和歌山県、新型コロナ無料検査6月末まで延長 Wakayama Prefecture extends free testing for new Corona until the end of June.

There is an English version in the second half.

県は、新型コロナウイルスの感染に不安を感じている無症状の県民を対象にした無料検査を6月末まで1ヶ月延長すると発表したそうです。
以前にもお伝えしたかと思いますが、無症状者から感染をさせたという論文は発表されていません。また、検査には高額な費用がかかります。

通常の感染症では、ピークが来た後に急激に感染が収まるのですが、今回はなかなかその感染者数が減りません。
原因は4つ考えられます。

  1. 5類に指定していないため、いまだに濃厚接触者を追って検査しているため
  2. 精度の不確かなPCR検査を実施しているため
  3. そのPCR検査での「陽性者」を「感染者」と報道しているため
  4. 無料検査を実施している

以下の4つ(上記と逆のことをすること)でこの騒動は収まります。

  1. 5類に下げて、症状が出た人だけに検査をする
  2. PCR検査に変わる検査に変える(抗体検査)
  3. 「陽性者数」ではなく、症状が出ている「感染者数」を報道する
  4. 無料検査をやめる

今回の2年半の騒動は、マスコミの煽り報道が一番の原因であり「パンデミック」ではなく「インフォデミック」だと思います。

The prefectural government has announced a one-month extension of free testing for asymptomatic prefectural residents who are concerned about contracting the new coronavirus until the end of June.
As I may have reported previously, there have been no published papers showing that asymptomatic persons have been infected. Also, the tests are expensive.

In the case of ordinary infectious diseases, the number of infected people does not seem to be decreasing, even though the number of infected people rapidly decreases after the peak of the disease.
There are four possible causes.

  1. The tests are still being conducted on persons in close contact because the disease has not been designated as a Category 5 disease.
  2. PCR tests of uncertain accuracy are being conducted.
  3. Because the “positive” persons in the PCR tests are reported as “infected” persons.
  4. They offer free testing.

The following four things (doing the opposite of the above) will stop this racket.

  1. Lower the number to 5 categories and test only those who have symptoms
  2. Change to a test that replaces the PCR test (antibody test)
  3. Report the number of “infected” people with symptoms, not the number of “positive” people
  4. Stop free testing.

I believe that the most important cause of this two and a half year uproar is the media’s incendiary reporting, which is not a “pandemic” but an “infodemic”.

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅⑤

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

逆川王子

案内板より

藤原宗忠の日記、天仁二年(1109)十月十八日条に「逆河王子」と書かれているのが、最も古い文献です。

藤原定家は「サカサマ王子」と呼んでいます。

この王子は、江戸時代には、吉川村の氏神として祀られ、神主が置かれていたようです。

明治時代には村社となっていましたが、明治四十三年の神社合祀で、田村の国主大明神(現、国津神社)に合祀されました。

王子の名の由来は、定家が王子の近くを流れる川のことを「水が逆流しているので、この名がある」と日記に書いているように、付近の多くの川とは異なり西の海の方へは流れず、東へ流れていることから、逆川と呼ばれたのです。

方津戸峠(方寸峠)

案内板より

方寸とは「一寸四方の狭い所」の意味である。

この峠は、古来「方津々坂」「程遠坂」と呼ばれてきた。熊野参詣の旅人は、有田川を渡り、険しい糸我を越え、逆川王子社に参拝した。

峠に登ると、遠くには日高へ越える難所「鹿ケ瀬峠」、また眼下には湯浅と広の平野、青い海原、白砂と青松という絶景が一気に広がる。

熊野へは、まだまだほど遠いが、ここで一息を入れて、旅の疲れを癒やしたことと思われる。

また、平安時代の末期、当時の湯浅荘の地頭湯浅宗重は、熊野への要所である湯浅を本拠地にし、この峠の東側に有田地方で最古の「広保山城」を築き、紀州随一の強力な武士団を作り上げた。(後にさらに東の青木山に移転した)。

江戸時代(湯浅醤油盛況の頃)、大阪方面での醤油売上金移送には、湯浅から出向いた受取人に紀州藩の役人が付き添い、この峠まで来ると正装した湯浅の業者代表が出迎えに来て礼を述べるのが慣わしで、湯浅の玄関口であったという。

