縄文文明

今回も小名木善行さんのお話のまとめと、わたしがこれまでに学んだことについて書きたいと思います。

岡本太郎と太陽の塔

「芸術は爆発だ!」の岡本太郎さん、実は「縄文ファン」で、あの有名な作品「太陽の塔」は、縄文式土器をモチーフに作られたものだそうです。

その岡本太郎さんは「縄文時代」ではなく「縄文文明だ」と主張されていたそうです。

縄文時代とその文化

縄文時代は、今から1万7000年前(!)から、3000年前頃まで、14000年に渡って続いた時代です。

西暦はたった(?)2000年です。
その約7倍の長きに渡り続いた時代です。

縄文遺跡は日本各地で発見されており、数万箇所あるそうですが、「◯◯貝塚」と呼ばれている遺跡は縄文遺跡なのだそうです。

世界各地の遺跡から出土しているもので、いまだかつて縄文遺跡から一つも発見されていないものがあります。

何だと思います?

縄文時代について勉強された方や、小名木さんのお話を聞いたことのある方ならお分かりかもしれません。

答えは「対人用の武器」です。

この14000年の長きに渡り、争いの痕跡が発見されていないのです。

中には頭蓋骨に穴が開いたものが発見されていますが、それが果たして争いによってもたらされたものなのか、事故によるものなのかははっきりと分からないらしいです。
ただ、そういった頭蓋骨も全体の1%しかなく、また、損傷部分が頭蓋骨だけなので、争いではなかったのかもしれません。
もし、争いによってのものであれば、体の他の部分にも損傷が見つかってもおかしくはありませんが、それが発見されていません。

一応、矢尻や石斧が発見されていますが、石斧は対人用にしては柄が長すぎで、人をそれで打とうとするなら柄が折れてしまうらしく、矢尻も対人用にしては小さすぎることから、小動物を狩るためのものだったようです。

このことから、日本人は元来争いを好む民族ではなく、そのDNAがわれわれ日本人の奥にあるのかもしれません。
議論をする時でも、感情的になって言い争ったとしても、殴り合ったりとか暴力に訴えて、最後には武器を突きつけて相手に無理やり従わせるということをせず、どこか共通点や共感点を見つけていくという方法を取ります。

こうした「争わない姿勢」が、縄文時代から学ぶ最も重要な部分であると小名木さんはおっしゃいます。

「歴史とは争いの歴史」ではない

よく「歴史とは争いの歴史」と聞きます。
歴史には戦いがつきものだと。

しかし、以上のお話からも分かるように、日本にははるか昔には争いはなく、人々が協力しあいながら平和に暮らしていたのではないかと思わせます。
「戦いの歴史」が始まったのは、長い縄文の平和な時代から見れば「つい最近」の話なのです。

これをよく表す言葉として「天皇を中心とした」といいます。
「天皇を頂点とした」ではないのです。

天皇を「頂点」とすれば、権力や武力で国民を支配してしまう意味になります。
これは他の大陸の国々のやり方です。
そうではなく、天皇も人々の気持ちや意見を汲み取り、国民とともに生きることで人々からの信頼を得られ、そこから自然と崇められるような存在になられたのだと思います。

「崇めさせる」のではなく、国民が自発的に「崇める」

まさに人々をしらす(知らす・治らす)、つまり、国民を「大御宝」とし、「天皇と国民は一体」として国民を大切にしてきたからこそ、人々から崇められるようになったのでしょう。

その証拠として、京都御所は中学生でも簡単に乗り越えられるような低い塀しかありません。
普通の他国の王であれば、鉄壁の堀と城壁で城を取り囲み、命を狙われないようにしています。
天皇がお住まいになられるところは、それをする必要がなかったことを表します。

古来から争いを好まない文化は今、「ただのお人好し」になっているきらいがありますが、曖昧な気質とともに、日本人特有の文化でもあると思います。

ただ、それでは済まない状態になって来ていることは事実です。
話し合いで納得してくれるような相手が周りにいない今の状態では、毅然とした態度で、時には武力を盾にしながら(武力を行使するという意味ではありません)外交をする必要がある時代に来ていると思います。

