら、「西の馬留」もあると思われた方、鋭いです。

鹿ヶ瀬峠を越えた後に西の馬留王子が登場します。

説明板より

この王子社を過ぎて南にしばらく行くと山道となり、熊野参詣道の難所、鹿ヶ瀬峠があります。

熊野御幸が盛んなころ、上皇や女院、貴族たちは、この峠を越えて熊野に参詣しました。

しかし、御幸時代の王子社を克明に記録した藤原定家や藤原頼資の日記には、馬留王子の記載がなく、それよりも新しい王子社と考えられます。

江戸時代に書かれた若山(和歌山市)から熊野までの道案内書、「熊野道中記」には、津の瀬王子の次に、沓掛王子、次に鹿瀬山が載せられており、この王子は沓掛王子と呼ばれていたことが知られます。

ところが、「紀伊続風土記」では、この王子を沓掛王子というのは誤りだとして、馬留王子社と書いています。

以降、この王子社は馬留王子社といわれ、明治時代には、馬留王子神社となりましたが、神社合祀で、津木八幡神社に合祀されました。

なぜ突然「馬留王子」という呼び名が出てきたのか、謎です。
先ほども書いたように、河瀬王子からの距離が短すぎます。
鹿ヶ瀬峠を越えたところにも「馬留」があることから、おそらく、峠をはさんだ両側のふもとに、荷物を運ぶための馬を常備していたのでしょう。
それを「王子」と誤認?したのではないかと思います。

鹿ヶ瀬峠

東の馬留王子を過ぎると、いよいよ紀伊路最大の難所・鹿ヶ瀬峠です。
約2.2km、ゆっくり登って1時間くらいはかかると思います。

藤原定家らがここを歩いた時は、もちろん舗装などされているわけがなく、まさに「崔嵬険阻(さいかいけんそ)」だったでしょうね。

今は舗装されているので、思ったほどキツいとは感じませんでした。
ただし、急坂はあります。
鹿ヶ瀬峠の頂上(「峠」っていうんですよね)を「大峠」と呼んでいます。

大峠の説明板より

広川町における熊野古道は、湯浅町より広川町に沿って民家やみかん畑の間を進み、井関・河瀬地区に入り鹿ヶ瀬峠を越え日高町に至ります。

道沿いには、道中の安全を祈願した王子社が数か所あるが、現在は河瀬王子のみその跡を留めています。

また、井関・河瀬地区は宿場町としての要衝の地であったといわれ、今もその当時の屋号で呼称される民家も数多くあります。

鹿ヶ瀬峠は熊野路の難所の一つであり、大峠(この地)は当時、茶屋・旅籠があり賑わいを見せていました。

周辺には養源寺の草創と伝えられる法華壇や南北朝の争いを伝える鹿ヶ瀬城跡もあります。

説明板にもあるように、峠を下りきったところには養源寺の前身である「鹿ヶ瀬法華寺」があったようです。
後に、徳川吉宗公より、頼宣公の御殿跡地を寄進され、そこに移転されて「養源寺」と改称されたとのことです。
養源寺

私が歩いた時は、鹿ヶ瀬峠にはナルトサワギクが満開でした。
ナルトサワギクは外来種で、1976年に徳島で初めて確認されてから、あっという間に西日本に広がりました。

熊野古道最長の石畳

大峠からはしばらく未舗装の道を下り、小峠に至ります。
小峠からは、熊野古道最長(503m)の石畳を下ります。
・・・雨の日は歩きたくないなぁ。

金魚茶屋跡

説明板より

「紀伊国名所図会」にも載せられているように、ここには江戸時代の宿場であり、往来の旅人から金魚茶屋として親しまれ、鹿ヶ瀬山から流れ出る清流を筧で引き、金魚を飼って旅人の旅情を慰めていたことから、この名がついたといわれている。

この説明を読点で区切ることなく、一文で仕留めていることに感服(笑)

「金魚茶屋」って、いい響きですね。

よほど金魚が目立っていたのか、それとも金魚くらいしか目玉がなかったのかは分かりません(笑)

江戸時代って、金魚は結構珍しかったのかもしれませんね。
なので、わたしは前者を支持します(笑)

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅②

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【紀伊路】湯浅駅~紀伊内原駅①

徳本上人名号碑(道標)

河瀬橋(ごのせばし)を渡ると、徳本上人名号碑が建っています。

説明看板より

道標を兼ねた供養塔

この供養塔は天保八年(1837年、大塩平八郎の乱のあった年)の飢饉による多数の飢餓者の七回忌供養のため、天保十四年(1843年)にふじたき(藤滝)念仏堂の発願により建てられ、以来明治の頃まで板橋(流れ橋)の渡りづめにあった。

明治に入って木造の永久橋が今の位置に出来てここに移転したが、後に近くの地蔵寺の門前に安置した。

それから百有余年を過ぎた平成十四年(2002年)再び元の位置に戻してお祀りすることにした。

正面のお名号は徳本上人の字体による。又、台石には世話人の名前もある。

石柱及び台石には次のように書かれている。

右面 是ヨリ
左リ紀三井寺道
六里八丁

上津木 中村
ふじたき
念仏堂
建之

正面 右く満み道
南無阿弥陀佛
左むろご道
酉年以来餓死亡霊
七回忌 為 菩提
徳本 花押
三界萬霊有無両縁
乃至法界平等利益
某 敬白
左面   いせ
右     みち
  かうや
年来之志願
      建立
十万以信施
      霊應
維時天保十四卯晩秋

台石には世話人の名前とその地域が列挙されていますが、省略(笑)

徳本上人名号碑と道標の組み合わせは珍しいのではないでしょうか?

河瀬王子跡

説明板のあるように、昔社殿があったであろう石垣が残っています。

説明板より

藤原定家は「明月記」によると、建仁元年(1201)十月十日、井関王子についで「ツノセ王子」に参拝しています。

また、藤原頼資の日記では、承元四年(1210)四月二十六日、白原王子についで「角瀬川」王子に参拝しています。

江戸時代の「熊野道中記」などでも、「津の瀬王子」と書いています。

このように、古い文献では「角瀬」あるいは「津の瀬」という王子社名ですが、江戸時代の村名が河瀬であったことから、「ごのせ王子」と呼ばれるようになったと考えられます。

「紀伊続風土記」では、「川瀬王子社」とし、明治時代には川瀬王子神社となりましたが、明治四十一年に津木八幡神社に合祀され、跡地を留めるだけとなりました。しかし、現在も巨石が横たわっており、王子社の固態を伝えているように思われます。

また、この王子社がら鹿ヶ瀬峠に向かう集落には、かつて旅籠や茶屋を営んでいた宿場の雰囲気が感じられます。

もうひとつ、案内板があります。

此の所において雨漸くやむ。

夜また明く。次にツノセ王子に参り、次にまた シシノセの山をよぢ昇る。崔嵬の嶮岨。

巌石は昨日に異ならず、此山を越えて 沓カケ王子に参り、シシノセ椎原を過ぎて 
樹陰滋り、路甚だ狭し云々

「熊野御幸記」

(広川町誌より)

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