この案内板は、有田南ロータリークラブのものです。

今は道も舗装されていて何でもないところですが、当時は特に湯浅醤油盛況のころには重要な場所であったことが分かります。
案内板がないとそのまま通り過ぎるような場所なので、こういった看板があればありがたいですね。

写真の場所から道標に従って右に入ります。
私はこの道標を見逃して真っ直ぐ行ってしまい、しばらくしてから間違っていたことに気づき、戻りました。
ちなみに、真っ直ぐ行っても古道に合流しますが、随分遠回りになります(地図中のピンクの道)

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

糸我峠

峠ふもとの道標から約0.8km、20分で峠に到着します。
途中、一部未舗装の道があります。

案内板より

熊野参詣道紀伊路の有田市と湯浅町の跨る丘陵を南北に越えるのが糸我峠である。

古代からの交通の要衝地であり、「万葉集」七巻に「足代(あて)過ぎて 絲鹿(いとか)の山の桜花 散らずあらなむ 還り来るまで」と詠まれている。

「熊野御幸記」には、イトかの王子に参ず又険阻(けんそ)を凌ぎてイトか山を昇る」と記されている。

「平家物語」の巻第六「祇園女御」には、糸我峠における伝説が記されている。
平忠盛は白河院が寵愛していた祇園女御を賜っていたが、その女御は白河院の子を孕んでいたので、白河院は「生まれる子が女子であれば我が子にし、男子であれば忠盛の子にして武士にせよ。」と仰せになられた。

まもなく男子が産まれ、忠盛はそのことを奏上しようと思っていたが、適当な機会がなかった。

白河院が熊野御幸の途中、糸我峠に輿を据えさせてしばらくご休憩なされた。
その時、忠盛は藪にぬかご(山芋)がいくつもあったのを見つけてそれを採り、白河院に「いもが子ははふほどにこそなりにけれ」と申し上げた。
すると院は直ちにお気づきになり、「ただもり取りてやしなひにせよ」と後の句をお付けになられた。

忠盛は山芋にかけて女御が男子を産んだことを報告し、院もすぐに察知して連歌にてこれを詠まれた。

この時から忠盛は自分の子として養うようになり、その男子が後の平清盛であるという。

近世の様子として、文化8年(1811)発行の「紀伊国名所図会」に、「道を挟んで二軒の茶店があり、名産の蜜柑を貯へおきて盛暑のころ是を往来の人に鬻(ひさ)ぐ其氣味佳妙(そのきみかみょう)にして金掌玉露(きんしょうぎょくろ)にも勝るとして他郷の人ハ殊更に驚嘆す」との記述があり、現在と同じ場所に峠と一里塚や古道が描かれている。

現状の道は、有田市糸我から湯浅町吉川に抜ける里道であり、大部分は蜜柑栽培の作業道となっている。

峠から糸我側には七曲がりと呼ばれる地道が続いている。

峠から吉川側の道は、簡易舗装されているものの大規模な改変はされておらず、往時の計上を保持しているものと考えられる。

このように、糸我峠は、古代から交通の要衝地であり、和歌山県の歴史を考えるうえで重要な交通関連の史跡であるため、平成27年10月7日に国の史跡「熊野参詣道」に追加指定されている。

なかなか読みごたえがあります(笑)

歩いている時にこれをじっくり読んでいる人はおそらくいないでしょうね(笑)

しかし、この糸我峠にはそれだけのお話が詰まっているところであるということですね。

峠からの眺望はすばらしいです。

険阻とは地勢の厳しい様のことを言います。
藤原宗忠の中右記には滝尻の上りのことを「崔嵬険阻(さいかいけんそ)」と表現しています。
崔嵬とは岩がごろごろしていて険しい様のことを言います。
崔嵬(さいかい)
険阻(けんそ)

「名産の蜜柑を貯へおきて」は、蔵出しみかんのことでしょうか?
蔵出しみかん
しかし、蔵出しみかんの出荷は1月下旬とのことなので、また違うミカンのことでしょうかね。とても「盛暑の頃」までは持たないのでは?

