【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②

地図では赤丸の場所にあたります。

山中神社(馬目王子)

承歴3年1079年8月8日、澤四郎善眞が紀州の岡崎より信仰する八王子神(あまのほひの命)をもって当山中に移り住みこの地におまつりした。

後日、神のお告げにより当地の西北にある高山の頂上に社(八王子神社上之宮で現在は跡地)を建てておまつりした。

この山中神社には、上之宮より移記した八王子神(本地十一面観音)をおまつりする社と、馬目王子(熊野古道九十九王子の一社)の社とがある。

元和3年(1613年)ごろ、この観音は盗難にあったが、いつのまにか元の社に返されていたと言われている。

山中神社 由来記

八王子社 祭神(天忍穂耳尊)
馬目王子社 祭神(後白河上皇、磐長姫命)

◯八王子社(本地十一面観音像)

承歴3年(1079年)8月8日
澤四郎善眞 紀州岡崎より八王子神(天忍穂耳尊)の神像袖内に蔵し山中に来たりて祭   祀す

承歴4年(1080年)11月18日
北西高山の頂に八王子上の宮建立

永長元年(1096年)11月8日
八王子神分霊を麓に下の宮創建
山中神社の起源で善眞の子孫が永代神主となる

◯馬目王子社(熊野古道九十九王子)

大阪最南端の王子社で山中部落入り口王子原に祀られていた。
足神さんとも名高く大きな草鞋が奉納され付近から清水が滴り
法皇上皇はじめ熊野参詣者の遥拝所兼休憩所であった。
明治42年(1909年)神社合弁合祀の際社家三澤家が
当神域に遷しいしの禿蔵に祀る。王子原の跡地は
昭和5年(1930年)阪和線開通時に平地化した。

◯八王子社観音堂(奥の院)

応徳元年(1084年)2月18日
澤四郎善眞岡崎観音寺(十一面観音像)勧請
奥の院建立神宮寺形式で八王子神祀る

元和3年(1617年)
観音像盗難-老僧にて返される

明治5年(1872年)
檀那寺に勧請す

明治32年(1899年)正月
観音堂債権さる

昭和46年(1971年)2月
現観音堂三澤家邸内善眞碑傍に建立

八王子神とは
天照大神(三女神)
素戔嗚尊(五男神)
八皇子の代表神天忍穂耳尊を祭神とす

歴史のあるお社ですね。
ここでの「八王子」は天照大神と素戔嗚尊の御子神のことを指していますが、ホツマツタヱではこの国をお造りになった国常立尊の8人の子、ト・ホ・カ・ミ・エ・ヒ・タ・メの8人を指します。
現在の地名である「八王子」も、ここから来たという説もあります。

ホツマツタヱに登場する8人についてはこちらをご参照ください。
【お勧め書籍】古代史ホツマツタヱの旅① クニトコタチ

いときょうさんの著書・古代史ホツマツタヱの旅もお勧めです。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②

いよいよ出発です。
今回は地図の赤丸の中のお話です。

おそらく、よほどのことがない限りこのコースは歩かないだろうと思いますので、備忘録も兼ねて詳しく数回に分けて記事にしようと思います。

自宅を出発して、田辺辺りで地図を忘れたことに気づき、逆戻り(笑)
紀伊路に限らずどこでもそうですが、初めて歩くところは絶対に地図が必要です。

ましてや入り組んだ街の中を歩くような今回については、殊更必要です。

・・・地図を持っていっても迷いましたから(笑)

山中渓の駅に到着しましたが、地図では一旦逆方向に歩き、紀州街道をぐるっと一周回ってもう一度山中渓駅に戻り、そこからスタートという形で示していましたので、正直にその通りに歩いてみました。

山中渓駅

さすがは往時に宿場町として栄えただけのことはあり、旅籠跡などの説明看板が充実していて、これを全部読みながら歩くとかなりの時間を消費していまいますので、写真だけ撮って後から確認することにしました。

山中渓の駅を出て左に出て、本来ならば桜並木の方から歩くかと思いますが、「紀州街道」という道標が目に入ったおかげて、それに吸い込まれるように入り「逆走」しました。

ゴミ箱が・・・

道祖神(賽之神)