【現場研修】補陀落山寺~佐野王子

和歌山地域通訳案内士会は昨日1月9日、大辺路刈り開き隊の上野一夫さんをお招きし、現場研修を行いました。

9時30分に那智駅に集合し、まず、駅の敷地内にある中村覚之助と山口熊野(ゆや)の顕彰碑の前で二人について説明をしていただきました。
中村覚之助についてはガイドでも説明をするので知っていましたが、山口熊野についてはまったくの無知でした。
顕彰碑に説明板があるにもかかわらず、読んでもいませんでした。

「そんなところの鉄道を敷いて、山猿でも乗せるのか」と揶揄されながらも、紀勢線の開通に尽力された方で、那智勝浦町浦神の出身です。

那智駅を出発し、補陀落山寺へ。

補陀落山寺前に「振分石」があります。

振分石とは街道の分岐点を表す石碑で、ここの石碑は一般的に「大辺路、中辺路、伊勢路の分岐点」とされていますが、このあたりの街道の定義が曖昧で、いくつかの説があるそうです。
ここから新宮までの街道は、和歌山県では「中辺路」としていますが、「伊勢路」という人もいたり、「大辺路」という人もいます。
ただ、大門坂が中辺路とされているため、伊勢路と大辺路であるなら途中で寸断されていることになるので、やはり中辺路だとは思いますが・・・

今回このコースを歩くのは初めてで、私にとってもかなり新鮮でした。

ただ、多くの部分を国道42号線沿いに歩くことから、車が多く結構危ないです。

その中で唯一、大狗子(おおくじ)・小狗子峠(こくじ)では古道らしさが残っていました。

佐野に入り、上野さんに新宮鉄道のトンネル跡を案内していただきました。
昔の新宮は熊野川を利用して上流から流してきた木材を運ぶ拠点でしたが、新宮は砂州で大型船を停泊させるだけの港がないことから、隣町の勝浦まで運ぶ必要がありました。
また、那智大社への参拝者などを運ぶ目的もあったそうです。

その後国有化されますが、約60%は新宮鉄道の路線を利用し、あとは新たに橋梁をかけたりして整備されたとのことです。

今回も貴重なお話をたくさん聞くことができました。
感謝です。

【大辺路】八郎峠~市屋峠~ニ河峠

1月8日は3つの峠越えをしてきました。

湯川駅に駐車をし、紀伊田原駅に向かいます。
湯川駅は始めて利用しましたが、近くに海水浴場が見えてきれいな景色が広がっていました。

紀伊田原駅を10:30に出発し、まずは木葉神社でお参り。
このお社には社殿がなく、白石を積み上げたものが御神体です。

木葉神社は田原地区の氏神さまで、主祭神は木花咲耶姫(このはなさくやひめ)様です。
木花咲耶姫様と言えば、記紀の中では大山祇命(オオヤマズミノミコト)と結婚し、一夜にして身ごもったため、大山祇命は「一日で子を身ごもるはずがない」と疑ったため、その疑念を晴らすため自ら産屋に火を放ち、その中で鵜草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)を出産したというお話があります。
鵜草葺不合命は神日本磐余彦尊(神武天皇)の父にあたるお方です。

その木花咲耶姫様の故事にちなみ、木花咲耶姫様を祀る神社では、安産祈願のお参りが絶えません。
こちらの神社でもその例にもれず、格子状の扉にはたくさんのよだれかけがかかっています。

木葉神社を出発してからは、しばらくアスファルトの道を約4km歩きます。
この4km、結構長く感じます。

上田原生活改善センターから少し歩くと、いよいよ絶景の八郎峠です。

上りもありますが、ところどころは尾根道になっており、状態のいい道が残っています。

大辺路の魅力は中辺路ではあまり見ることができない自然林が多く残っていることです。
植生が豊かで、鳥のさえずりもよく聞こえます。

頂上までに開けたところがあり、ここからの景色もきれいです。

はるか向こうに海が見えます

しばらく眺めのいい尾根道を進みます。
正面に見える山が八郎峠のようです。

峠までもう少し。
ここがこの日最大の難所です。
・・・雨の日は無理だな。

ここを登ると「ご褒美」が待っています。
頂上からは360度見渡せます。
太地、勝浦、新宮、阿弥陀寺の「卍」まで見えます。
写真は太地方面を臨んでいます。
ここでのお弁当はまた格別です。