また、峠には説明板にあった歌を刻んだ碑が立っています。

糸我峠を下りきったあたりに吉川老人憩いの家があります。
トイレもできます。

建物から想像するに、トイレの様子を想像してから実際に見ると結構キレイで、いい意味で期待を裏切ってくれます。
ベンチもあるので少し休憩もできます。
以前案内してもらった時は、ここでお昼を食べました。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

糸我稲荷神社

すみません、この神社については詳しいことは分かりません。
ただ、京都の伏見稲荷の創建よりも60年古く、日本最古の稲荷神社と言われているそうです。
そういえば、新宮の阿須賀神社境内にある稲荷神社も相当古く、こちらも日本最古と聞いたことがあります。
さらには、京都伏見稲荷はここから勧請されたという説を唱える人もいるとか。
ちなみに、奈良県の玉置神社の三柱神社は、この稲荷神社から勧請されたという記録が社伝に残っていると聞いたことがあります。

はたしてどちらが古いのかは分かりませんが、「相当古い」ということは確かなようです。

糸我稲荷神社楠の大木

説明板より

稲荷神社の楠の木は、記録によると明治十三年までは四本あったとされています。

現在は三本であるがその配置から見ると境内の四隅に計画的に植えられていたことがうかがえます。

三本とも樹勢は旺盛で、それぞれの幹の廻りは5メートルから6.5メートルに達し、樹齢も五百年以上を経ており、市内最大のものです。

鳥居に掲げられた「本朝最初」の扁額にふさわしく稲荷神社の歴史を物語る大木です。

糸我稲荷神社の隣には、くまの古道歴史民俗資料館があります。
ここで様々な熊野古道にまつわる情報が展示されていますが、あいにくこの日は休業日で入ることができませんでした。
開館時間は9:30~17:00。
水曜、木曜は定休日です。
・・・定休日。
それも二連休。
やる気の高さがうかがえます。

糸我王子

説明板より

藤原宗忠は、天仁二年(1109)十月十八日に、有田川に係る仮橋を渡って、伊止賀(いとが)坂を登っていますが、王子の名は、その時の日記には書かれていません。

それから約百年後、藤原定家は後鳥羽上皇の熊野御幸に随行して、「いとカ王子」に参っています。

「糸我王子」と正しく書いたのは、藤原頼資の日記です。
頼資は修明門院に随行して、承元四年(1210)四月二十五日に、この王子社に参拝しています。

糸我王子社は近世には廃絶していたらしく、「紀伊続風土記」に、「廃糸我王子」と記されています。

また、この付近には、江戸時代に「水王子社」と「上王子社」がありましたが、地元では、上王子社を糸我王子に比定しています。
両王子社は明治時代、稲荷神社合祀されましたが、平成七年愛郷会の人たちによって、当地に糸我王子として再建されました。

文中に出てくる「伊止賀」は、おそらく当て字でしょう。
近露王子を「近津湯」と書いているのもそうですね。
昔は、音に合わせて感じを当てることがよく行われていたようです。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅④に続きます。

亡国はそこまで来ている

紀伊民報の「水鉄砲」に、気になる事が書かれていましたので、それについて私なりに考えたいと思います。

要約すると、

  • イーロン・マスク氏が「日本は人口減で滅びる」とネットで発言をし、物議を醸している。
  • 人口減について大前研一氏は先進国では婚外子が多く、結婚は子供を持つ前提とは限らない。
  • 逆に日本や韓国では結婚が大前提になる。
  • 日本は結婚後に子供を産む社会通念が根強い。
  • 婚姻数が減れば出生数も減る。その原因は戸籍。
  • あとは移民による人口増が頼り。

人口減の原因

様々な要素が絡んでいると思いますが、一番の要因は晩婚化だと思います。
その晩婚化の原因は何かと言えば、女性の社会進出だと思います。
私はなにも、女性に「社会に出るな」と言っていません。
それこそ、今は機会平等なわけで、警察官にも自衛官にもなることができますし、ダンプカーの運転手にだってなることができます。
今は女性が求めさえすれば、その門戸は昔より開かれているのではないでしょうか?