説明板より。

この板状の石を屋根にした小社は、賽之神(さえのかみ)をかねた道祖神である。

山中の南の入口に鎮座され、南からの邪神、疫病の入りくるのをさえぎり、また「蟻の熊野詣の時代から数多くの旅人の道中の安全を守ってこられた。

江戸時代紀州藩では、毎年十二月二十日に犯罪者や病人を、境橋(当地区の南、和歌山県との県境)より和泉の国に追放した。

当地では、「はての二十日のろばらい」といって戸を締め切り悪疫の退散を願った。

当時山中では被害が少なかったのは、賽の神のおかげであったといわれている。

そういえば、和歌山県と奈良県の県境にある果無山脈(はてなしさんみゃく)の「果無」の由来も、はての日(12月20日)に「ひとつだたら」という妖怪が出るので、「はての日にはひとつだたらを避けるために、人がいなくなる」から来たというものがあります。

昔、「はての日」とは特別な意味合いがあったのかもしれません。

山中宿本陣跡

写真はありませんが、この一角に本陣跡があります。

1619年、紀州藩主・徳川頼宣公が紀州藩主となり、参勤交代の折に休憩や昼食に利用されたそうです。
頼宣公が来られるような時は、3000人が炊飯、補給、清掃等の仕事にあたったそうです。

旅籠「とうふや」跡

案内板より

紀州街道山中宿のこの付近には、当時二十余軒の旅籠が軒を連ねていたが、時代とともに次第にその姿を消し、最後まで残っていたこの地の「とうふや」も昭和の終わり頃、その姿を消した。

座敷は上中下の三段になり明り取りの天窓、内庭の七つの「へっつい」(かまど)、六枚に仕切られた腰高障子、また旅に必要な牛馬舎などは裏庭に残されていた。

この歴史の古い建物がなくなったのはいかにも残念である。
「とうふや」というのは豆腐とは関係なく旅籠の屋号である。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③へ続く

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①

以前に布施屋から海南駅までは歩いたことがありましたが、山中渓から布施屋の間を歩いたことがなかったので行ってきました。

歩いてみた正直な感想は、「一度歩けばもういいかな?」でした。

初めてということもあり、新鮮味はありましたが、とにかく道が分かりにくい(笑)

道を間違えて進んでは戻るというのを幾度となく繰り返したので、終了予定時刻を大幅に上回って終了しました。

一応、和歌山県が発行する地図上ではこの区間の距離は23.5kmになっていますが、かなり余計に歩いています(笑)

道に埋め込んでいる導き石がとにかく分かりにくい。

中にはそれがないところもあり、たまに導いてくれませんでした(笑)

やはり歩いている目線で標識がある方が絶対に見落とす確率は下がります。
普通の道を歩く時に下ばかり見て歩かないですよね?

今日はそこそこ疲れましたので、詳しいことは明日にします。

おやすみなさい。

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②へ続く

情報は有料 

現在、週1回くらいのペースで会員向けに通信を配信しています。
その通信からの抜粋です。

みなさんは情報をどのように取っているでしょうか?

テレビや新聞が多いかと思います。

現在は、新聞離れが急速に進んでいます。
朝日新聞は慰安婦問題等の捏造記事による信用失墜が発端となり、発行部数を年々劇的に落としています。

一方、テレビは若い世代ではあまり見なくなりましたが、こちらはまだまだ根強い影響力があると思っています。
この、テレビからの情報は無料だと思っておられる方が多いと思いますが、きちんとその対価をみなさんは支払っています。

テレビのコマーシャルでしょ?

という答えが返って来そうですが、それだけではありません。

テレビ番組で紹介されていた商品を買ったことはありませんか?
テレビ番組で紹介されたお店に行ったことはありませんか?

番組で紹介されていたものを買ったり、行ったりすれば、それはその情報にお金を出しているということになります。

私は最近ほとんどテレビを見なくなりました。
その代わりとなる情報源が、本とネットです。

ネットは無料情報もありますが、それだけでは真実が話せない場合がありますので、より深い話を聞くのであれば、有料のチャンネルに登録しなければなりません。
わたしも複数の有料チャンネルから情報を得ています。
ということで、情報を得るためには、形がどうであれお金を払っているということです。逆に無料ほど怖いものはないのかもしれません。

テレビは情報を操作する

テレビ局や新聞社には広告のスポンサーがついています。
ちなみに、スポンサーが国民のNHKは、職員の平均年収が1800万円だそうです。
それでいて、番組の予算はかなり余っていると聞きます。
見たい人だけがお金を払うスクランブル方式に一刻も早く変えてほしいものです。