360度見渡せるため、帰り道も絶景を見ながら下ります。
しかし足元には十分注意です。

以前、大辺路刈り開き隊の上野さんから、八郎峠の下にトンネルを掘る工事が始まると聞いていましたが、すでにその工事が始まっており、景観が思いっきり変わっていました。
工事中ではあるものの、現場の脇には歩行者用の通路があるため歩いて通り抜けることができます。

市屋峠、ニ河峠を越え、湯川駅に戻ったのが16:30。
距離にして約15kmでした。
少し健脚向きかもしれませんが、大辺路では数少ない、状態のいい古道を多く歩くことができるいいルートだと思います。

明日は大辺路研修です

その前に、今日は紀伊田原駅~八頭峠を越え、湯川駅まで歩きました。
Reliveで距離を測ったところ、15.2kmでした。

その模様をアップロードしたのですが、今日は古道歩きが終わってから古武道の稽古始めがあり、今ようやく落ち着いたところで明日の準備もままならないため、明日以降にアップロードいたします。

以前に八郎峠に研修を受けた時に、峠の下にトンネルを掘る工事始まると聞いていましたが、今日はすでにガンガンやっていました。

今から明日の準備をして早めに寝ます。

また明日です。

歴史に学ぶ重要性(一国であり続けることの意味)

今日も小名木善行さんのお話のまとめです。

人口激減

14世紀(1348年頃)、当時のチャイナ・元ではペストが大流行し、人口1億2千万人いた人口が2500万人にまで減少するという事態が起こりました。
ペストはユーラシア大陸やヨーロッパでも大流行。
人口の約6割が亡くなったそうです。

元でこれほどまでに人口が減少した原因は2つあります。

一つはペスト。もう一つは飛蝗(ひこう)、いわゆるバッタの大群が作物を食い荒らす災害です。
ペストは気温の高い南部、飛蝗は北部で起こりました。

元が滅んで次に明が興ると、またもや同じ理由で9500万人いた人口が2500万人にまで減少します。
明のみならず、ヨーロッパでも同じことが起こってしまいました。

しかし、日本ではこの時期に大した影響はありませんでした。

その理由が、古事記・日本書紀(以下「記紀」)に書かれています。

崇神天皇の功績

時は2500年前、第10代・崇神天皇の時代。
日本では疫病が大流行し、古事記では「人口の大部分が失われた」と書かれ、日本書紀では「人口の半数以上が失われた」と書かれていています。

日本でも、諸外国と同じように、はるか昔に疫病が流行していたのです。

東大のDNA研究チームの研究で、約2500年前に当時の人口26万人が8万人にまで減少したという事実を突き止めました。
この事実は、記紀の時代とぴったり合います。

東大の研究チームは、「自然災害によるものだろう」という曖昧な見解しか示していませんが、ちゃんと記紀には疫病が流行したと書かれています。

当時はもちろん、ウイルスの存在など分かりませんので、崇神天皇は「神々の怒りに違いない」と思い、各神社に神々のお伺いを立てるよう命じます。

各神社からは「◯◯の神様を◯◯に移しなさい」という「神託」が上がってきました。
しかし、当時も神社はたくさんあったことから収拾がつかなくなります。
そこで、各神社からの話をまとめて上げてくるように、天津社(今で言う官幣大社)・国津社(各都道府県の代表の社)・市町村の代表の社・氏神の社と、神社を4階層に分けました。

それと同時に、手水舎の設置を義務付け、手と口をすすぐようにしました。

当時、人々が何かあるときに集まって話し合うところは神社でした。
今は公民館がありますが、あれは戦後GHQによってもたらされたものです。
GHQは、とにかく神・天皇と民衆を切り離したかったのでしょう。

このことがきっかけとなり、8万人にまで減少していた人口が、一気に67万人にまで増えました。
手水舎での「禊」の結果、疫病がなくなったのです。

以来、崇神天皇は「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれるようになりました。

「都」の意味

神武天皇は、始めて奈良の橿原に都を置きました。
今から約2680年前です。

当時、ある地方で飢饉が起こり、米が取れなくなった場合、余裕のある地方から米を供給できる仕組みを作る必要があるとお考えになりました。
そのためには、公正な米の融通を確保するための機関が必要だったのです。