ただ男女の頭数を合わせればいいというわけではありません。
そのことについてはこちらをご参照ください。
【歴史を学ぶ重要性】意識の転換が必要 The Importance of Learning History: A Shift in Consciousness is Needed

婚姻数が減ったのも、女性の社会進出が一番大きな原因でしょう。

また、働きに出れば社会的責任が発生します。
そうすれば、女性の負担は増える一方なので、今度はそのしわ寄せが家庭にいきます。
一日働いて疲れ果てて帰宅し、旦那さんも疲れてしまっている状態では、子作りの機会も当然減るでしょう。

家事と仕事、特にフルタイムの仕事との両立は無理です。

それに、保育園は税金の投入がなければ経営が成り立たないそうです。

データが平成24年のものなので古いですが、東京都府中市では、児童一人当たりにかかる保育料が月額で14万円(!)、うち国と都の負担が18,333円、市の負担が101,667円となっています。
保育所運営にかかる費用と在宅在宅育児手当について

その税金を、家庭で子育てをする主婦(家庭)に回すほうがいいと思うのですがね。

「主婦は税金を納めていないくせに」のような反論もありますが、子供を保育園に預ければ国や自治体が多額の税金を負担しています。
働いて税金を納める額より、国や自治体が負担する額の方が圧倒的に多いことを考えれば、どちらが国の財政を圧迫しているかが分かると思います。

戸籍廃止は亡国への道

人口減も大きな問題ですが、それよりも重大な問題がこの裏には潜んでいます。

外国人が参政する可能性です。

日本の政治は、日本人による日本人のためのものでなければなりません。

外国人が参政することによって、外国人に都合のいい法案が可決される可能性も十分あるわけです。

こうなれば、もはや日本が日本でなくなってしまいます。

戸籍がなくなれば、どこの誰かも容易に分からなくなります。
仮に、ここに外国人が選挙に出ても調べようがなくなるのです。

戸籍があるからご先祖さんも分かるわけで、海外では血統を調べる会社まであるくらい、血統を辿っていくことが難しいんです。

日本は昔から戸籍があり、日本の結婚は「家と家の結びつき」と考えられてきました。

戸籍がなくなれば、日本をどうにかして金儲けの道具にしてやろうという勢力が必ず出てくると思います。

大前研一氏は、人口減の要因は婚外子が少ないことだという。
また、婚外子が少ない原因が戸籍だと。

表向きはキレイごとですが、要は、彼の目指していることは「共産主義化」だと思います。
現に彼の主張は「選択的夫婦別姓容認」「移民政策容認」などがあります。
また、中国ともズブズブの関係のようです。
大前研一

夫婦別姓は家族や戸籍の破壊であり、国家の最小単位の家族の概念をなくすことが共産主義者の考え方です。
移民を受け入れれば、特に中国から大量の移民が日本になだれ込んできます。
そして戸籍を廃止し、外国人にも参政権を与えれば我が国はどうなるかは予想できるはずです。

移民による人口増は、あまりにも危険で幼稚な考え方です。
通訳案内士が少ないからライセンスなしでも許可しようという考え方も幼稚すぎます。

まずは物事の根本を直さないと、いつまでも新たな別の問題が起こります。
その問題を一時しのぎのために別の対策を講じる、そうすればまた別の問題が起こる・・・

いたちごっこです。

この記事に書かれている「亡国問題」の本質は人口減ではなく、共産主義化だと、この記事を読んで思いました。


【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅②

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

宮原橋を渡り、しばらくは有田川沿いを歩きます。
ここを、地図を見ながら歩いていると道標を見逃してそのまま真っ直ぐ進んでいました。

「謎解き」の看板はここでも健在でした。

得生寺

案内板より

得生寺記という古記録によると、天平宝字三年(西暦759)時の右大臣藤原豊成の女(むすめ)中将姫遭難の旧跡である。

当初中将姫の家士伊藤治時の創設した草庵が、後に一寺となり、安養庵と呼んだ。

時代が降って、室町時代に入り、西山浄土宗の名僧明秀光雲上人紀州に来り、文明年間(1469~1487)同上人によって改宗され、伊藤春時の僧名を寺号とし、雲雀山得生寺として今日に至っている。

現在の得生寺は、寛永五年(1752)四月、新田蓮坪の現在地に建立された。

寺内西正面に開山堂がある。堂内に中将姫を中心に春時(得生)夫妻が安置されている。

当寺では恒例の中将姫会式が、毎年五月十四日に勤修され、地元の子供達が二十五菩薩の姿となり、開山堂から本堂へ練供養をする。
会式当日は、善男善女で大へんな賑いであり昔から次の言葉で呼ばれている。

「嫁見するなら糸我の会式それで会わねば千田祭」

二十五菩薩練供養は、和歌山県無形文化財に指定されている。

俺も嫁見に行こうかな?