NHK以外の民放各社や新聞社は、スポンサーの不利になるようなことは番組や記事では絶対に言えませんし書けません。

砂糖や小麦に中毒性があり、鬱を発症するとか、マーガリンが体に悪いとか、薬が病を治すわけではないとか、ラウンドアップという農薬が海外ではすでに禁止されているにもかかわらず、日本では大々的にCMを流して使われているとか、海外では大量のホルモン剤や遺伝子組換え飼料を牛や豚に投与しているとか、若者の死亡原因のトップが自殺で、40代以降は癌だということも絶対に言えないのです。

本当のことを言えば降板させられます。
マスコミとはそういう世界なのです。
絶対にテレビは見るなとはもちろん言いませんが、一歩引いてその裏の意図を汲み取って見ることをお勧めします。

当会の勉強会や研修もそうですね。
無料はあり得ません。

情報を得るためにはお金を払ってください。

平安文化 清少納言・和泉式部・紫式部 Heian Culture Sei Shonagon, Izumishikibu, Murasaki Shikibu

今日も小名木善行さんのお話からです。

平安文化といえば、紫式部、和泉式部、清少納言など、女流歌人が活躍した時代でした。
この頃は、日本が平和と安定を享受し、女性が輝ける時代でした。

このように、女性が輝ける時代や社会というのは、世の中が平和でなければ実現できません。
戦乱の世でも活躍した女性はいましたが、そういった人たちはむしろ男勝りな人たちでした。
そうではなく、教養と文化という面で女性が輝けるのは、やはり社会が安定していなければなりません。

清少納言といえば枕草子です。
枕草子といえば「春はあけぼの やうやう白くなりゆく山ぎは・・・」と暗誦させられた記憶がある方が多いかと思います。
枕草子は、平安中期の清少納言の非常に格式高い文学作品だと教わった方も多いと思います。
しかし、この枕草子というのは、そもそも寝る前に枕元に置いておき、それを読んで「ふふっ」と笑うという内容の本です。

「夏は夜」も、外で遊んでいると夕立に遭い、みんなが軒下に入った時に顔を見合わせて笑うという情景を描いたのもなのだそうです。

あるいは、夜這いをする時に男が格好をつけて60~70センチもあるような長烏帽子(ながえぼし)を被って家に忍び込んだ時に、その烏帽子を鴨居に当てて大騒ぎをしてしまい、せっかくドキドキして待っていた女性や家族まで知れ渡ってしまうような大きな音を立ててしまい、「この人はいったい何を考えているのかしら?」という内容が書かれているそうです。

Today, we begin with another story by Zenko Onagi.

The Heian culture was a time when female poets such as Murasaki Shikibu, Izumi Shikibu, and Sei Shonagon were active.
This was a time when Japan enjoyed peace and stability, and women were able to shine.

Such an era and society in which women could shine could only be realized if the world was at peace.
There were women who played an active role even in a war-torn world, but they were rather manly people.
Instead, women can only shine in terms of culture and education if the society is stable.

The Pillow Book is one of Sei Shonagon’s most famous works.
Many of you may remember having to recite “Spring is at dawn and the mountains are turning white…” The Pillow Book was written in the middle of the Heian period (794-1185), and was written by the author Sei Shonagon, who was a famous author in the Heian period.
Many of you may have been taught that The Pillow Book is a very prestigious work of literature written by Sei Shonagon in the middle of the Heian period (794-1185).
However, the Pillow Book is a book that you keep by your bedside before going to sleep and read it and laugh at it.

“Summer is the Night” is also said to have depicted a scene in which a group of people were playing outside when an evening shower came and they looked at each other and laughed when they all went under the eaves of the roof.

Or, when a man dressed up for a night crawl wearing a long crow’s-bonnet (60 to 70 cm long) sneaked into a house and made a big fuss by hitting his crow’s-bonnet on the duck-roof, causing a big commotion. He made such a loud noise that even the woman and her family, who were waiting for him with great excitement, knew about it, and they wondered what he was thinking. The story is said to read, “What in the world is this person thinking?”


和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ④ 

There is an English version in the second half.