これが都の始まりです。

「都」とは「宮の子」という意味があるそうです。

こうして、自然災害が起こった場合は都のおかげで飢饉が起こっても耐え凌げるようになりましたが、疫病に関してはいくらお米があっても人々は死んでしまいます。

これを我が国では、第10代・崇神天皇が見事に克服したのです。

今でも残る「疫病対策」の習慣

日本は高温多湿な気候環境であるため、疫病対策が生活習慣にも溶け込んでいます。

挨拶にしても、西洋にあるハグや握手という習慣もなく、日本では畳一畳分(約1.8m)空けてお辞儀をするだけです。
1.8m離れれば、お互いの唾液が飛ぶこともありません。
さらに、禊、お風呂の習慣を持ち、拭き掃除を励行します。

歴史に学ぶことの重要性

同じように疫病が大流行した西洋でも、同じように疫病対策の習慣があってもいいようなものですが、残念ながらありません。

それは、王朝が代わり、歴史が途絶えているからだと、小名木さんは言います。

これに対し、日本では過去の歴史を学んだことを全部活かしながら、現代まで一貫してつないでいます。

疫病対策一点においても、他国と大きな違いとなって表れています。

歴史を学ぶこと、そして、一国であり続けることの重要性を改めて学ぶことができました。

一国であり続けてこられたのは、我が国には天皇がいらっしゃったからだということは揺るぎない事実なのではないでしょうか。

・・・今、神社では「手水の停止」を掲げているところがありますが、むしろ逆効果ではないの?と思うのは私だけでしょうか?

国号の始まりとその深い意味

今日は歴史のお話です。
小名木善行さんのお話のまとめをシェアさせていただきます。

「日本」の始まり

670年、新羅の歴史書・新羅本記に「670年に倭国が国号を日本と改めた」という記述があり、これが一番古いそうです。
日本国内では、689年に飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)で「日本」という言葉が使われました。
また、702年の遣唐使でも日本という言葉が使われており、670年から700年頃にかけて「日本」という国号が使われ始めたということが定説になっています。

「天皇」と「日本」

では「天皇」と「日本」という言葉はどちらが古いでしょうか?

「天皇」という言葉は、608年の第3回遣隋使の時に使われているそうで、「日本」よりおよそ100年前から使われていたそうです。

以前の国号

「日本」と呼ぶ前はといえば「やまと」ですが、チャイナはこれに「倭」という字を当てました。
しかし、日本では「日本」と書いて「やまと」とも呼んでいたそうです。
ちなみに「大和」という漢字は、ただ単に漢字を当てただけです。

「日本」の意味

「日本」は大和言葉で「ひのもと」と言います。
これは、「太陽神である天照大神の本(もと)にある」という意味です。
また、これにはもう一つの大きな意味があり、「ひ」は「霊」とも書き、魂を表すそうです。

日本には古来から「ひふみよいむなやこと」という数え方がありますが、この「ひふみ」の「ひ」は「御霊(みたま)」、「ふ」は「生まれる」、「み」は「身」を表し、「ひ(霊)」から生まれる「み(身)」、つまり人間の体には魂が宿っているという考え方があったそうです。

ですので、「魂が本体であり、身は依物(魂が宿るもの)に過ぎない」という考え方がありました。

このことから、「国家の根本は霊(ひ)であり、霊体・神体が本(もと)になってできた国」という意味があるそうです。

「日本」の呼び方

ちなみに、いまだに我々日本人も「にっぽん」と呼んだり「にほん」と呼んだりしますが、これは「どちらも正しい」というのが正解です。
もう国号自体が日本人の特性である「曖昧さ」を物語っていますよね(笑)

東方見聞録のマルコポーロは、チャイナで日本のことを聞いた時、「日本」をチャイナ読みで「日(ジツ)本(ポング)」と聞き、それを母国語に直して「ジパング」としました。
それがヨーロッパ諸外国で「ヤーポン」とか「ハポン」とか「ジャパン」になりました。