あ、俺には嫁がいてた(笑)

さて、もう一つの案内板に、上記の補足的内容が書かれています。

奈良時代の天平19(747)年丁亥(ひのとい)に時の右大臣藤原豊成卿夫妻が、長谷寺に祈願して誕生したしたのが中将姫で、姫が3歳の時に母の紫の前が亡くなり、7歳の時に父の豊成卿が照代の前を後妻に迎えました。

継母は次第に姫を憎むようになり、姫13歳の時に密かに伊藤春時という家臣に命じて、紀伊の国雲雀山で姫を殺害しようとしましたが春時はかえって姫の徳に打たれ、都より妻を呼び寄せ夫婦で姫を守り育てました。

3年後の天平宝字5(761)年に豊成卿が猟に来て姫と涙の再開を果たし、都に帰りましたが17歳の時に当麻寺(たいまでら)で剃髪して法如(ほうにょ)と名乗り、有名な当麻曼荼羅を織り上げましたが、宝亀6(775)年卯月14日に25菩薩に迎えられ、29歳で波乱に満ちた生涯を閉じました。

二十五菩薩とは、読んで字の如く25の菩薩ですが、こんなにいらっしゃるとは知りませんでした。
このなかでせいぜい、観音菩薩、虚空蔵菩薩、勢至菩薩くらいです。
二十五菩薩

さて、この説明文の中にある、伊藤春時が中将姫の徳に打たれたその「徳」とは、いったい何だったのでしょうか?
多分、この詳しいお話を語り部さんから聞いたと思うのですが、忘れてしまいました(笑)

同じ説明板に、二十五菩薩練り供養のことが書かれています。

毎年姫の命日に当たる5月14日に執り行なわれる来迎会式で、小学生たちが25菩薩に扮して、開山堂より本堂へ山内を練り歩く二十五菩薩練り供養は、昔からの仏教文化の一端を知る貴重な行事と言われています。

二十五菩薩練供養は、やはり中将姫ゆかりの當麻寺が有名のようです。
というか、現在各地で行われている練供養の元祖と言われていますので当然でしょうか。
こちらでも、やはり5月14日に練供養が行われていましたが、2019年以降は4月14日に改められたようです。
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)
當麻寺練供養(聖衆来迎練供養会式)PDF版

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅③へ続きます。

【紀伊路】紀伊宮原駅~湯浅駅①

以前に紀伊路の研修をお願いした時に、都合が合わずに参加できなかった部分があり、歩いた区間が飛び飛びになっていたので、山中渓からしらみ潰しに歩いています。

今回は紀伊宮原駅~湯浅駅までです。

本当は紀伊内原駅まで歩いたのですが、シリーズ化をするとかなりの長編になってしまうので、湯浅駅で一旦区切ります。

天神社

すみません、写真を撮るのを忘れました。

案内板より

天神社は学問の神様を言われる菅原道真公を祭る。

「流れ天神」の異名があり、室町時代(1488年)の有田川大洪水のとき、粟生村(現有田川町)の四社明神が流されこの地に漂着した。

一度は粟生村に返されたが、五年後の大洪水に天神社のみ再び流されこの地に漂着した。

以来五百年余りこの地の守護神として祭られ、熊野詣の人々もこの神前で旅の安全を祈ってきた由緒ある神社である。

祭日は毎年一月二十五日の初祭りと七月二十五日の夏祭りである。
七月二十四日の宵宮祭りは近在からの参拝者も多く夜店も出て夜空をこがす打ち上げ花火は夏の夜の風物詩として現在も継承されている。

再び流されてこの地にたどり着いたとは、よほどここの居心地が良かったのかもしれません(笑)

菅原道真公といえば学問の神様として有名ですが、遣唐使を廃止したお方です。
なぜ遣唐使を廃止したのかは、こちらをご参照ください。
唐との関係
菅原道真と遣唐使廃止

近くにもうひとつ、「熊野参詣道について」という説明看板があります。

山口王子社から宮原の集落を通り「宮原の渡」で有田川を渡り、糸我にいたる。

江戸時代紀州藩はこの道を官道とし、この宮原に宿駅をもうけ交通の要所とした。
ここは常に人や馬が準備されおおいに賑わった。

有田川畔の天神社のそばに「札場地蔵」とよばれる祠があり、有田川が増水したとき、ここの川止めの制札を建てたのである。

白倉山麓には重要文化財木造十一面観音立像のある広利寺、県指定法燈国師関係史料のある禅宗の円満寺が所在する。

また、県指定無形民俗文化財「有田川の鵜飼」は六百年前の応永年間に始められたともいわれ、「徒歩(かち)づかい」という特殊な漁法が伝承されている。

制札とは道や神社などに立てる札のことで、現在では禁止事項などを書いています。

鵜飼の漁法、徒歩づかいについてはこちらをご参照ください。
有田川の鵜飼

ごはんとみそ汁はすごい!