前回までの記事はこちら
和気清麻呂 Wake-no-Kiyomaro ①
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ②
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ③

そこで清麻呂は、姉の広虫と話し合った結果、「嘘をついてはいけないよね」ということになり、正直に天皇、道鏡、その他の官吏がいる前で話したのでした。

こうして道鏡は自分の地位を追われてしまいました。

そして、平安京の建設に携わるにまで清麻呂は出世をしました。

和気清麻呂について詳しくお知りになりたい方は「ねずさん 和気清麻呂」で検索してもらえればと思います。
ねずさんの学ぼう日本

小名木善行さん曰く、歴史の節目には和気清麻呂のような人物が必ず現れるそうです。
そして日本の国柄が守られています。
こうした、和気清麻呂のような人物たちは、ひどい目に遭わされたりすることが多いです。
しかし、そうした人々の活躍のおかげで日本の国柄が今日まで守られ続け、世界で唯一、民衆が大御宝とされ、民衆が安心して豊かに暮らせる国柄が今も続いています。

今日本は壊れそうな状況になっていると言われていますが、日本が壊れそうになっている今こそ、現代の和気清麻呂のような人物が必要になっているのでかもしれません。

日本が今、危機的状況にあることすら知らない方は、まずこの動画を見てください。

Click here to read the previous article.
和気清麻呂 Wake-no-Kiyomaro ①
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ②
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ③

So Kiyomaro discussed the matter with his sister Hiromushi, and they agreed that he should not lie, and so he honestly told the story in the presence of the emperor, Dokyo, and other officials.

Thus, Dokyo was forced out of his position.

Kiyomaro rose through the ranks to become involved in the construction of Heian-kyo.

According to Zenko Onagi, a person like Wake-no Kiyomaro always appears at each historical milestone.
And the national character of Japan is preserved.
These people like Wake-no Kiyomaro often suffer terrible things.
However, thanks to the activities of such people, the character of Japan has been preserved to this day, and it is the only country in the world where the people are regarded as the great treasure and where the people can live in peace and prosperity.

It is said that Japan is now on the verge of collapse, but perhaps it is precisely because Japan is now on the verge of collapse that we need a modern-day Wake-no Kiyomaro.

和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ③

There is an English version in the second half.

前回までの記事はこちら
和気清麻呂 Wake-no-Kiyomaro ①
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ②

13世紀~14世紀の西洋では、戦災孤児の引き取り手は病院や教会、あるいは奴隷商人たちでした。
13世紀のある国の記録では「異教徒、売春婦、孤児は、街およびその周辺には存在してはならない」とあり、孤児を匿った場合には罰金を課すという法律までありました。

つまり、これらの人々は社会から排除されるべき存在だったわけです。
このことから、西洋では13世紀でさえも日本のような制度がありませんでした。

さて、天皇の地位を簒奪しようとたくらんでいた道鏡が、大分の宇佐八幡宮の神よりご神託を受けて「次の天皇は私だ」と言い始めました。
このお話についてはこちらをご参照ください。
平安遷都とシラス政治実現への思い①

道鏡の言っていることが本当なのかどうかを確かめるため、称徳天皇は、和気清麻呂の姉である和気広虫に指示をしましたが、あいにく広虫はこの時病気にかかっており、長旅ができるような体調ではありませんでした。
そこで、弟の清麻呂を代わりに行かせてもらうようにお願いをしました。

この時、清麻呂は37歳だったそうです。

この話を聞きつけた道鏡は早速清麻呂のもとに行き、「大臣の位を与える」などと持ちかけました。
これは、「私に逆らったら、お前と姉の命はないぞ」という脅迫でもありました。

Click here to read the previous article.
和気清麻呂 Wake-no-Kiyomaro ①
和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ②

In the 13th and 14th century West, war orphans were taken in by hospitals, churches, or slave traders.
One 13th-century country record states, “Pagans, prostitutes, and orphans are not allowed in the city or its environs,” and there were even laws imposing fines for harboring orphans.

In other words, these people were to be excluded from society.
This is why the West did not have a system like Japan’s even in the 13th century.

Now, Dokyo, who had been plotting to usurp the position of emperor, received an oracle from the god of Usa Hachiman Shrine in Oita and began saying, “I will be the next emperor”.
For more information on this story, please click here.
The Heian Capital and the Japanese Political System (1)

To confirm whether what Dokyo said was true or not, Emperor Shoutoku instructed Wake Hiromushi, Wake Kiyomaro’s sister, but unfortunately, Wake Hiromushi was ill at the time and not in a fit state to make the long journey.
He asked his younger brother Kiyomaro to go in his place.