国号「日本」の根底にあるもの

さて、この「日本」という言葉には大きな意味があることを学びました。
さらに、「日本」という国号に基づく素晴らしいお話があります。

前述した

「魂が本体であり、身は依物(魂が宿るもの)に過ぎない」

「国家の根本は霊(ひ)であり、霊体・神体が本(もと)になってできた国」

という意味から、魂をいかに重要視していたかを伺うことができます。
その魂にはランクがあり、この世で修行することにより最終的には神様に近いものになっていくという考え方があります。

神様に最も近い魂は、最終的な人間界の試練として、最も重い肉体を持って生まれてくると考えられていました。

最も重い肉体とは、いわゆる身体障害者や脳性マヒなど、脳や身体に障害を持った人たちのことです。
その人たちは神に近い非常に高貴な魂を持たれているから、大切にしなければならないと考えられ、半島などで障害者を揶揄するような文化とは全く違った考え方が日本にはありました。

「神」がこの世に生まれ変わってくるのか?

ここからは私の考えです。

この世は魂の修行をする場で、肉体を持つことにより魂を磨きやすい環境に置く、これがこの世での修行であると聞いたことがあります。
肉体を持つことにより、自由が利かなくなるからです。
目で見ないと見えない、触らないと感覚がない、耳で聞かないと聞こえない、鼻を通さないと匂いが分からない、口を通してでないと相手に自分の意志を伝えられない・・・こういう状態で暮らさなければならないからです。

この世に生まれ変わるということは、その魂に何らかの欠点があるからです。

そして、生まれ変わりを繰り返し、魂を磨き上げて欠点を補完し、最終的には修行をしなくてもよい状態、それが「神の魂」ということだと思います。

ホツマツタヱを読むと、クニトコタチから始まりアマテラス、スサノオなど、神話に登場する神々は実在の人物として描かれています。
よく神話などに出てくる神様たちはすでにその状態に達しており、この世に生まれ変わる必要のない方々だと思います。

なので、たまに「わたしはスサノオの生まれ変わりだ」とか「アマテラスの生まれ変わりだ」などと言っている人がいますが、こういった人たちは低級な霊に翻弄されているだけなのかもしれません。

また、本宮大社の縁起にイチャモンをつける意図はまったくありませんが、「人格者(神格者?)」ともあろうお方が「私を祀れ」とは言わない、そういう霊は低級な霊であり、みんなからチヤホヤされたいだけ、と何かのブログで読んだことがあります(おそらく有名な霊能者の方だったと記憶しています)
そのことが頭に残っていて、始めて本宮大社の縁起を聞いた時に「それ、違うやろ」と思ったことがありました。

真相のほどはさておき、私がいいたいことは、聞いた情報を鵜呑みにせず、たくさんの情報から判断しましょうねということです。

ではまた。


近況など

今年の目標

元日から4日まで、大辺路歩きをしてきました。

元日と3日は長井坂、2日は古座駅~紀伊田原駅、4日は紀伊浦神駅~那智駅を歩きました。

普段はPCとにらめっこすることが多いので、足腰が弱って来たように思うためと、大辺路商品化を目論んでのことです。

下半身の強化は、そのまま健康寿命につながります。

また、ふくらはぎは「第二の心臓」とも言われているほど重要な筋肉です。

歩くことによってここが鍛えられます。

大辺路の最大のネックは、公共交通機関が弱いことです。

それと、雨が降った時にお弁当を食べる場所がほとんどない。

何とかならないものかと思っています。

みなさんは今年の目標は決めましたか?

私は年間1000km歩くことと、昨年4月より止まっていたブログの毎日更新を目標にしています。

まだ他にもありますが、目標を掲げるだけでは途中で挫折しますので、きちんと計画を立てることも重要です。

大きな目標を立てて、それを達成するためには1ヶ月単位でしなければいけないこと、その1ヶ月の目標を達成するために1週間単位でしなければいけないこと、それを達成するために日々しなければいけないことまで設定する必要があります。

目標を達成するためには、無駄に消費している時間はありません。

SNSが悪いとは言いませんが、使い方には気をつけなければいけないと思います。

時間>お金

私は時間を重要視しています。
お金ももちろん大切ですが、お金は頑張れば失った分を取り戻すことはできますが、時間だけは二度と戻って来ないからです。

なので、数百円を浮かせるために高速に乗らなかったり、特急電車があるのに普通を利用したり、100円でも安い野菜を求めてチラシを何枚もチェックするということは、それだけ貴重な時間を失っていることになります。
もしあなたがこういう発想であるならば、まずは発想の転換が必要ではないかと思います。