今回は健康についてです。

よく「ご飯は糖質が多いから控えている」と、ご飯をほとんど食べない人が多いようですが、むしろ逆で、ご飯を食べても太りません。

現在私は、給食で死ぬという本に書かれていた内容を参考に、ご飯に具だくさんみそ汁とぬか漬けをメインに、他のおかずは週に2回程度という食生活です。
その食生活で実際に毎食お茶碗に2杯ごはんを食べていますが、太る気配はまったくありません。

今回はCGSで非常にいい動画がありましたので、そちらをご紹介いたします。

ごはんとみそ汁はすごい!

  • 〆のごはんとみそ汁は胃もたれを防ぎ胃腸を整える
  • おかずの比率が増えると栄養のバランスが崩れやすくなる
  • ごはんとみそ汁でアミノ酸スコアが100になる
  • 子どもが野菜を食べないのは、その野菜の質の問題
  • 普段は一汁一菜でOK

やはり日本人には米と大豆発酵食品であるみそ汁が最高の食事のようです。

また、ごはんを増やすことで食費も抑えられます。「今晩何にしようか?」と頭を悩ますこともありません。

「シンプルにして質を上げる」という発想の転換が必要です。https://youtu.be/QZDrZZufHDM?t=58

ご参考にされてください。

【外国人受け入れ】岸田首相は「やっているふり」か?

政府は、6月から外国人観光客の受け入れを再開すると発表しました。
インバウンド業界には明るい兆しかと思いきや、どうもそうではないようです。

まずは5月中にアメリカ、タイ、オーストラリア、シンガポールの4ヶ国から限定的に受け入れて「実証事業」をするとのこと。

6月以降はワクチン3回接種や民間医療保険に加入した団体客を受け入れるという。
外国人観光客の受け入れを”極めて慎重に”再開

「ワクチン3回」とか、あれだけ効果がないものを基準にするとか、あり得ないですね。
政府としては、受け入れに際して何らかの基準を設けておかなければ、万一感染が爆発すれば批判の対象になるからでしょうね。

Yahooニュースにも書かれているように、マスクにしても依然慎重姿勢を崩さない岸田。
しかしその本人は、先日のフィンランドのマリン首相との会談ではマスクの着用をお願いするどころか、自分まで外している始末。
国民にはマスクをしろといい、外国人には何も言わない。

外国人を受け入れると言いつつ、極めて限定的で慎重姿勢。
本気で経済を回すという考えはなく、選挙前の支持率維持しか見ていない。
これが現在国政を担っている政治家の姿です。
これでは「政治家」ではなく「政治屋」です。

自民の支持率は依然高い状態だと言いますが、これまでもマスコミの偏向報道から考えて、はたしてこれが本当の数字なのか疑わしいですが、もしこの数字が本当であれば、岸田は今回で支持率維持の秘訣を得ましたね。
内閣支持率

「総理になったら”極めて慎重に”何もしない」

次回の選挙、それでもこんな自民党に投票しますか?

【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑭

前回まではこちらをご参照ください。
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽①
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽②
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽③
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽④
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑤
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑥
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑦
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑧
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑨
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑩
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑪
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑫
【紀伊路】山中渓~伊太祈曽⑬

伊太祁曽神社

平緒王子から以前は小栗橋を渡ったのですが、あいにくこの日は工事中で橋がありませんでした。
もっと手前で知らせて欲しかったです。
橋まで来て「通行止め」ってひどくないですか?