Kiyomaro was 37 years old at the time.

Hearing this story, Dokyo immediately went to Kiyomaro and offered to give him the rank of minister.
This was also a threat: “If you defy me, you and your sister will die”.

日高川町で遊んできました We played in Hidakagawa Town

There is an English version in the second half.

前回の下見の記事はこちら
日高川町に下見に行ってきました

今日は和歌山地域通訳案内士会のメンバーと、日高川町で遊んできました。
まず、上阿田木神社(かみあたぎじんじゃ)で参拝をしました。
上阿田木神社は、922年に熊野権現からご神託を受けて寒川村に創建されたのを始めとし、さらにご神託があり、928年に現在の地に遷座されました。
主祭神はイザナミノミコトです。

境内には樹齢約450年の杉と桧が植えられており、荘厳な雰囲気を漂わせています。

また、舞台もあり、ここでは4月29日に開催されるお祭りで、ヤツハチや稚児の舞が奉納されるようです。

日高川町には、「日本一」が2つあります。

一つは、藤棚ロード、もう一つはヤッホーポイントです。

藤棚ロードは、みやまの里森林公園内にある、全長1646mにわたって藤が植えられている道で、その「藤のトンネル」の中をくぐりながら藤の花を満喫できます。

まだつぼみのところもありましたが、種類によっては満開を迎えているところもあり、十分に藤の花の美しさと香りを満喫できました。

ヤッホーポイントでは、子供たちが叫んでいました。
可愛かったです。
ここは「日本一」と謳うだけのことはあり、本当にキレイなやまびこが返ってきます。

ダム湖には鯉のぼりがかけられ、私たちは対岸から鯉のぼりを撮影。
鯉のぼり撮影のため、行ったことのない道をひたすら歩きました。
こういう予定にはない楽しみ方、大好きです。

季節性はありますが、外国の方にもぜひ来てもらいたい場所ですね。

Click here to see the article of the previous preliminary inspection.
I went to Hidakagawa Town for a preliminary inspection

Today, We had fun in Hidakagawa Town with members of the Wakayama Local Guide Association.
First, we visited Kamiatagi Shrine.
Kamiatagi Shrine was originally built in 922 in Sogawa Village after receiving an oracle from the deities of Kumano, and was moved to its current location in 928.
The main deity is Izanami no Mikoto who is the mother deity of Japan’s many deities.

The temple grounds are planted with 450-year-old cedar and cypress trees, creating a solemn atmosphere.

There is also a stage on which the Yatsuhachi and children’s dances are dedicated during the festival held on April 29.

Hidakagawa Town has two “No.1” places in Japan.

One is the Fujitidana Road and the other is Yoo-hoo Point.

The wisteria road is located in Miyama-no-sato Forest Park, where wisteria trees are planted over a total length of 1,646 m. Visitors can enjoy wisteria flowers as they walk through the wisteria tunnel.

Some of the wisteria were still in bud, but some were in full bloom, depending on the type, and we were able to fully enjoy the beauty and fragrance of the wisteria flowers.

At the Yoo-hoo point, children were shouting.
It was cute.
This place is only claimed to be “the best in Japan,” and it returns really beautiful yamabiko (echo).

Carp streamers were hung over the dam lake, and we photographed them from the opposite shore.
We walked along a road we had never been on before just to photograph the carp streamers.
I love this kind of unscheduled fun.

Although it is seasonal, I would love for foreign visitors to come to this place.

和気清麻呂 Wake-no Kiyomaro ②

There is an English version in the second half.

前回の記事はこちらをご参照ください。
平安遷都とシラス政治実現への思い①
平安遷都とシラス政治実現への思い②
平安遷都とシラス政治実現への思い③
平安遷都とシラス政治実現への思い④

最近では「シビリアンコントロールと言われ、軍人が政権を握るとロクなことがないことから、文官が政治をコントロールするという政策が取られています。

文官による政治が大事だと主張しているのは主に、現在では左翼の人たちや、戦後の教育界の人たちですが、なぜ、彼らは文官の英雄である和気清麻呂のことに触れないのでしょうか?