早く目的地に着けば、やりたいことにそれだけ早く取り掛かることができます。
早く買い物が終われば、早く残りの家事をこなすことができます。

特急でも、わたしはグリーン車とまではいきませんが、座席指定を利用するようにしています。
自由席では特に大阪から和歌山市までは混雑します。
座席指定は、ゆったりした気持ちで読書に集中できるのでそれなりの価値はあります。

明日からは梅畑でお手伝いです

明日からは梅畑で少しばかりお手伝いをします。
今までは収穫ばかりでしたが、他の作業も勉強したいということで、いつもお世話になっている梅農家さんにお願いしました。

紀南でも、耕作放棄地の問題が深刻になりつつあります。

白浜町内の梅畑でも、耕作を放棄したところがちらほら出てきました。
紀南の基幹産業である梅をなんとかして生産量を維持したいという想いから、今回のお手伝いにつながっています。

農業、特に梅であれば、ガイドの閑散期にできそうだと踏んだところもあります。

とりあえずは勉強です。

【大辺路】紀伊浦神駅~那智駅

今日で4日連続の大辺路ウォークです。

一応今日までが和歌山地域通訳案内士会の年末年始の休みでしたので、最終日はちょっと多めに歩きました。

10時に浦神駅を出発して、まずは浦神峠。

30分ほどで頂上の「休平(やすみだいら)」。
ここから少しだけ海が見えます。

峠を越えて林道に出ると「かぶと虫の宿」がありました。
今日もReliveで距離を測っていたので、それに示されている地図で確認すると「クワガタムシの里」とありました。

どっちやねん(笑)

ま、いっか。

ここでも太陽光パネルが。

ちょうど休憩所があったので、ここで早めのお昼。

市屋峠までは急坂です。

センリョウのきれいな道が続きます。

与根河の池を過ぎ、ニ河峠に向かいます。
ここに至る道も破壊されていて途中からになっています。
登ることがほとんどないので峠という感じがありません。
一応「ニ河峠」の説明看板があるので「峠なんだな」と気付かされますが、普通に歩いていればわからないです。

その説明看板から下りになります。
途中、小川を横切るところがあります。
増水時は要注意かもです。

向こう岸に「谷をわたる」と書いてくれています

この道はきれいでした。

ニ河峠を降りきったところに橋がかかっていますが、「立ち入り禁止」と看板が出ているため、和歌山県の地図が示す通りに川沿いに下って歩いて一旦国道42号線に出ます。
そして川を渡ってすぐ、再び川に沿って上流を目指して歩きます。
この区間、無駄(笑)
立ち入り禁止の私有地の近くに、石を置いて向こう岸まで行けるようにしてくれていますので、落ちないように歩けばこの無駄な歩きはカットできます。

ニ河峠を過ぎればしばらくはアスファルトの道をダラダラ歩きます。
途中でゆかし潟や温泉がありますが、その他はこれといって見るところもなく、結構しんどいです。
そして、今日最後の峠・駿田峠に入るには、一旦国道42号線に出ないといけません。
今日はまだ4日ということもあり、車も多く、歩くのは少し怖かったです。
歩道はありますけどね。

駿田峠には「加寿地蔵」があります。

身分の高いお姫様・歌子姫が熊野詣の時に命を落とされ、ここに祀られたとのこと。
酒粕を備える風習があることから名付けられたそうです。

駿田峠を下ると、勝浦の町に出ます。
町中を歩いて那智駅まで、これもまた長く感じます。

今日はひょうたん池や加寿地蔵にも立ち寄ったので15.9kmでした。
個人的にはニ河峠で終わってもいいかなと思いました。

熊野古道・長井坂とメガソーラー

熊野古道・大辺路の長井坂、今日も高校時代の友人と歩いてきました。
道中は説明もほとんどせず、話題の内容はもっぱら政治と新型コロナでしたw

彼とは長い付き合いですが、政治の話をし合えるとは高校時代には夢にも思っていませんでした。
その熱い話の合間に、長井坂の尾根道から見える枯木灘を見て、友人は感動していました。