仕方なく、また来た道を戻り、迂回して伊太祁曽神社を目指しました。
コンビニのところから真っ直ぐ行けば伊太祁曽神社だったのですが、地図で示している正規のルートを通って行きたかったので、ぐるっと迂回しました。

ここでまた迷いました。

六地蔵が見当たりません。

多分間違ったのでしょうが、以前通った道まで出ることができたので、何とか伊太祁曽神社にたどり着くことができました。

この地図、分かりにくい。

伊太祁曽神社については、こちらをご参照ください。
伊太祁曽神社の御由緒について
伊太祁曽神社、読み方は「いたきそ」なんですね。
で、駅の名前が「いだきそ」

神社の名前も、駅の名前も一緒だと思っていたので、いったいどっちが正しい呼び名だろうかと思っていましたが、呼び方自体がそれぞれ違っていたんですね。

話はそれますが、「橋杭岩」を何と呼びますか?
「十津川村」は?

正解は「はしぐいいわ」「とつかわむら」です。

だいたいの人は「はしくいいわ」と言いますが、正式には「はしぐいいわ」です。
地元人は「はしぐい」と呼んでいます。
また、潮岬は「みさき」と呼んでいます。

「十津川村」は、「十津川警部」の影響からか、「とつがわ」と呼ぶ人がいますが、「とつかわ」です。

大鳥居

案内板より

明治十九年の記録によれば「大鳥居神明造柱廻り六尺三寸横巾三間壱分高サ三間九分」とあり、現在とほぼ同じ大きさであったこ事が窺える。

昭和十二年の御造営で現状の神明鳥居に変更されて以来、八十有余の星霜を経て老朽化が進み倒壊の恐れがあった。

折しも第六十二回伊勢神宮式年遷宮の古材の譲与に預り、鳥居の修繕を計画した次第である。

この鳥居の柱の下部分は今までの鳥居の木材を再利用し、上部分に伊勢神宮の古材を繋ぎ合わせ伊勢神宮と当社を融合した形で完成した。

尚笠木・島木・貫の腐食部分は埋木をすることにより原型の保持に努めた。

鳥居の名称に関する情報はこちらをご参照ください。
神社人 鳥居について

「埋木(うめき)」とは、補修方法の一つで、腐食した部分を切り取り穴を空け、そこに新材を埋め込む工法のことです。
他にも「矧木(はぎき)」「継木(つぎき)」などがあります。
修理工事こぼれ話④ 補足木材調査

伊勢の神宮の鳥居は式年遷宮の後に、日本各地の神社に「おすそ分け」をします。
もちろんですが、お伊勢さんのお下がりともなれば競争率が激しく、なかなか回って来ないそうです。
ちなみに、田辺の闘鶏神社の一の鳥居も、お伊勢さんからのお下がりです。

こうして、お伊勢さんで役目を終えた用材は日本各地で再利用されています。

日本では、とっくの昔からこうして自然の恵みをありがたく利用していたのです。
また、神社建築用材の森では植林もされています。
檜皮葺用の桧もこのような森の桧から利用されることが多いです。

SDGsなんて、いまさら世界が何を言っているの?って話です。
むしろ世界が遅れていたのです。

現に、過去に文明があったとされるところはことごとく砂漠になっています。

昔は森だったものが、木を切り尽くした結果砂漠化が起こったのです。

このように、外国では木を一旦切ってしまえば切りっぱなしで植林はしません。
なのではげ山になっています。
このことは、実際に海外の複数のお客様からも同じ話を聞きました。

なので、SDGsなんて、日本からしたら大きなお世話ですよ(笑)
日本ではとっくの昔からやっていることです。

SDGsは単なる利権がらみのプロパガンダです。
これを推進することにより、大儲けを企んでいる勢力があるってだけのことです。

SDGsについては、こちらをご参照ください。
SDGsが世界を破壊する①

伊太祈曽駅

和歌山電鐵貴志川線の駅。
なんとも味わいのある駅舎です。

この日はスーパー駅長よんたまは不在でした。

しかし、たま電車を見ることができました。
・・・これ、タマ電車ですよね?
でもちょっと違うような・・・
たま電車ミュージアムと書かれています。

車内はゴージャス。

あ、私が乗ったのは「うめ星電車」でしたが(笑)
うめ星電車

乗車すると、2両編成の2両目は中学生の遠足の帰りか何かで満員御礼。

かなりの賑わいでした。

いや~、こういう企業努力されているところは応援したくなりますね。

ということで、山中渓~伊太祈曽シリーズがこんなに長くなるとは思っていませんでした(笑)

またこんな形で別のコースについてもご紹介できればと思っています。