アマゾンで調べてみても、和気清麻呂について書かれた本は、西暦2000年以降では、久井 勲(ひさい いさお)氏の一冊があるだけです。

あとはまったく、和気清麻呂に関する本は出ていません。

シビリアンコントロールについて主張するなら、和気清麻呂のことをもっと研究してもいいのではと思います。

和気清麻呂は西暦733年の生まれです。
和気清麻呂には、3歳年上の和気広虫(わけのひろむし)というお姉さんがいました。
このお姉さんも非常に優秀な方で、岡山から奈良の都に上り、宮中の女官の采女(うねめ)になりました。
その後、15歳(今の14歳)で葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚をしました。
葛木戸主は大変優しい方で、当時、戦乱や飢饉などで親を失った子どもたちを養育し、彼らが成人すると葛木の姓を与える・・・ということをされていました。

これを、現代用語で「里親制度」といいます。

この里親制度は740年に始められました。
実は、これが世界で最初の里親制度だったのです。

For the previous article, please click here.
The Heian Capital and the Japanese Political System (1)
The Heian Capital and the Japanese Political System (2)
The Heian Capital and the Japanese Political System (3)
The Heian Capital and the Japanese Political System (4)

Recently, the policy of “civilian control” has been adopted, in which civilian officials control politics, because it is not a good idea for military officers to be in power.

It is mainly the leftists and those in postwar education who now claim that politics by civilian officials is important, but why don’t they mention Wake-no Kiyomaro, the hero of the civilian government?

A quick check of Amazon.com reveals that the only book written about Wake-no Kiyomaro since 2000 A.D. is one by Isao Hisai.

There are no other books on Kiyomaro Wake at all.

If one is going to argue for civilian control, it would be a good idea to do more research on Wake no Kiyomaro.

Wake-no Kiyomaro was born in 733 AD.
Wake-no-Kiyomaro had an older sister, Wake-no-Hiromushi, who was three years older than him.
This elder sister was also a very talented person, and went up from Okayama to the capital of Nara, where she became a courtesan, Uneme.
Later, at the age of 15 (today’s 14), she married Kutsuragi no Henushi.
He was a very kind man, and at that time, he took care of children who had lost their parents due to war or famine, and gave them the family name of Katsuragi when they came of age.

This is called the “foster parent system” in modern terminology.

This foster parent system was started in 740.
In fact, this was the first foster parent system in the world.

【紀伊路】紀伊宮原駅~紀伊内原駅

午後から雨の予報でしたが歩いてきました。
前回は紀伊宮原駅まで歩いたので、今回はここから湯浅駅、鹿ヶ瀬峠を越えて紀伊内原駅までの23.9kmを歩きました。

朝8:30に紀伊宮原駅を出発。
この時点でまだ薄曇り。
しかし、出発から1時間20分、逆川王子あたりから雨が降り出しました。
しばらくすると止みましたが、午後の大峠からは本降りの雨に。
傘だけでは追いつかず、久しぶりに上下カッパを着て歩きました。

今日のコースは、紀伊路の最大の難所・鹿ヶ瀬峠があります。
約2km登りますが、舗装されている道なので、個人的にはそんなにしんどくはなかったです。
結局、東の馬留王子から大峠(鹿ヶ瀬峠の頂上)まで、約30分で登りました。
大峠からは未舗装の道を約1km下ります。
この1kmの中には、熊野古道最長と言われる石畳、503mが含まれています。

・・・熊野古道最長の石畳って、大門坂(約650m)じゃね?

ま、いっか。

はっきり言って、湯浅駅から鹿ヶ瀬峠までの舗装道と、鹿ヶ瀬峠を越えたあとの舗装道は単独で歩くと本当につまらないです。
ここはやはり、語り部さんと一緒に歩くほうが、楽しさは何倍にもなりますね。

コースのほとんどが舗装道なので、ここを歩く時は膝を傷めないように注意してください。

なにはともあれ、15:00に目的地の紀伊内原駅に到着。
本日の所要時間は、6時間30分でした。

紀伊路を歩く時は、慣れていないと、地図とよくにらめっこをしながら歩かなければなりません。
そうしないと道を間違えます。
これは大辺路にも言えることです。
今日は地図を見ながら歩いていると、入らなければならない道を通り過ぎていました(笑)
今日は何度もそういったことが起こりました。
以前歩いたことはありましたが、まったく記憶に残っていないところもありましたので、やはり何度も歩いてコースを熟知しておかなければならないと思いました。

ということで、次回は湯浅駅から御坊駅まで歩きます。

もう一度鹿ヶ瀬峠です。

変態の域です(笑)