さて、元日にも同じコースを歩いてきましたが、コースが太陽光発電のソーラーパネルの設置で大きく変わっていることを知らなかったため、距離を測るつもりで歩いていませんでした。

年間1000kmを歩く目標を立てた以上、距離を測らないといけませんので、今回はその目的もありました。

測ったところ、周参見駅から見老津駅まで12.6kmありました。
和歌山県発行の地図では10.5kmとありましたので、大きな違いです。
これまではここを直線的に通過していたコースが、ソーラーパネルを大きく迂回する形へと変更になりましたので、ある程度距離は伸びることは予想していましたが、ここまで距離が伸びているとは想定外でした。

大辺路は、JRと国道42号線に破壊された箇所が多いですが、今回はメガソーラーによる破壊です。
その土地をどう使うのかは地主の自由かもしれませんが、あれはあまりにも景観を損ねるもので、本当にがっかりしています。
県やすさみ町も、こうなる前に何とかできなかったのでしょうか。

せっかくの景観が台無しです。

また、大辺路刈り開き隊のみなさんが、同コースの埋没したルートを刈り開いた苦労話も聞いていましたので、なんともやりきれない気持ちです。

現在、CO2削減に向けて再生可能エネルギーへの転換が叫ばれており、化石燃料や石炭による発電は悪者扱いされていますが、現在メインの火力発電をやめてしまえば、再生可能エネルギーだけでカバーすることは現時点では、いや、おそらく半永久的に不可能です。

だいたい、CO2による温室効果も仮説に過ぎず、地球の平均気温は0.3度しか上がっていないというデータもあります。

再生可能エネルギーは気象条件に大きく左右されるため、安定した電力を供給するためにはバックアップのための発電所が必要であり、結局は現在の発電のメインである火力に頼らざるを得ない状況になります。

また、電気自動車に切り替えても、結局はその発電を火力に頼ることになりますので、自動車はCO2を排出しなくても、発電所でバンバン出すことになります。

また、使用済みのパネルも、太陽光があたれば発電をしてしまうため、その処分方法も細心の注意を払う必要があります。

河野太郎氏が「脱炭素」を強く主張している背景には、太郎氏、父・洋平氏、弟・二郎氏の企業「日本端子」との関わりもあるでしょう。
日本端子はソーラーパネルの部品を作っている会社です。

もっと大きな問題は、そのソーラーパネルが、ウイグル人の強制労働によって製造されている可能性が示唆されていることです。

チャイナ製のパネルを使用するということは、強制労働の片棒を担ぐことにもなります。

アメリカは昨年、新疆綿の輸入を禁止にしました。

今、全世界の約20%が新疆綿です。

その新疆綿も、ウイグル人の強制労働によって産出されている可能性があるためです。

ソーラーパネルの設置は、景観の破壊のみならず、土砂災害を引き起こして甚大な被害を発生させている事例もあります。

こうした流れを止めるには、いち早く法的に規制をかける必要があります。

今日はこういう話を友人としていました。


大辺路 古座駅~紀伊田原駅

昨日に引き続き、今日も古道歩きをしてきました。

今日は古座駅から紀伊田原駅まで、約12kmのコースです。
10:40に古座駅を出発し、15:00頃に紀伊田原駅に到着しました。

古座駅から虫喰岩までは、しばらく古座・古座川の町中を歩きます。
町中では地元のおっちゃんに「どこまで行くん?」と声をかけられました。
古道歩きはこうした人との会話も楽しいものです。

虫喰岩を過ぎ、池野山衛生センターからは古道らしい道がしばらく続きます。

途中、「いがみの滝」で瞑想。

いがみの滝からはアスファルトが延々と続きます。
これがなかなかしんどいです。

しかし、天気もよく、風もあまりなく、気持ちよく歩くことができました。

今年の目標は、年間1000km歩くことです。
一回で10kmを歩くとなると、年間100回歩くことになります。
できるかどうか分かりませんが(笑)
今年はすでに20km以上歩いています。
明日は再び、高校時代の友達と、長井坂を歩きます。